人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(33c)ソニー・クラーク(p)

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いよいよ1957年、ソニー・クラークはL.A.からN.Y.に進出する。この6年後には不慮の事故から死んでしまうのだが、プロ歴4年、アルバム吹き込み20枚の実績を引っ提げた26歳の青年ピアニストの夢はどれほど大きかっただろうか。
クラークがL.A.出身でなかったらどうだろうか、たとえばシカゴ、ボストン、N.Y.出身だったら?L.A.には地元だけでやっていけるマーケットがあった(それはシカゴやボストンもそうだった)。アート・ペッパーほどの大物はデビュー25年年にして初めてN.Y.の土を踏んだ。
ペッパーはじめホーン奏者の場合はフロントマンたる華がないとなかなか仕事はないが、リズム・セクションのミュージシャンはその点小回りがきいた。クラークのN.Y.進出第一作はソニー・ロリンズの「サウンド・オブ・ソニー」57.6で、同月ブルー・ノートに「ハンク・モブレー」、翌月チャールズ・ミンガス「ミンガス・スリー」に1曲のみアルバムのメイン・ピアニスト、ハンプトン・ホウズと連弾で参加。これはやはりL.A.出身の先輩ホウズのアパートにクラークが居候していて、暇なのでくっついて来たらしい。
ブルー・ノート・レーベルにはお眼鏡がかなって、同月リーダー作第一作「ダイアル'S'フォー・ソニー」(画像1)が録音される。3管セクステットでユニークなアレンジが光る、デビュー作としては前途有望な、上乗の出来だった。

だが当時N.Y.には仕事にあぶれたジャズマンが溢れていた。先輩ホウズやクロード・ウィリアムスンすら。ジャズのレコード売り上げは微々たるものだから、クラブ出演の収入が重要になるが、新参者のクラークが割り込めるのはレコード録音しかなかった。しかもクラークには前科があり、クラブ出演許可証が下りなかった。ブルー・ノートは57年だけで14枚のアルバムにクラークを起用し、リーダー第二作「ソニーズ・クリブ」(画像2)はジョン・コルトレーンの参加によって前作を上回る傑作となり、第三作「ソニー・クラーク・トリオ」(画像3)も好ましいピアノ・トリオの快作になる。ブルー・ノートにとってもクラークの才能は重宝だったろうが、クラークも年間14枚のアルバム録音がなければ生活できなかった、ということだ(ちなみにジャッキー・マクリーンは同57年に19枚のアルバム録音がある)。これはいくら何でも、そう何年も続かない。