一般に日本の敗戦後の詩史は合同年鑑詩集「荒地」に集まった詩人たちから始まるとされる。中心となった鮎川信夫(1920-1986)、田村隆一、北村太郎らは戦前、10代の頃からモダニズムの少年詩人として交友があり、大平洋戦争の開戦とともに20代を迎えた時には確固とした思想的形成をなしとげていた。「荒地」はもちろん、現代文明の崩壊を展望したT.S.エリオットの長編詩『荒地』1922を自分たちの指標にグループの総称とした。
今回ご紹介する『死んだ男』は昭和22年2月発表、鮎川26歳の作品。ビルマで戦病死した戦前の詩友・森川義信(1918-1942)に戦後の光景を尋ねている。森川の作品『勾配』は鮎川の方向性を決定した。
「非望のきわみ/非望のいのち/はげしく一つのものに向って/誰がこの階段をおりていったか」(森川義信『勾配』冒頭)
すでに一冊を越える作品を持っていた鮎川だったが、詩集の巻頭作品は必ず『死んだ男』を再録した。これが戦後詩の最初の一篇たる重みは揺るぎない。
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『死んだ男』
たとえば霧や
あらゆる階段の足音のなきら、
遺言執行人が、ぼんやり姿を現す。
--これがすべての始まりである。
遠い昨日……
ぼくらは暗い酒場の椅子のうえで、
ゆがんだ顔をもてあましたり
手紙の封筒を裏返すようなことがあった。
「実際は、影も、形もない?」
--死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった。
Mよ、昨日のひややかな青空が
剃刀の刃にいつまでも残っているね。
だがぼくは、何時何処で
きみを見失ったのか忘れてしまったよ。
短かかった黄金時代--
活字の置き換えごっこや神様ごっこ--
「それがぼくたちの古い処方箋だった」と呟いて……
いつも季節は秋だった、昨日も今日も、
「淋しさの中に落葉がふる」
その声は人影へ、そして街へ、
黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。
埋葬の日は、言葉もなく
立会う者もなかった
憤激も、悲哀も、不平の柔軟な椅子もなかった。
空にむかって眼をあげ
きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。
「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」
Mよ、地下に眠るMよ、
きみの胸の傷口はいまでもまだ痛むか。
(「鮎川信夫詩集」1955)