人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(33d)ソニー・クラーク(p)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

58年のクラークはまず後の大ヒット作「クール・ストラッティン」(画像1)を録音する。日本ではジャケットのムード(足首太くないか?)と相まって相当なプレス枚数を売りつくしたと思われる。フロントもアート・ファーマージャッキー・マクリーンで悪いわけがない。だがこのアルバムは本国では初回プレス300枚ですら10年経っても売れ残っていた。
世界的にもクラークが評価されるきっかけになったのが1986年のマウント・フジ・ジャズ・フェスティヴァルで、ブルー・ノートゆかりのジャズマンが昔の曲をやる、と『クール・ストラッティン』を始めるやいなや爆発的な歓声に、アメリカのスタッフもミュージシャンも唖然とした。「人のことは言えないが、アメリカじゃ誰も知らないぞ」

61年の録音は9枚に減少。うち2枚のピアノ・トリオ作品もボツにされる。59年に早々「マクリーンス・バッグ」とまたもやボツ作「マイ・コンセプション」を置き土産に60年~61年半ばは専属レーベルに属さず、雑多なアルバム参加が続くが、ひょんなことからタイム・レーベルに最高傑作と名高い「ソニー・クラーク・トリオ」1960(画像2)を録音する。ブルー・ノートではローチとの競演はなかった。ブルー・ノートのハウス・ドラマーたるアート・ブレイキーの派手なドラミングが良くも悪くもブルー・ノートだった。ローチはずっと精密で鋭いドラマーだった。このアルバム、曲はほぼ全曲をボツになった「マイ・コンセプション」からピアノ・トリオで再演したもので、この時クラークは演奏も作曲も生涯のピークだった。

61年には再びブルー・ノートと契約し、マクリーンの「フィックル・ソーナンス」を代表にマクリーン、デクスター・ゴードンのセッション、さらに単音しか弾かない名物ギタリスト、グラント・グリーンの「ボーン・トゥ・ビー・ブルー」はじめ4作に参加。マクリーン盤にはクラークの新曲が含まれるが、クラークの窮乏を話してセロニアス・モンクの未発表曲をいただいてきたものだという。モンク名義のほうが話題になったろうに。クラーク最後のリーダー作「リーピン・アンド・ローピン」(画像3)は61年録音。62年には半年間入院し、63年1月、もぐり出演中のクラブの楽屋で心臓麻痺死しているのを発見。クラブの従業員は死体をクラークのアパートまで運んでから通報した。