人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(34e)ハンク・モブレー(ts)

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いよいよモブレーも最終章。すぐには調子が出ないだろう、と判断されたようで、「アナザー・ワークアウト」61.12、「ストレート・ノー・フィルター」63.5の2作はボツになる(後年発売)。カムバック作「ノー・ルーム・フォー・スクェアズ」63.10(画像1)はピアノにアンドリュー・ヒルを迎えた意欲作。サイドマンだから当然だが、翌年のヒルの「ポイント・オブ・デパーチャー」のケニー・ドーハムエリック・ドルフィージョー・ヘンダーソンの3管フロントほどすさまじくはない。だが次作「ザ・ターンアラウンド」は1年半後の65年2月、サイドマン参加作4枚を挟んで65年6月の「ディッピン」(画像2)がポップ曲のカヴァー『リカードボサ・ノヴァ』でからくも話題作に、など活動にムラが多くなる。これはリー・モーガン参加で、モーガンは元々勢いの人だから不思議ではないが、「リーダーはおれなんだから」とばかりに迫力のブロウをするモブレーには頼もしさと違和感の両方を感じる。モブレー自身が自分のかつての持ち味から脱却しようとして苛立っているように聴こえるのだ。

60年代後半はアルバム録音はアメリカだがライヴ活動はヨーロッパが主になった。67年までにリーダー作5枚、参加作7枚を数え、68年1月にモータウン曲のカヴァーをタイトル曲にした「リーチ・アウト!」(画像3)が最後の話題作となり、69年7月の「ザ・フリップ」が最後の新作で、フランスのBYGレーベルに録音されたアーチー・シェップの「黒人女ヤスミナ」「マルコムに捧げる詩」(ともに69年8月)にゲスト参加した後ブルー・ノートに「シンキング・オブ・ホーム」70.7を録音するもボツ。そして1954年以来のブルー・ノートとの契約は終了した。病気のため渡欧も70年が最後になる。

70年代半ばからアメリカ本国でも50年代ジャズの再評価が起り、半引退ジャズマンのカムバックも増え、再発売されたアルバムや未発表アルバムも新しいリスナーに迎えられた。80年代にはいよいよ50~60年代ジャズの再評価は高まり、往年のジャズマンを集めたフェスティヴァルが世界各地で行われた。
だがモブレーは72年2月録音のシダー・ウォルトン(ピアノ)との連名作「ブレイクスルー」が早すぎる遺作となる。通算101作。85年、55歳の死去まで復帰を望んでいたが肺病がそれを許さなかった。