人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(補13d)ジョー・ヘンダーソン(ts)

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Joe Henderson(1937-2001,tenor sax)。
この時期のブルーノート社の新人は才能の宝庫と言ってよく、これほどのエリート集団が弱小インディーズに集中した例は後にも先にもこの時期の同社ならではかもしれない。ブルーノート社はジャズの代名詞のように語られることも多いがそれを言うならサヴォイやプレスティッジのようにろくにギャラも払わず、アルバム制作も行き当たりばったりというレーベルこそが当時のジャズ事情を現していた。ブルーノート社専属であることは恵まれていたことだったのだ。

ヒルの「離心点」の翌月に早くも、ヘンダーソン自身の第3作、
In 'N Out(画像1)64.4.10
-が録音される。これもケニー・ドーハムとのコラボレーションで、ヘンダーソン4曲、ドーハムは2曲。ピアノとドラムスが、当時コルトレーン・カルテットのマッコイとエルヴィンなので、フロントの二人は気迫で圧されている印象もなけはない。

グラント・グリーンの「ソリッド」を挟んで、
Kenny Dorham:Torompeta Toccata(画像2)64.9.14
-はドーハムのブルーノート契約満了アルバムになった。ピアノはトミー・フラナガン、ドラムスはアル・ヒースでドーハムとしては目一杯最先端のジャズに挑んだ意欲作で、試みは成功している-だが契約延長はされず、72年の逝去まで、ドーハムは一枚きりのアルバムしか作れなかった。ヘンダーソンとのコラボレーションもこれが最後になった。ドーハムはまだ38歳でジャズ界から引退したことになる。素晴らしい才能と十分な業績がありながら、あまりに不遇な晩年といえた。

ブルーノート社は看板アーティストであるホレス・シルヴァークインテットの新作を63年10月にアルバム半分まで録音していたが、社長命令でシルヴァー以外は若手にメンバー交替させられる。それが、
Horace Silver:Song For My Father(画像3)64.10.31*
-で、スティーリー・ダンが『リキの電話番号』でリフを流用したタイトル曲にせよ、'Que Pasa','The Kicker'にせよ、佳曲はヘンダーソン入り新人バンドに集中している。旧メンバーの人気を思うとあまりに無情な観もあるが、新メンバーはライヴにも起用されることになる。