人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

偽ムーミン谷のレストラン[集成版(1)-(20)]

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(1)
 ムーミン谷にレストランができたそうだよ、とムーミンパパが新聞から顔を上げると、言いました。今朝のムーミン家の居間には、
・今ここにいる人
・ここにいない人
 のどちらも集まっています。それほど広くもない居間に全員が収まるのは、ムーミン谷の住民は人ではなくトロールで融通が利くからです。
 そうだ、わが家は食事のふりならずっとしてきたが、それは家庭という雰囲気の演出のためであって実際に食事をしたことはない。そうだねママ?
 そうですよ、とママはおっとりと答えます。
 私がパイプをくゆらせ安楽椅子で新聞を読んでいるのもそうだ。読売新聞ムーミン谷版は半年に一度しか出ない。半年に一度の紙面を年中読むのを新聞と呼べるだろうか。ムーミン谷にはタウン誌というものもないのだ。
 それで、ねえパパ、新聞にレストランができたって載ってたの?と偽ムーミンが無邪気を装って尋ねます。その頃ムーミンは全身を拘束され地下の穴蔵に幽閉されていました。
 かなり冷え込み、また拘束のストレスもあり恒温動物なら風邪をひくような環境ですが、トロールなのでただ動けないだけです。容貌は瓜二つなので、なにか弱みを握るたびに偽ムーミンムーミンを脅して入れ違い遊びをしてきましたが、弱みを握られる側にも落ち度があると考えて現状を肯定してしまう卑屈さがムーミンにはありました。
 ねえ、レストラン行くの?と再び偽ムーミン。よく見ると頭部のつむじにあたる部分からアホ毛が三本生えていることでも偽物だと気づくはずですが、ムーミン谷の人びとは細かいことは気にしません。
 そこだよ問題は、とムーミンパパ。レストランに行くには、あらかじめいくつかの条件がある。まず正当な連れがいること、これは問題はない。ムーミン一家だからな。正当な連れ?おかしな組み合わせでレストランに入ったら変だということだよ。たとえばママがスナフキンとミイの三人でレストランに行ったらミイをアリバイにした不倫のように見えるだろう?
 あなた止めてくださいよ、とムーミンママがおっとりたしなめます。
 なら簡単に言おう。ムーミン、きみはお腹が空いたことがあるか?
 うん。そうか。でも一家で食卓につくともう空腹ではなくなるだろ?私たちムーミントロールは食事のふりをするだけでいいのだ。だがレストランでは実際に料理を食べなければならないのだぞ。

(2)
 案外手間はかからなかったようだな、とムーミンパパはレストランのドアの前に立ち、ムーミンムーミンママを振りかえりました。ムーミン、実は偽ムーミンムーミン家の居間の会話中、危険を察してトイレに立ち、本物のムーミンと入れ替わっていたのです。
ムーミンが抱いた疑惑とは主に、
・情報源があやしい
・謎のレストランという設定がくさい
・特上の料理が出る
・挙句に食材にされる
 その根拠としては、半年に一度の新聞が今朝届いたとは思えませんし、ムーミンパパの頭はどうも不思議な電波を拾っているらしい。顧客を肥らせ食材にする話はいくつか知っている。偽ムーミンムーミン谷の公立図書館に隠れて勝手に住んでおり、女性司書とも肉体関係があるので耳年増なのです。ムーミン谷の識字率は小数点を越えてマイナス値に達していますので、これほど偽ムーミンに好都合な施設はありません。
さらに、
ムーミン谷には通貨がない
 --というのも偽ムーミンの抱いた疑惑の根拠でした。正確には現在は通貨がないが、過去には1ムーミン2ムーミンという単位が存在していたらしい。だがこれはかつて貨幣経済が行われていた、というよりも人身売買経済がムーミン谷の制度だったのではないか、と半ばタブーになっています。おそらくそれはムーミン族が高次意識体たるトロールに到達する前で、食事や運動、買い物、排泄、性交、入浴などはトロール化以前の生活習慣の名残ではないか、と偽ムーミンは性交中に女性司書から教わりました。そんなの学校じゃ習わなかったよ。学校で教わることなんてみんなウソなのよ(笑)。
 ただし偽ムーミンはおいしいところはいただくつもりでしたので、注文が済んだらトイレに立つようにムーミンを脅してありました。トイレで入れ替わり、食事が済んだら食後のコーヒー中にまたムーミンと入れ替わる。そうすればお勘定は1.25ムーミンでございますという事態にも居合わせずに済む。家族三人の片足・片腕ずつでいいかね?それでは勘定に合いません。パパどうするの?何ならいいのかね?臓器などはいかがでしょうか?
 それに若い臓器ほど高くお引き取りいただけます、と偽ムーミンは想像し、親友の不運に憐憫を禁じ得ませんでした。
 その頃、ムーミンパパはメニューを開いて給仕に尋ねておりました。はい、と給仕、それはロールシャッハ・テストと申します。

(3)
 ……気まずい沈黙が流れました。無礼者、それがムーミン族の長たる私への答えか!とテーブルの上に片足をあげて恫喝の態度に出かねないのがムーミンパパの性格です。能もないのにブライドだけは高いんだから、この野郎と、ムーミンママはエプロンの裏に隠したフライパンの柄を握りしめました。ムーミンパパがムーミン谷の長というのは都合のいい時だけ持ち出してくる理屈で、ムーミン谷はその呼称からもわかるようにムーミンの存在を中心とした空間でした。
 だからといってムーミンがいなければ存在しなかった世界ではなく、元始からスナフキンスナフキンであり、ニョロニョロは目障りな場所に野生し、ミイは昔から金切り声をあげていました。ムーミンパパとムーミンママもそうです。ムーミンに合わせてお茶の水博士に造られたような存在ではなく、人の世のパパやママが潔く子供を基点にした関係代名詞的呼称を受け入れているのと事情に差はないことでした。
 しかしこのトロール棲息特区が代表的個体の名称に基づいてムーミン谷と公称されるからには、ムーミンパパが一族の長と自称し増長するのも無理からぬことです。目に余る事態に至ればムーミンママの適切な判断で頭部にフライパンの一打が下され、人格の初期化が行われてきました。その技は居合の達人級ですので、ムーミン谷の人びとには一瞬ムーミンパパの表情が硬直し、それまでの饒舌が突然寡黙になる現象、としか見えません。
 ただしムーミンママは別にこれを隠れて行っているつもりはないので、偽ムーミンが隠し撮り解析してそれとなく脅迫した時もふふ、どうかしらね、と退けることができました。別に露呈してもムーミン谷の秩序を揺がすような秘密ではないからです。かえって偽ムーミンの方が立場を危うくするのに気づき、以後はムーミンママの挙動は一切不問に付すことにしました。
 レストランの食事に期待がかかるのも図書館司書はコンビニ弁当以外の食事を出しませんし、ムーミン家の食卓は虫のついたままのサラダや腐臭のするスープ、吸殻や毛や輪ゴムの入ったコロッケやハンバーグなどで、これはムーミントロールは食事の必要はなく毎日生ゴミにしては料理しなおしているからです。まともなのはインスタントコーヒーくらいでした。
 その頃レストランではようやく具体的に注文をまとめる決議が取り行われておりました。

(4)
 ムーミンパパは給仕からメニューの仕組みを聞き出すと、注文が決るまで下がってよろしいと紳士的な態度でしたので、ムーミンママも安心して凶器から手を離しました。ごめんなさいあなた、私難しくてちゃんと聞いてなかったの。
 ぼくも、とムーミン。やれやれママはともかく中学受験も控えて、それでは困るぞ。ムーミンはやはり偽ムーミンの脅しから入れ替わり、大半の授業は習えずに進級したので、釈明できないことでした。
 要するにここのメニューはロール……ロールシャッハ・テスト方式なのだ。ムーミン谷の住人は、見栄は高いが読み書きはまるでいかんからな。テストって何?この図形が何に見えるか、だよ。たとえば私には豚の骨盤に見えるが、それではあんまりなのでスペアリブのフルコースにした。
 ぼくには蝶々に見えるよ。私は潰れたヒキガエルに見えますけど。それは困ったな、とムーミンパパは給仕を呼び止め、今流れているのはなんていう歌かね?少々お待ちください。パパが時間稼ぎするからその間に考えるのだぞ。
 給仕はLPのレコード・ジャケットを持って戻ってきました。解説書を取り出し、先ほどお客さまがお尋ねになった曲はこれです。
*
「ここからぬけだす道があるはずだ」と/ぺてん師がドロボウにいった/「あまりにもややこしく息つくひまもない/経営者たちはおれのブドー酒をのみ、/農民たちはおれの土地をたがやす/そいつらのだれひとりとして/そのことの価値をしらない」

「そう興奮しなくてもいいさ」/とドロボウはいたわって、いった/「おれたちの仲間でも多くのやつが生きることは/ペテンにすぎないとおもっているさ/だがあんたとおれはそんなことは卒業したし、/これはおれたちの運命じゃない/ウソをしゃべるのはよそう夜がふけてきた」

見張塔からずっと王子たちが見張っていた/すると女たちはみんな出たり/はだしの召使いたちもそうしていた

とおくのほうではヤマネコがうなった/ウマにのった男がふたり近づき/風がほえはじめた
*
 私は外国語は読めんが、とムーミンパパ、どうもこれは違う歌詞のようだぞ。翻訳でございますから。翻訳?外国語を別の外国語にしたものでございます。臆病者をチキンと言うようなものかね。まあそんなところでございます。
 私チキンソテーにします、とムーミンママ。ぼくも、とムーミン

(5)
 注文を終えて安堵した様子の両親にムーミンは自分も何か言おうとしましたが、その時ふと気づくと、ムーミンパパもムーミンママもあらぬところを凝視しているので、つい忘れて自分もそこに見入りました。
 ムーミンパパは気を取り直し、そうだねママ、それにムーミン、と息子に目をやると宙の一点を見つめているので、はて、と自分も目をやります。
 ムーミンママもハッと気づきましたが、とかく突飛な言動が目立つ夫はともかく息子までが夫と同じ虚空に目を凝らしているのは尋常と思えず、同じ視線の先を見つめました。
 見つめるうちにムーミンもハッと気づきました。何か大事なことにです。
 それをきっかけにつられてスノークも見つめました。つられてフローレンも見つめました。つられてヘムレンさんも見つめました。つられてヘムル署長も見つめました。つられてスティンキーも見つめました。つられてミイも見つめました。つられてミムラも見つめました。つられてジャコウネズミ博士も見つめました。つられてトフスランとビフスランも見つめました。あのスナフキンすらつられて見つめました。
 それでもやっぱりムーミンは自分も何か言おうと思いましたが、ムーミンパパもムーミンママもあらぬところを凝視しているので、つい忘れて自分もそこに見入りました。
 ムーミンパパは我にかえってふたたび妻子に目をやると、やはり宙の一点を見つめているので、はて、と自分も視線を戻します。
 ムーミンママもハッと気づきましたが、夫の奇行は病癖としても息子までが夫と同じ虚空に目を凝らしているのはやはり尋常とは思えず、ふたたび同じ視線の先を見つめます。
 見つめるうちにムーミンもハッと気づきました。今度は忘れるとやばいことでした。しかしその目は宙の一点にすえたままです。
 それをきっかけにまたもやスノークも見つめました。またもやフローレンも見つめました。またもやヘムレンさんも見つめました。またもやヘムル署長も見つめました。またもやスティンキーも見つめました。またもやミイも見つめました。またもやミムラも見つめました。またもやジャコウネズミ博士も見つめました。またもやトフスランとビフスランも見つめました。あのスナフキンすらまたもや見つめました。
 ですが、みんなが視線の先の空間に気をとられている間に、陰謀は着々と進行していたのです。

(6)
 ではご主人さまはスペアリブ、奥さまとお坊ちゃまはチキンソテーをメインに、すべてフルコースでよろしいですね、と、給仕。
お坊ちゃまですって、笑っちゃうわよねー。やめなさいミイ、と姉のミムラがたしなめます。だーってみんな笑いをこらえているじゃない、とミイが言う通り、ムーミン谷の人びとは爆笑寸前とまではいかずとも、おのおのの形態に応じて苦笑や失笑の体を呈しておりました。もちろんレストランの中でです。物見高いムーミン谷の人びとは毒を食らわばとばかりに、こんなところまでムーミン一家についてきたのでした。
 物置小屋程度のレストランだったのにはさすがのムーミンパパですら一瞬驚きましたが、そこはトロールですから状況に応じた縮尺になれば良いのです。また、トロールは不可視にも不感知にもなれますから、ムーミン谷中の人びとが壁や天井からムーミン一家の一喜一憂を見学しているのを、ムーミン一家の三人は知りません。
 それでもカンとは働くもので、給仕が厨房に去り、ははは、ご主人さまと奥さま・お坊っちゃんときたもんだ、まるでわれわれは人間みたいではないか、と笑いながらもムーミンパパの目はなんとなく空中を向いていました。
 あら、けっこうなことじゃありませんか、とムーミンママも微笑みましたが、ムーミンパパの視線に気づくと、なぞるように宙に目をやります。
 両親のやり取りを聞いていたムーミンは自分も何か言おうと思いましたが、ムーミンパパもムーミンママもあらぬところを凝視しているので、つい忘れて自分もそこに見入りました。
ムーミンパパはそうだねママ、だろムーミン、と息子に目をやると宙の一点を見つめているので、はて、と自分も目をやります。
 ムーミンママもハッと気づきましたが、とかく突飛な言動が目立つ夫だけならともかく息子までが夫と同じ虚空に目を凝らしているのは尋常と思えず、同じ視線の先を見つめました。
 見つめるうちにムーミンもハッと気づきました。
 つられてスノークも見つめました。つられてフローレンも見つめました。つられてヘムレンさんも見つめました。つられてヘムル署長も見つめました。つられてミムラも見つめました。つられてちびのミイも見つめました。スナフキンすらつられて見つめました。
その間にムーミンは、またトイレで偽ムーミンと入れ替り、そしらぬ顔で戻ってきたのです。

(7)
 ムーミンムーミンパパとムーミンママが宙の一点を見つめて硬直しているのには気づかず、当然いるはずはないスノークがつられて見つめているのも、つられてフローレンも見つめているのも、つられてヘムレンさんも見つめているのも、つられてヘムル署長も見つめているのも、つられてスティンキーも見つめているのも、つられてミイも見つめているのも、つられてミムラも見つめているのも、つられてジャコウネズミ博士も見つめているのも、つられてトフスランとビフスランも見つめているのも、あのスナフキンすらつられて見つめているのも気づきませんでした。
 というのもムーミンムーミンであり、もっとも無知で無害な者を治者にまつりあげるのはあからさまな権力逃走を避けるためによくある少数民族の制度だからです。市井の学者であるヘムレンさんによって異なる種族と解明されるまで、ムーミン族はカバの一種と誤解されていた時期がありました。しかし古代の貨幣単位にすらムーミンの名が用いられているところを見ると、このカバもどきの種族が代々ムーミン谷の象徴であったことは、ほぼ確実です。ムーミン族は代々例外なく間の抜けた男子をもうけることでも特徴があり、怜悧な女子はスノーク族と似通っています。
 ムーミン族とスノーク族は遺伝子形質の99.998%までが一致しており、その差がいわゆる知性なのではないか、とムーミン族以外の誰もが(ムーミン族も女性は)推測していますが、口にするのをはばかるのはフローレンならともかく、カツラ自慢の兄スノークが増長するからです。
 スノークのうぬぼれの強さが知性なら、ことあるごとにこのハゲ!ハゲではないカツラはおシャレなのだ!このカバ!私はカバではない、ムーミンたちに言いたまえ。ムーミンがカバならあんたもカバじゃん!私がカバならお前はバカだ、はっはっは。
 そんな見苦しい応酬をミイ相手に毎日のように繰り返すスノークが、ムーミン谷には文明などは私の部屋にしかない、などとヘムレンさんやジャコウネズミ博士までも嘲っている様子を見ると、嫌味な知性などない方がましだ、とムーミン谷の誰もが思うのでした。
 そうだ注文が済んだんだ、とムーミンは思い出し、トイレ、とひと言言って席を立ちました。そんな事情で誰もがムーミンの中座に気づかなかったのは僥倖というものでしょう。

(8)
 偽ムーミンがテーブルに戻ると意外にもレストランはごったがえしており、スノークとフローレンは兄妹で同じテーブルに、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士は学者で同じテーブルに、双子夫婦トフスランとビフスランは双子で同じテーブルに、ヘムル署長とスティンキーは手錠でつながれて同じテーブルに、ミムラとミイは35人の兄弟姉妹と揃って同じテーブルに、あの孤高のスナフキンすらニョロニョロの繁るテーブルで退屈そうにしていました。もちろん、ここにいない人もです。
 話が違うぞムーミン、まあ後で殴るか、と偽ムーミンは頭のアホ毛をなびかせながらムーミン声モードに喉をととのえ、自然な第一声を考えながらテーブルの間を横切ります。
 ちょうどムーミン家のテーブルにはスープが運ばれてきたところでした。まだムーミンが戻りませんよ、とムーミンママ。ならばなおのこと味見しておこう、とムーミンパパはムーミンの皿からえぐるようにしてすくい、おや、これは虫入りのシチューなのだな、ママのコロッケやハンバーグにもよく入っているアレと同じだ、テレビでよく、一匹見かけると30匹います、と言っているアレだ。レストランでも出すのだかられっきとした食用昆虫だったのだな。一匹見かけると30匹なんて、まるでミイの兄妹みたいですねえ。まったくだ、はっはっは。
 その時ムーミンパパたちはまだ周囲に忽然とムーミン谷の人びとが現れたのに気づかなかったので、あのカバ夫婦!とミイがいきり立つのも、待ちなさいミイ、とミムラが止めるのも気づきませんでした。でも。ここでは駄目、殺るなら外で殺りましょう。
 とにかくパパ、とムーミンママ。ひと匙だってそれはムーミンのスープなんだから盗み飲みは駄目。仕方ないなあ、とパパは匙からスープを戻して、スプーンを舐めるくらいならいいだろう?駄目か?ではテーブルクロスの端で拭くぞ。
 じゅー、っとテーブルクロスの端は音をたててスープのしずくを吸いこみ、みるみるうちに変色して溶けていくと、焦げ目のような跡を露出したテーブルに残しました。
 化学反応ってやつだな、とムーミンパパ。面白くなってきたじゃないか。どうやらレストランの料理というものはわれわれが知っているつもりのものとはまるで異なるようだぞ。
 あらどこへ行っていたのムーミン、とムーミンママはおっとりと、偽ムーミンに言いました。

(9)
 トイレだよ、と偽ムーミンはやや低い声で返答しました。今回は体ごとではなく精神だけを遠距離交換したので肉体は本物のムーミンですから、他人の体は発声ひとつとってもすぐには扱いづらいのです。
 本当はいつものように肉体ごと、もっともトロールの体を肉体と呼べれば、まるごと入れ替わりたかったのですが、事情が許さなかったのです。だからトイレというのもウソでしたので、善悪を超越した偽ムーミンの心にも、トロールの意識を心と呼べれば、少し小さなトゲが刺さりました。
 つい先ほどムーミンはレストラン全体の放心状態のなか、まんまとトイレに立ったのですが、ここのトイレは一旦廊下に出る配置でした。ムーミンのような低能児でもトイレくらいはわかります。ここだな、とドアの前に立つと、貼紙に、
・万年掃除中
 とありました。ムーミンは偽ムーミンとの約束と鉄拳制裁を思い浮かべて途方にくれましたが、なんとかしなければとトイレに入りました。
 掃除なんかしてないぞ、おかしいなあとムーミンが作業にかかろうとすると、個室から引きつったようなうめき声がしました。セックスかな?するとガラスの擦れあうような音もします。あっ、そうか。
 ジャンキーだ!こうなるとトイレでボヤボヤしていられません。踏みこまれたらムーミンまで捕まってしまいます。こういうのは案外警察の事件捏造工作なのはヘムル署長からたまに聞きます。ムーミン谷では麻薬犯は無条件で死刑か完全な終身刑。法外ですがその方が面白いからです。
 ムーミンにしては珍しく機転と実行力が一致して、咄嗟に洗面台の鏡を叩き割ると素早く大きなカケラを二枚選んで廊下に飛び出しました。ムーミンは悪を知らない種族なので公衆道徳クソくらえなのです。
・用具室
 にムーミンは入ると、苦心して鏡のカケラを合わせ鏡にして自分の顔を映しました。一瞬遅れて、遅かったじゃないか、と鏡に偽ムーミンの顔の半面が映りました。それに全身が入っていないぞ。意識の交換しかできなかったのはそういうわけです。
 ムーミンの言い訳と状況説明をフンフンと聞き、罵詈雑言をあびせ、ついでに戻る時はトイレでやるぞと脅して、二体のムーミンは精神交換しました。頭からは偽ムーミンを表すアホ毛フラグが立ちました。
 さてムーミンも戻ったし、とムーミンパパ、食事を始めようじゃないか。

(10)
 ムーミンパパはさりげなく家族に告げただけですが、そのひと言でスノークとフローレン兄妹もぎょっとムーミン一家を見つめ、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士もムーミン一家を学術的に見つめ、双子夫婦のトフスランとビフスランも双子だからそっくりな顔で見つめ、ヘムル署長とスティンキーもおまわりと泥棒の垣根なく見つめ、ミムラとミイも35人の兄弟姉妹集団で見つめ、あの孤高のスナフキンもニョロニョロの繁るテーブルで伏せていた顔を上げました。もちろん、ここにいない人もです。
 つまりそれまで不可視のバリア、もしくはズレた位相空間からからムーミン一家の様子をうかがっていた断層が一瞬にして閉じたので、空気がその一瞬破裂し、レストラン内の食客たちの鼓膜が張ると、やがてじいんじいんと耳鳴りを残しながら回復していきました。ほとんどの人が、とは言えトロールですが、思わず耳を押さえました。
 ムーミンママだけは命にかけても大切なハンドバッグを膝の上で握りしめていました。まれに紛失でもしようものならムーミンママは狂乱してムーミン谷中を大パニックに陥れますが、なにしろ中にはムーミンママ本人が被写体のあらゆる時期に渡る猥褻写真が匿してあるのです。彼らの夫婦関係にどこかすきま風が吹いているのは、ムーミンパパ(元冒険家)がシベリアへの無謀な新婚旅行中の遭難事故で、昏睡している新妻の荷物に何か役に立つものはないかとハンドバッグの中身を知ってしまったからでした。
 当然ムーミンママはこのサノバビッチ!と罵り激怒して成田離婚を主張しましたが、どうせ私は捨て子育ちさ(事実)、そもそも海難事故で溺死寸前のママを助けた(それも事実)のがわれわれのなれ染めではないか、とムーミンパパが開き直るので、ムーミンママもならばいっそかかあ天下で通す口実ができたようなものでした。
 そして沈黙。今度はムーミン一家、スノークとフローレン、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士、トフスランとビフスラン、ヘムル署長とスティンキー、ミムラとミイと兄弟姉妹35人にあの孤高のスナフキンまでもが腹の探りあいです。ニョロニョロはサンポールを撒かれる前にさっさと姿を消しました。
 こういう時こそ出番です。ねぇみんなどうしたの?やあムーミン、と一堂は偽ムーミンのひと言でたちまちなごやかになりました。しめしめ。
 第一章完。

(11)
 第二章。
[場所]
ムーミン谷に新規開店したレストラン
[時間]
・早めのディナータイム
[登場人物]
ムーミンムーミン族を象徴する当代ムーミン
ムーミンパパ…先代ムーミンで私生児に生まれ孤児院で育つ。長じて冒険家となり世界を流浪した。
ムーミンママ…海難事故で溺死寸前をムーミンパパに救助されたムーミン族の雌。義務感と経済的打算からムーミンパパと結婚。特技は猫かぶり。
スノークスノーク族の当代当主でスノッブな趣味と知識をひけらかす俗物。軽薄だが愛嬌はある。カツラのお洒落が自慢。
・フローレン…スノークの妹で旧名ノンノン。容貌はムーミンママに瓜二つ。わがままでツンデレ
・ヘムレンさん…市井の博物学者。初老。温厚な性格で尊敬を集める。
・ジャコウネズミ博士…傲慢な官僚的学者だが権威は非常に高い。
・トフスラン…ビフスランと双子の近親双姦夫婦。雌雄同体かもしれない。
・ビフスラン…トスフランと同じ。この夫婦は愛の巣から滅多に外出しない。
・ヘムル署長…法治国家の体裁だけに任命された警察署長。棒給より贈賄収入の方が高い。
・スティンキー…ムーミン谷唯一の泥棒。警察署の存在意義のための職業犯罪者であり贈賄によって恩赦されては再犯を繰り返す。ヘムル署長とは持ちつ持たれつの関係。
ミムラミムラ族に属する35人の兄弟姉妹の長姉。種族の名をとって「ミムラ姉さん」と呼ばれる。
・ミイ…ミムラ族に属する35人の兄弟姉妹のうちもっとも身体の発育が遅いことから蔑称としてこの呼び名が定着した。ムーミン谷の歩く壁新聞。
スナフキン…クールでニヒルな一匹狼を気取る流れ者だが放浪範囲はムーミン谷の中に限られる。出自不明の単一種らしく生い立ち始め過去の記憶もないらしい。性格設定のわりにムーミン谷の子供たちの引率係を率先して引き受けていることから児童性愛者疑惑も持たれている。屋根の下で寝るのが苦手、人見知りなどそれなりに放浪的性癖は見られる。
・ニョロニョロ…ムーミン谷に群生する不潔な担子菌類。
・偽ムーミン…偽物。
・図書館司書…その情婦。
*
 舞台暗転。

(12)
 ムーミンパパはさりげなくムーミン、その実は偽ムーミンを迎えましたが、ついつい息子のために椅子を引いてしまうという卑屈な行為をしてしまい、自分から屈辱感を招いてしまいました。ムーミン谷の慣習ではムーミン谷のムーミン族は家長または世帯主の逝去を待たずに、長子誕生と同時に家長の座を親から子へと譲るのです。もっともあまりに幼い頃は実質的には後見人の権威がありますが、一人前の口をきくようになれば法は家長の味方です。ムーミンは同期にコウノトリが運んできた子供たちの中でも知能の発達はひときわトロい児童でしたが、ムーミンパパはおそらく自分でも知らずに、ムーミンとは違う偽ムーミンの狡猾なオーラを感知してしまったのでしょう。
 畜生、私なんか孤児院の前に捨てられてたんだぞ!
 そのひと言でスノークとフローレン兄妹もぎょっとムーミンパパを見つめ、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士も分析的に見つめ、双子で夫婦のトフスランとビフスランもバカップル的に見つめ、ヘムル署長とスティンキーも犯罪の気配にわくわくしながら見つめ、ミムラとミイも35人の兄弟姉妹集団で見つめ、孤高を誇るスナフキンでさえもうニョロニョロの消えたテーブルでびくびくしながら顔を伏せました。もちろん、ここにいない人もです。
 あらパパ、どうしたというんです?とムーミンママがにこやかに、テーブルの裏では持参した凶器のフライパンの柄を再び握りしめてたしなめました。先のムーミンパパの台詞はムーミン生誕以来ことあるごとにパパがぼやいてきた愚痴だったからです。
 それがどうした、とはつまりこういうことです。コウノトリが飛来してくるシーズンは決まっており、ムーミン族の発情期も決まっているから、同数のムーミン族の臨月の家庭に同数のコウノトリが飛来するのが自然の摂理ですが、たとえば思いもよらぬ不幸でその条件が失われるとベビームーミンの届け先がなくなるので、やむを得ず孤児院の門前に置いてくるコウノトリもいる。孤児院も捨て子入れのダンボールを用意し、一週間くらいは引き取り手が現れるように、
ムーミン差し上げ枡
 の札を添えておく。でも臨月のムーミン家庭はどこも赤ん坊を受け取っているので無駄なのです。この傷ましくもどうしようもない生い立ちがムーミンパパをエキセントリックなムーミンに育て上げました。

(13)
 ところでママ、スープが運ばれてきてからもうどのくらい経ったかな?三分くらいだと思うよ、と偽ムーミンはスープ皿に触れて見当をつけました。
 誰もお前に訊いておらん、とムーミンパパは冷たくはねつけたので、あのおやじまだ拗ねてやがる、と周囲の反感を買ったものの、スープが運ばれてきた時ムーミンが席を外していたのも事実ですから、小生意気なガキには当然だというムードもありました。これを日本語の慣用句では
・喧嘩両成敗
 といいます。また、『英雄崇拝論』や『衣服哲学』で知られるスコットランド出身のイギリス文人トーマス・カーライル(1795~1881)が広めた金言に、
・雄弁は銀、沈黙は金
 というのもありますが、これはカーライルがスイス滞在中に見かけたドイツ語の碑文だそうです。カーライルのオリジナル格言でなかなかやるじゃん、というものでは、
・この国民にしてこの政府あり
 というのがありますが、日本語の慣用句でも、
・割れ鍋に閉じ蓋
 というのはカーライルとは無関係に存在しますので、イギリス流の風刺と思えばそれほど感心するほどの機智ではないともいえます。
 誰もお前に訊いとらん、というなら同じテーブルにいるのは他にはムーミンママだけなので、最初から名指しでムーミンママに尋ねればいいことでした。しかしムーミンパパは元々行動の人、正確には行動のムーミントロールですので思いついたらすぐ口に出るタイプです。ムーミンママが即答しなかったのは、偽ムーミンムーミンらしからぬ出しゃばりをする様子を見ようと言うのではなく、夫が次に言い出すことが見えすいていたからでした。
 つまりムーミンパパは食前の一服をしたいのです。まだスープが熱いなら私が一服するまで待ってくれんかね?紙巻き煙草ならいいですよ、一応あなたも持ち歩いているでしょう?それは風の強い屋外ならの話だ。私はヴィジュアル的にもパイプ煙草でなければ決まらんのを、ママも知っているではないか。
 とムーミンママは予想し、パイプ煙草というのは仕込みからして時間がかかるわけです。この際ムーミンママには根拠がなくても亭主の喫煙を食後まで禁じる権限がありました。
 早くしないと醒める頃ですよ。そうか、とガッカリのムーミンパパ。ではいただこうじゃないか、とさりげなく、ムーミン、お前からお食べ。

(14)
・前回までのあらすじ?
ムーミンパパは新規開店したムーミン谷のレストランで、コース料理最初のスープをまず息子から飲むように勧める。レストランは物見高いムーミン谷の人びとでごったがえしていた。だがその息子ムーミンは、実は食前にトイレに行ったふりをして偽ムーミンがすり替っていたのだった。
*
 えっ、パパ、どうしてぼくからなの?
 それはわれわれムーミン族では一家の大黒柱は長男だからな。ムーミン族の一家が福祉の恩恵を受けるには絶滅指定種というだけでは駄目なのだ。後継ぎの存在がなければならん。だからいずれお前もフローレン……(聞き耳に気づいて濁し)どこぞのお嬢さんを孕ませて亭主におさまり、それでこそ一人前のムーミンというものだ。わーったか?
 パパ、あなたってしゃべり始めるといつも長いのね。もっとわかりやすく話してくださらない?
 そんなことを言われてもこれが私のキャラクターなんだから玉子に丸いぞとケチをつけるようなものだ。サソリとカエルの話は話したことがあったかね。
 ありますよ、初めてお会いした時もお話していたじゃありませんか。
 あの嵐の晩にか?というとお前は船酔いしてゲーゲー吐いていたんだっけな。命が助かったんだから船酔いくらい我慢しろ、と優しく慰めたのは憶えているが、あの状況で私の与太話を憶えていたとはママもなかなか隅に置けんな。
 こんな時になんて男だろうと思ったんです。
 あの頃私は冒険家だったからな、良家のお嬢様の尺度で見られては困る。実際こうして夫婦になったではないか。
 サソリとカエルの話?
 ムーミン
 おや、まだムーミンは知らなかったようだな。では話そう。
 私は聞きませんよ。
 ご自由に。では……川の前でサソリが渡れなくて困っていると、カエルが泳いでいました。向こう岸に乗せてくれないか、とサソリは頼みました。嫌だよ、きみは刺すだろ?刺さないよ、とサソリは約束しましたが川の真ん中まで来た時サソリはカエルを刺しました。二匹でぶくぶく沈みながら、カエルはサソリに言いました。何で刺したんだ、おかげでどちらも死ぬんだぞ。するとサソリが言いました--だっておれ、やっぱりサソリだもん。
 ……パパ、よくわからなかったよ。つまり……
 つまりお前がカエルならサソリを乗せるな、サソリならカエルに乗るなってことさ。ほら、スープが冷めるぞ。

(15)
 そういえばパパ、食事の前に飲み物頼んでなかったっけ?と偽ムーミンはとぼけてカマをかけました。急いで物置部屋でムーミンと入れ替ってきたので、細かいことまでは訊くのを失念していたのです。見たところテーブルにはそれらしきものはありません。
 こういう場合子供はコーラかオレンジジュースと決っていますので、偽ムーミンはコーラもオレンジジュースも嫌いでしたからウーロン茶、またはアイスコーヒーにするんだぞ、とムーミンを脅していましたが、どうも裏山のニョロニョロ池から汲んできたような緑がかった水をたたえたコップしかありません。
 頼んでないのかな?だったら仕方ないや、と偽ムーミンはしぶしぶやはりニョロニョロくさいコップの水を飲もうとしたところ、
 待ったムーミン
 とムーミンパパが偽ムーミンを制止しました。偽ムーミンは一瞬自分が正体のばれるようなことをしたかとギクッとし、心臓が肋骨に激突しました。
 な、なあにパパ。
 老いては子に従えとは昔の人はよく言ったものだ、とムーミンパパは偽ムーミンアホ毛をなんとなく見つめながら、しみじみと言いました。お前に言われるまで食前の飲み物のことなどすっかり忘れておったぞ。なにしろレストランなど子の親になってからはすっかり足が遠のいてしまったからなあ。
 えっ?と偽ムーミンは演技ではなく本当に驚いて、昔はムーミン谷にレストランなんてあったの?
 ムーミンママは嫌そうな顔をしてムーミンパパに肘を突きました。ああ、とムーミンパパ。簡単に言おう、それはそれは不味いレストランが一軒だけあった。その店の名は……
 とムーミンパパが口にしかけると、店のすべてのテーブルからムーミン谷の人びとの、
・それは言うなオーラ
 がずどん、とムーミンパパの頭上にのしかかりました。うわあ。どうしたのパパ。簡単に言う。ママに包丁を持たせると危険な晩などはレストランにも行ったものだ。だが、
 ……とムーミンパパはようやく呼吸を整えながら、お前が生まれ、われわれが行かなくなるとレストランは店を畳んでしまった。ざまあみろだ。とにかく私が言いたいのは、だ、息子に言われるまで食前酒も頼むのを忘れるようでは(中略)、
 私はレモネード。
 ぼくはアイスコーヒー。
 私は黒ビール。よしよし、なんだか食事っぽくなってきたではないか。

(16)
 いやーこうやって黒ビールなどを飲んでいると、とムーミンパパは旨そうに喉を鳴らしながら言いました、私が冒険家だった頃の数々の思い出が胸をかすめて万感の思いがあるな。
 どうしてなの?と偽ムーミン。別に興味があったから尋ねたわけではなく、思わせ振りなことを誰かが口にする時はたいがい訊いてほしいことがあるからです。ではこちらはどうだろう、とムーミンママを見ると、いつも通りの穏やかな微笑を浮かべていました。ということは、ムーミンママにとっては無表情と同じことです。もちろん偽ムーミンにはムーミンママがテーブルの下でフライパンの柄を握っていることなどわかりません。
 冒険家というのはだな、とムーミンパパ、冒険をしている時と同じかそれ以上に冒険ができない期間が長いのだ。具体的には一国の傭兵になって大活躍、これは冒険の醍醐味で、戦争の性質次第では〓〓や〓〓なども思いのまま、〓〓〓だって〓〓放題。だが一旦浮虜となると苛酷な戦争ほど浮虜の身分など単なる奴隷でしかなく、劣悪極まりない環境でいつ明けるとも知れない強制労働が待つ身となる。これが冒険の代償というわけさ。
 嫌ですよパパ、とムーミンママがおっとり、たしなめます。
 まったくだ、とムーミンパパ。しかも晴れて戦争が終結し、浮虜とは名ばかりの奴隷労働から解放されても傭兵の身分では浮虜を名目に戦功報酬を踏み倒され、軍人恩給も戦慰補償金も受給できないのだぞ。自由の代償と言えるものは一杯の黒ビールだけだ。
 ムーミンパパはもうひと口グッと飲むと、私が貸しのない海運国は地中海にはないに等しい!だいたいあんな海賊の末裔みたいな連中がたかだか税関詐欺だの組織的密輸だので私のような冒険家をブタ箱にぶち混むなんぞおのれを知らぬ行為にもほどがある。不正とは神のみぞ知るとはよく言ったものだ。しかも奴隷労働つきだぞ!
 というわけで、とムーミンパパは言いました、世の中広しといえど、たかがパイプの一服、黒ビールの一杯にこれほど至上の喜びを感じるにもどれだけ元をかけねばたどり着けないかを理解するには冒険家としての生き方を究めなければならぬ、と悟るまでには、
ムーミンパパは文法が混乱してきたので面倒になって適当に、そういうわけだムーミン
 うんわかった、と偽ムーミンも適当に応えました。でもパパ、スープが冷めちゃうよ。

(17)
 ほら、と偽ムーミンはスプーンの底をスープの表面につけると、軽く押したり持ち上げたりしてみせ、もう皮ができてるよ。
 ほう、とムーミンパパは皮肉な口調で、お前もいつの間にかずいぶん賢くなったようだな、われわれは良い息子を持ったものだなママや、しかも親に向かって聞いたような口をききおるとは実に大したものだ、将来が楽しみというものではないかね?
 などなど、なんだか妙に絡んでくるので、黒ビール一杯でこんなに酔うものだろうか、まさかとは思うが今日のムーミンパパは息子が偽ムーミンと入れ替っているのに気づいているのだろうか、と偽ムーミンは冷や汗をかく思いでした。
 冷や汗と言ってもたとえ話で、ムーミン族はトロールですから哺乳類のような恒温動物よりも両棲類や爬虫類のような変温生物、もっと言えば気体や粒子に近いのです。それがたまたま直立したカバに似た生物の風貌をしていても、本質的には生命すら超越した存在なのはムーミン谷のタブーになっていました。
 というのは、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士、それとスノークも一致した意見では、もしムーミン族に関する真実が全世界に知られれば大変な事態が予測されるからなのです。
 見たまえ、とジャコウネズミ博士は言いました、これがムーミンから採取したサンプルだよ。毛もなければ爪もなく、血液らしきものもないムーミンから何とか削りとった細胞がこれだ、もしこれを細胞と呼べるなら、ね。
 ヘムレンさんは顕微鏡を覗いて愕然としました、まさか、信じがたい!
 どれどれ私にも、と顕微鏡を覗いたスノークもひっくり返りました。これが細胞ですか!ムーミンそのものではないですか!
 そう、それを細胞と呼べるなら、一個体のムーミンは全体が一個の細胞から出来ていると考えられる。ところが細胞とは本来他の細胞によって代謝されたエネルギーを必要とするものだ。だがムーミンはエネルギーの消費なしにエネルギーを発生させる。
 永久機関……。
 しかも、見たまえ。もう一つのムーミン細胞を合わせてみると……
 融合した!どういうことですか博士!
 ……なるほど、とヘムレンさん。ムーミンは熱力学の第三法則下にない。しかも個体とは便宜的な形態に過ぎない。これが世に知れたらどうなるかわかるかね、スノークくん?
 どうなるんです?
 すべての個体は滅び、世界は終わるんじゃよ。

(18)
 ヘムレンさんは床に一辺が一メートル半の正三角形をチョークで描くと、それぞれの辺を二分割する位置に辺と交差する印を引きました。起き上がって描いた図形を眺め、
 こんなものかな。ではお二人とも印のところに立っておくれ。条件は公平なはすだが、納得いかないならその都度遠慮なく言おうじゃないか。
 私も異議はないがね、と、床と天井を見較べながら、ジャコウネズミ博士。つまりヘムレンさんの公平さには異議はない。あえて追加するなら、おのおのが位置を選ぶのを自由とすれば、われわれは譲りあってしまうだろう、というのが問題だ。それでは結局公平とは言えないやり方にもなりかねないと思うが、どうだろうか?
 そうですよ、最初からヘムレンさんが残った位置につくと決めるのはおかしい。背後の空間、照明の位置、この正三角形が三辺のどれを選んでも自分以外の二人と条件は同じなのは同意します。でしたら、どの立ち位置に立つことになるかも公平、かつ無作為にすべきでしょう。
 ではスノークくんには良い案はあるかね?
 ジャンケンなんていかがでしょうか?
 いや、ジャンケンは止めよう、とヘムレンさんもジャコウネズミ博士も同時に呻きました。あれはリスクが高すぎる。これは二人の良心の証として言うのだが、これまでムーミン谷を襲った疫病について、きみのような若者もいくつかは記憶にあるね?疫病のたびにワクチンの開発・決定をしてきたのはわれわれ二人だった。それで最終的にはA型ワクチンかB型ワクチンに決めるのだが、われわれは毎回ジャンケンで決めてきたのだ。
 それで、どうなったのですか?
 二回に一回の率でハズレ。だがこれは二人だから二分の一で済んだのであって、三人なら三分の一の確率になるのだぞ。
 ではどうすれば……。
 そうか、ならこれで行こうか、とジャコウネズミ博士が出してきたのは、六面体のサイコロでした。スノークとヘムレンさんは思わず震えあがりました。サイコロはムーミン谷では禁制品の筆頭だからです。なぜそんな物を君が…。私は科学者ではあるが、官僚でもあるからね。密輸押収品くらいはいつでも手に入るさ。たまたま今日は税関帰りでね。で、こういう場合、ルールは、(中略)
 三人は棍棒を持って等間隔の三角に立ちました。これから物理的にムーミン族の秘密に関する記憶を強制消去するのです。
 それから猛烈な連打。

(19)
 偽ムーミンムーミンパパにさりげなく告げただけですが、そのひと言で思わずスノークとフローレン兄妹もぎょっとしてムーミン一家から目を逸らし、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士も意図的に無視し、トフスランとビフスラン夫婦も双子であるのを忘れたような顔で背け、ヘムル署長とスティンキーもおまわりと泥棒の立場をわきまえて無視し、ミムラとミイも35人の兄弟姉妹を忘れて呆け、あの孤高のスナフキンも今やニョロニョロのいないテーブルに思わず顔を伏せました。もちろん、ここにいない人もです。
 つまりそれは、傍観者の位置、もしくは通行人の視点からムーミン一家の様子をうかがっていた間合いが一気に危うくなったので、弛んでいた緊張が一瞬にして張り詰め、レストラン内の食客たちの心拍が頂点まで高まると、回復は望めないとすら思えました。ほとんどの人が、とは言えトロールですが、この場に居合わせた不運を悔みました。
 ムーミンママだけは命にかけても大切なハンドバッグを握りしめて覚悟を決めました。もしもの場合バッグの中にはムーミン谷全域を焼却処分するN2地雷の起爆スイッチが仕込んでありました。またムーミンママの生体信号を受信する距離からバッグが離れてもこのスイッチは起爆するのです。ムーミン谷随一の平凡な主婦に、生死をかけたムーミン谷の秘密が託されているとは普通思えません。それもハンドバッグに。
 当然ムーミンママは舞い込んだこの誘惑に、私などその任に堪えませんわと最初は辞去しましたが、結局はムーミン谷すべての運命をハンドバッグの中に握るという陶酔には勝てなかったのです。しかも男尊女卑のムーミン族で、夫にも息子にも秘密となればこれに勝る快楽はありません。
 やがて喧騒。今度はムーミン一家ばかりでなくスノークとフローレン兄妹、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士、トフスランとビフスラン、ヘムル署長とスティンキー、ミムラとミイと35人の兄弟姉妹に孤高のスナフキンまでもが焦ったようにがやがやし始めました。ニョロニョロまでも喧騒に乗じてあちこちのテーブルに生える始末です。
 なんかやばいこと言ったかな?と偽ムーミンはおずおずと、ねぇみんなどうしたの?……ですが一堂は偽ムーミンを無視して一段と雑談に花を咲かせます。おかしい、いつもとは明らかに様子が違う。どうする?
 次回第二章完。

(20)
 スノークくんはご存知ないかもしれんが、とジャコウネズミ博士は言いました、ヘムレンさんと私は併せて69もの学位を取得しておるのだ。これはわれわれ二人でムーミン谷に国際大学を開校するに十分な資格があることを意味する。
 なるほど、私はその唯一の生徒というわけですなはっはっは、とスノークは謙譲して答えましたが、どうやら今は社交辞令など問題ではない議題にさし掛っているのにすぐ気づきました。それで博士、おっしゃりたいことは…。
 まあこれから話すことは、すべて一種の比喩と考えてくれたまえ、とヘムレンさん。わしらは二人ともR.D.の学位を持っておる。つまり修辞学博士だな。修辞とは時として論理的な思弁よりも真実に近づくことがあるということさ。
 たとえば真実には二種類ある、とジャコウネズミ博士がすかさず言いました、雨の日は雨降り、これは帰納的真実で、雨が降ると雨の日、これは演繹的真実。だがスノークくんが一日中部屋に閉じこもっていた場合はどうかね?
 博士、私もインターネットくらいはしますよ。そしたら気象情報くらいは見てみます。
 ではサイトに流されている気象情報が偽情報だったらどうかね?
 当然違反申告します。とんでもない!
 それでは違反申告した先が必ずしも適切な対応をしてはくれず、そればかりか矛盾しあう情報のいずれも自己責任として放置しているような状態だったらどう判断するね?
 ええと、何を?
 天候!今日が雨降りかどうか。言っておくがきみは部屋の中にいるんだぞ。窓の外を見るのも駄目だ。
 テレビを観ます。
 テレビは広域気象情報しかやっとらんよ。
 じゃ、地方局。ムーミン谷TVを観ます。
 あそこは自社番組は天気予報やローカル・ニュースすらやらんぞ。島根県松江市出雲市の天気を観てどうする?
 じゃあ117番に電話……
 駄目、ルール違反。そもそもきみは、質問の主旨がわかっているのかね?
 自分は何もせずに部屋にいながら天気を知る方法なんでしょう?あ、これはルール違反ではないですよね?フローレンに訊く。
 ピンポーン、とヘムレンさんとジャコウネズミ博士は微笑みました。だがそれはきみがフローレンの兄だからだ。全世界がきみなら、きみにとってのフローレンに当る存在。それが世界とムーミンの関係なのだよ。つまり、真実を媒介する唯一の存在。
 第二章完。

(全80回完結)