人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

小津安二郎『戸田家の兄弟』(松竹1941)

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『戸田家の兄弟』(全)
https://www.youtube.com/watch?v=AkpPlOaS_kc&feature=youtube_gdata_player
監督・脚本:小津安二郎 
脚本:池田忠雄 
撮影:厚田雄春 
音楽:伊藤宣二
出演:佐分利信高峰三枝子・藤野秀夫・葛城文子・吉川満子・斎藤達雄三宅邦子坪内美子
 父親を失ったブルジョワ一家で、残された妻と未婚の末娘が、結婚している息子や娘たちの家庭に次々に世話になるが、どこでも厄介者扱いされ、仕方なくふたりは古ぼけた別荘に住むことにする。だが、亡父の一周忌に親類一同が集まった席上で、満州から帰國した末の弟が、兄や姉たちの母と未娘に対する仕打ちを知り、憤って激しく罵倒する。そして母と妹を満州に連れてゆくことにする…・‥。戦時下の作品であり、その物語は当時の情勢に迎合した感じもあるが、端的な演出で高い評価を得た。また、小津と名コンビを組むことになる厚田雄春(当時は厚田雄治)が初めて正カメラマンとしてついた作品でもある。
(ぴあシネマクラブ日本映画編2002~2003より)
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 小津作品は雑誌や映画好きからの評価は良いが観客動員は少ない、として松竹からの給料は10年間据え置きになっていたそうです。前作『淑女は何を忘れたか』1937もキネマ旬報8位に選出されたが興行成績は悪かったので「小津は当たらない」が松竹では定評になっていましたが、三年間の中国戦線への徴用から復帰した通算37作目の『戸田家の兄弟』で小津は初めての大ヒット作をものします。評価もキネマ旬報ベスト・ワンと、興行成績と評価がともに抜群の得点を得た記念すべき作品になりました。
 この作品はサイレント期のアメリカ映画のヒット作『オーバー・ゼ・ヒル』(監督=ハリー・ミラード)1923から着想を得たもの、という指摘があり、老母が未亡人になってから子供たちにたらい回しにされる話らしく、日本や中国ではサイレント期から繰り返し翻案映画化されていたといいます。老後の親が子供たちにたらい回し、といえば『リア王』を思い出しますし、老夫婦が揃ってたらい回しになる話なら後の小津の『東京物語』がそうです。『戸田家の兄弟』の場合、受難をこうむるのは老母と未婚の末娘という、か弱い立場にいるヒロインたちなので、封建的家族制度への抗議という内容が危険視されずに軍国主義下の検閲を通り、観客には抑圧的な世相へのうっぷん晴らしになり大いに迎えられたのだと思います。

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 映画は家長夫人の還暦祝いの一家の記念撮影から始まります。時間ぎりぎりにやって来るのが次男の佐野周二で、家族が集合する時には必ず最後に遅れてくる、という登場の仕方をします。祝いの直後に家長の戸田氏は急死します。ここまでは、小津映画にしては一度に多数の登場人物がワッと出てくる異例の始まり方で心配になりますが、すぐに登場人物たちの関係性やキャラクターは明らかになります。
 財務調査をしてみた結果、戸田家は財界の重鎮だったものの、本家の資産は借財だらけだったと判明します。調度品を含めて家屋敷・土地をすべて売却してようやく面目が立つ程度です。長女、長男、次女は別に一家を構えていますが、家屋敷を売ると未亡人となった老母、未婚の末娘をどうするか。それは順繰りに家に来てもらえばいいだろう、という話になり、次男は中国での新事業に日本を離れます。
 老母と末娘は最初は長男家に住まわせてもらいますが、長男の妻にさんざん疎んじられます。長女の家にたらい回しされ、末娘は勤めに出て母を連れて別居したい、と申し出ますが戸田家の体面を考えよと長女に一蹴されます。次女の家ではなんとか来ませんように、と夫婦で話していましたが、末娘と老母が唯一戸田家で残してあった廃屋同然の別荘に住まうと決めたと聞き、胸をなで下ろします。
 一周忌の法要で戸田家は集まり、色々あったがお父さんも安心されているだろう、と満足げに語り合う兄弟たちに、中国から一時帰国した次男が怒りを爆発させます。兄さんや姉さんたちがお母さんや妹の面倒をみると請け負っていたから信じて中国に行っていた、けれど一年もしないで二人は廃屋にすんでいるじゃないですか。そして次男は一人一人名指しで釈明を聞き、席から追い返します。この啖呵を切る場面は小津にしては通俗的な勧善懲悪シーンですが、小気味よいテンポと演出でしつこくないのがよろしい。また、斎藤達雄、吉川満子、坪内美子三宅邦子など小津映画常連で善良な小市民を演じてきた俳優たちが今回は卑小なブルジョワ階級人を演じている面白さもあります。

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 映画の結末は老母と末妹を次男が天津に引き取りに支度をしている様子で締められます。この作品は戦中に制作されましたから、まったく世相を反映しないわけにはいかなかった。この結末を納得できないとする見方もあると思いますが、1941年には希望はもはや天津にしかなかった、という方が現実性があった、それだけの説得力はあるのです。
 単に主要登場人物の人数が多い、というばかりでなく、数多い人物たちいちいちに細やかな性格描写があり、エゴイズムの対立がひっきりなしに続く。三年ぶりの新作がこうした規模の大きな作品になり、しかも充実したできばえになったのも、徴用期間のブランクがかえって創作意欲を高めていたのかもしれません。