ヒヤシンスの家 (ザ・ドアーズ)
The Hyacinth House (The Doors) (Electra, from the album "L. A. Woman", April 19, 1971) : https://youtu.be/Aeh_cU0pmR8?si=RhCPnIds2stuYNMa
What are they doing in the hyacinth house?
What are they doing in the hyacinth house?
To please the lions (yeah) this day
I need a brand new friend who doesn't bother me
I need a brand new friend who doesn't trouble me
I need someone (yeah) who doesn't need me
I see the bathroom is clear,
I think that somebody's near
I'm sure that someone is following me, oh yeah
Why did you throw the jack of hearts away?
Why did you throw the jack of hearts away?
It was the only card in the deck that I had left to play
And I'll say it again I need a brand new friend
And I'll say it again I need a brand new friend
And I'll say it again I need a brand new friend
The end
ヒヤシンスの家で彼らは何してるんだろう?
ヒヤシンスの家で彼らは何してるんだろう?
今日ライオンどもを、そう、機嫌をとるために
ぼくに迷惑をかけない新しい友達が必要なんだ
ぼくに迷惑をかけない新しい友達が必要なんだ
ぼくには必要なんだ、そう、ぼくを必要としない誰かが
バスルームが空いているのがわかる、
誰かが近くにいると思う
誰かがぼくの後をつけているに違いない、ああ
なんでハートのジャックを捨てたんだい?
なんでハートのジャックを捨てたんだい?
それはぼくが残しておいた唯一の切り札だったのに
もう一度言うよ、新しい友達が必要なんだ
もう一度言うよ、新しい友達が必要なんだ
もう一度言うよ、新しい友達が必要なんだ
終わり
The Doors - Hyacinth House (Robby Krieger's House Demo) : https://youtu.be/pF5BLqcOgNw?si=1lVxY5a0GQ2CZOXr
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ザ・ドアーズの曲「ヒアシンスの家 (The Hyacinth House)」はジム・モリソン(ヴォーカル、1943~1971)の遺作となったアルバム『L. A. ウーマン (L. A. Woman)』(Electra, April 19, 1971, US#9/UK#28/Canada#11/Holland#1)のオリジナルLPではB面2曲目の楽曲で、このアルバムでは全曲がドアーズ全員の共作となっていますが、歌詞と作曲はジム・モリソン、補作曲と編曲はリーダーでキーボード奏者のレイ・マンザレク(1939~2013)によるものです。この曲の歌詞はギリシャ神話の少年神、ヒュアキントスの死と変身の伝説(オヴィディウス『変身物語』岩波文庫など)を下敷きにしており、ジム・モリソンがアメリカの教育者で古代ギリシャについての著作が多いエディス・ハミルトン(Edith Hamilton, 1867~1963)のギリシャ神話についての本をいつも携行し愛読していたのはメンバーが証言しています。もともとバンド名もオルダス・ハックスリーの幻覚剤使用実験の手記『知覚の扉 (The doors of perception)』(1954年)から取ったドアーズは、デビュー・アルバムから旧約聖書の「伝道の書」の一篇をそのまま歌詞にする(「チャンスはつかめ (Take It as It Comes)」)、セリーヌの長篇小説『夜の果てへの旅』からタイトルを取る(「エンド・オブ・ザ・ナイト (End of the Night)」)、ソフォクレスの『オイディプス王』に材を取る(「ジ・エンド (The End)」)など非常に文学趣味の強いバンドで、メンバー全員が大学卒業生だったのも当時のロック・バンドでは稀なことでした。また1967年から1971年の間に、発表した7作のアルバムすべて(2枚組ライヴ盤含む)をゴールド・ディスク(50万枚突破)にし、スタジオ・アルバム6作すべてを全米アルバム・チャートのトップ10入りさせ(うちNo.1アルバム1作、デビュー・アルバムはビートルズの『サージェント・ペパーズ』に遮られて全米2位ながら年間チャート7位)、12曲のトップ100入りシングル・ヒット(うち7曲トップ40入り、No.1ヒット3曲)と、‘60年代後半のアメリカの新人バンドとしては最高の商業的成功を収め、批評家からの芸術的評価を獲得したグループです。こんな小難しいバンドがトップ・グループになったのも音楽面では親しみやすいポップ・センスを持っていたためで、この「ヒアシンスの家」も聴き流そうと思えば快適に聴ける、しかし歌詞の内容は不吉そのものの曲でもあります。
この曲の歌詞でジム・モリソンが下敷きにしたギリシャ神話の伝説は、アポロンの愛した美少年ヒュアキントスが、円盤投げ競技に出たアポロンの円盤を受け損ねて死んでしまうことから始まります。冥界の神ハーデスが遺体を奪いに現れますが、アポロンは拒否してヒュアキントスの血を大地に注ぐと、その遺体はヒアシンスの花に変身してハーデスを退けた、という伝説です。この場合ジム・モリソンはアポロンの円盤を受け損ねて死んだヒュアキントスで、ハーデスの冥界に引き取られないように遺体となったおれをヒアシンスに変えて連れ出してくれないか、それには誰かおれに無理強いしない新しい伴侶が必要だ、と、いう解釈になります。「ヒアシンスの家」は冥界行きを逃れる象徴ですが、それは花になるのと引き換えの死の家でもあるわけで、そこから連れ出してくれるための新たな恋人を待つ場所でもあります。そういう解釈が妥当なら、1953年の映画『乱暴者』のマーロン・ブランドの衣装から取って裸に革ジャン・革パンツに革ブーツと意識的にロック・スターを演じ続けてきて疲弊した自分を「アポロンの円盤を受け損じたヒュアキントス」と例えたことで、この曲はジム・モリソンの自伝的な曲になっており、すでにメンバー三人がバック・トラックを完成したあとジム・モリソンがメロディーをつけヴォーカル・パートをダビングする、と前作『モリソン・ホテル (Morrison Hotel)』(Electra, February 9, 1970, US#4/UK#12)から行ってきた手法と同一の作業で作られた『L. A. ウーマン』の完成後、ドアーズはプロモーション・ツアーを行わずレイ・マンザレク、ロビー・クリーガー(ギター、1946~)、ジョン・デンズモア(ドラムス、1944~)の三人で次のアルバム用のバック・トラックの制作に入り、ジム・モリソンはつきあい始めたばかりの恋人パメラ・カーソン(1946~1974)とパリに休養に行ってしまいます。そしてモリソンがホテルの風呂で急死したのは、アルバム発表からわずか3か月の、1971年7月3日のことでした。モリソンの変死(遺体は検死されずに埋葬されました)に関与しているのではないかと疑われていたパメラは、3年後の1974年4月にヘロインのオーバードーズで後を追ってしまいます。
◎アポロンとヒュアキントス像(18世紀製作)
この曲はドアーズのボックス・セット『The Doors Box Set』(Elektra, October 28, 1997)で、ロビー・クリーガーのビーチハウスで録音されたデモテープが発表され、同ボックスの解説書でメンバー三人がそれぞれ楽曲の成立過程を証言しています。モリソンがギリシャ神話の本を愛読していたのを証言し、これはヒュアキントス伝説の曲だと気づいたのはジョン・デンズモアだったようです。ロビー・クリーガーは実際にこの曲のデモテープが録音されたビーチハウスは庭でヒアシンスを栽培していたと証言し、「バスルームが空になるのが~」というのはモリソンとデンズモアが遊びに来た時一緒に来たモリソンの友人ベイブが先にシャワーを浴び、モリソンがバスルームが空くのを待っていた情景で、「ライオンどもを喜ばせ~」というのはクリーガーが飼っていたボブキャットで、「新しい友達が必要」というのはジムの恋人パメラがぼくたちと揉めていたことへのあてこすりだろう、と説明しています。またこのデモテープはリーダーのマンザレク抜きの演奏で、モリソンの歌、クリーガーのアコースティック・ギター、デンズモアはクリーガーの家にあったアラビアン・ドラムスを叩いていますが、完成テイクではマンザレクが間奏でショパンのポロネーズ6番の引用ソロ(アポロンの奮闘を表現して)を弾いており、補作曲と編曲をマンザレクが担当したことをマンザレク自身が語っています。デモテープではいかにも楽しげにホーム・レコーディングしていますが、この曲の歌詞が即興的に完成されたのはこのデモテープが録音された時になるそうで、おそらくメンバーも、ジム・モリソン本人でさえこの曲の歌詞の不吉さに気づいていなかったのかもしれません。すでに新作『L. A. ウーマン』の後では前作『モリソン・ホテル』発売時のような大規模ツアーは行わず、モリソンは休暇を取りに出かけ、残りの三人はすぐにモリソン帰国後のための次作用のバック・トラックを制作する、と余裕のあるスケジュールが決定していたようです。そしてモリソンはパリに休暇を取りに行ったまま帰らぬ人となり、デビュー・アルバム『ハートに火をつけて (The Doors)』(Electra, January 4, 1967, US#2/Canada#15, US Year End #7)から4年と4か月=52か月を四人編成で活動してきたドアーズはそのまま三人編成に移行します。マンザレクがリード・ヴォーカル兼任になった三人編成ドアーズは制作中のアルバム完成を急ぐため、パリのペール・ラシェーズ墓地で行われたモリソンの葬儀にも参列しませんでした。三人編成ドアーズは2枚の力作アルバムをリリースし、活発にライヴ活動を行うも、すべてのアルバムをトップ10入り、ゴールド・ディスク認定させてきたジム・モリソン在籍時から一気に人気は凋落し(南米ではヒット曲が出ましたが)、モリソン逝去2年後の1973年をもって解散してしまいます(のちマンザレクは「喪の期間が短すぎたんだ」と後悔の発言をしています)。デビュー・アルバムと再び『L. A. ウーマン』、三人編成ドアーズの第1作のアルバム・ジャケットを並べてみましょう。1967年のデビュー・アルバムから1971年の『L. A. ウーマン』でのわずか4年のジム・モリソンの容貌の激変、三人編成ドアーズの『Other Voices』(Electra, October 18, 1971, US#35)のいかにもジム・モリソンの不在を強調した、そのためかえって主役不在の印象は、アルバム内容が当初ジム・モリソンのヴォーカル・ダビングを前提として制作が進められていた作品だけに、力作にもかかわらず「ヒヤシンスの家」の不吉な予感が的中してしまったかのようです。
ヒヤシンス・ハウス、と言って連想されるのは、東京帝国大学工学部で建築学を学び、建築事務所に就職した詩人・立原道造(1914~1939)が建築作品の代表作として残した「ヒアシンスハウス」です。立原は早くからギリシャ神話のヒュアキントス伝説に惹かれ、自費出版した第一詩集『萱草に寄す』(昭和12年/1937年7月刊)、第二詩集『暁と夕の詩』(昭和12年/1937年12月刊)をともに「風信子(ヒアシンス)叢書」として刊行しました。そして立原道造を偲んで、立原生誕90周年の2004年に立原設計の遺稿設計図に基づいて「ヒアシンスハウス」がさいたま市の別所沼公園に建てられており、立原の命日・3月29日は「風信子(ヒアシンス)忌」と呼ばれています。
◎「ヒアシンスハウス」(さいたま市別所沼公園)
立原の設計した「ヒヤシンスハウス」はコテージ(小民家)と言うより茶屋または小屋のようなもので、トイレとベッドルームはありますが、台所も風呂場もありません。いわば散歩がてら自分だけの隠れ家として食料や飲料を持ち込んで半日すごすような作りで、とても本格的な住居とは言えないものです。立原道造の詩集のイメージそのままですが、このヒヤシンスハウスも、生活の場所ではなく一種の現実離れした虚構という意味では、「生ける屍の住む大棺(または墳墓)」のような感じさえしてきます。トイレしかなく座るか寝るしかないというのでは、拘置所の独居房や精神病棟の隔離室と同じです。現実の事象を現実とはメタ次元で表現する立原の詩の発想とそこがつながっています。立原本人が「現実を切り離す」不吉さを自覚していないだけに、ジム・モリソンのヒヤシンス・ハウスよりある意味いっそう不気味でもあれば、発想としては偶然の一致を見せています。ジム・モリソンがいかに文学趣味の強いヴォーカリスト兼作詞家だったとしても、当時おそらく英訳やその英文解説はなかったでだろう立原道造の「ヒアシンスハウス」を知っていたとは思えません。また立原が早くからギリシャ神話のヒュアキントス伝説に惹かれていたというのはナルシシズムとマゾヒシズムの不健康な混交を感じさせます。ある意味、神話・伝説を下敷きにして新たな神話的詩篇を生み出すという本家取りの趣向では、ジム・モリソンの歌詞の文学性はT・S・エリオットの長篇詩『荒地 (The Waste Land)』(1922年刊)やハート・クレインの長篇詩『橋 (The Bridge)』(1930年刊)を正統に継いだ、20世紀モダニズム現代詩の系譜にあります。ことに同性愛とドラッグ、アルコール依存症に苦しみ、船上から地中海へ投身自殺したクレインの作風に似ています。ブルースやロックに熱中するとともに文学青年でもあったモリソンが英語圏の現代詩の古典・エリオットやハート・クレインを読んでいなかったはずはありません。かえってボブ・ディランなどは詩人の名前など知ったかぶりをして無手勝手に自作曲を多作していた、とのちの自伝で自白しているほどで、それに較べるとジム・モリソンは実直なまでに勉強家タイプの作詞家でした。
◎逝去前年の立原道造(1914~1939)
今年生誕110年を迎える立原道造も、モリソンとは異なる意味で、やはりまた勉強家タイプの詩人でした。立原は明治以来の初版詩集を収集するのが趣味だったと立原の友人たちの証言があり、また師の堀辰雄のそのまた師、室生犀星については特に傾倒し、室生犀星が第一詩集として刊行した『愛の詩集』(大正7年/1918年1月刊)と、執筆年次は『愛の詩集』に先立つ第二詩集『抒情小曲集』(同年9月刊)を比較して、詩友たちにどちらを選ぶか詰問し、立原自身は『愛の詩集』を選ぶ、と宣言していたといいます。立原は不思議と古びない詩人で、あるいはそれが青年のまま亡くなった立原の青春性かもしれませんが、やや年長の中原中也、伊東静雄や津村信夫の持つ古典的風格、立原と同世代かつ夭逝した青年詩人の野村英夫、矢山哲治らの老成ぶりと較べても、どこか背伸びした少年の作文のような永遠の未完成的性格が感じられるのです。そこが師の堀辰雄譲りの文壇おじさまキラー、文学少女キラーの媚態が垣間見えるところで、享年27歳のジム・モリソンの「ヒヤシンスの家」は享年24歳の立原道造の「ヒアシンスハウス」よりよほど諦念に達しています。しかしそこが癖者で、立原の詩や「ヒアシンスハウス」はドアーズの「ヒヤシンスの家」よりよっぽどドリアン・グレイ的な、無自覚な魔性の魅力が立ちこめているとも言えるのです。