人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

集成版『荒野のチャーリー・ブラウン』第八章(完)

イメージ 1


  (71)

 最終章。
 チャーリー・ブラウンは自分を、もう長いこと泥の中を匍匐前進しているだけのアメーバか繊毛虫のように思いました。アメーバやゾウリムシ、また繊毛虫などの単細胞生物(たんさいぼうせいぶつ)とは、体が複数の細胞からできている多細胞生物に対する言葉であり、1個の細胞だけからできている生物を指します。単細胞生物原核生物と、原生生物に多く、菌類の一部にもその例が見られます。
 単細胞生物には寿命がないと思われがちですが、接合による遺伝子交換をさせないよう注意深くゾウリムシを培養するとやはり死に至ります。してみると、チャーリーが移動を続けるのも接合による遺伝子交換を本能的に求めて、自己の生命を維持しようとしてのことなのでしょう。だとすれば、とチャーリーは回らない頭でぼんやり考えました、このまままるで誰とも接触のない徘徊が続くかぎり、遅かれ早かれ死ぬのは遠くない。だがもし本能によって導かれているなら、もうまともな思考力すらない自分にそれ以上の選択肢が他にあるだろうか。
 さあみんなリアルおままごとをやるわよ!とネネちゃんは宣言しました。声の調子がいつもより高いのは、それだけムキになっている証拠です。彼女の命令は絶対でした。風間くんは何やるの、とさりげなく聞きながら内心ではびくびくし、マサオくんはすっかり慌てふためいていましたが、二人とも恐々としているのは同じことでした。ボーちゃんはいつでもボーちゃんなので、何を考えているのかはわかりません。イヤだなあネネちゃん、としんのすけは混ぜっ返しました、リアルおままごとならもうさっきからやっているじゃあないの。さっきから、っていつからだよしんのすけ、と風間くんが突っ込みました。えー、そんなこともわかんないの?いちいち回りくどいやつだな、ネネちゃんが言い出したのはつい今しがたのことじゃないか、と風間くん(そうだよ、とマサオくん)、ボーちゃんは「ボー」と言いました。
 もおみんなワカラズヤさんなんだから、としんのすけ、そして声をひそめて、オラたちが出てきた時にもうわかっていたじゃない、だってオラたちがここにいるのはおかしいんだから、これって全部リアルおままごとみたいなもんでショ?とこともなげに言い放ちます。
 ですが私たちがのっぴきならない事態に直面しているのは確かなことでした。今は仲間割れ、と言っても二人だけですが、争っている場合ではないのです。


  (72)

 ライナスはどうやら姉の臨終に間にあい、安堵すべきか悲しむべきか、はざまに挟まれたような宙ぶらりんな気分になりました。悲しみ、悲しみ、悲しみ自体はわかりやすいことで、肉親を亡くすほど悲しくつらいことはないといいます。みんながそう言う、本にも書いてある、そういう映画を観たことがある。だけれどぼくは、このぼくはいったいどうだろうか。つらい、つらい、だけどそのつらさは姉を失うことより、姉を失った後の世界に対する物怖じのようなものではないだろうか。
 彼女には不幸を紡ぐ黒いクモの糸をあやつる能力があり、世界中から夢や希望を奪い去り、莫大な不幸エネルギーを吸収することで、誰をも凌ぐ力を手に入れて、全世界を手中に収めようと暗躍していたのでした。彼女は精神攻撃に長けており、狙った相手を「すべての不幸」と貶め、「人間がいるかぎり不幸はなくならない」という持論を持っていました。キャラクターとしては「圧倒的な悪いヤツ」であり、「親しみやすさゼロ」「こころおきなくブン殴れる相手」とも言えました。
 その最終形態は巨大な翼形の暗黒色のエネルギー体のような姿形になり、その中央には妖しい光が灯るのでした。そうなるととてつもなく強力な不幸の力を持っており、巨大な光線を放つことさえできるのです。
 それがぼくに何の責任があるだろうか、とライナスは呟きました。単に家族というだけ、姉弟というだけでぼくの責任になるのだろうか。姉はライナスの大切な毛布を隠し、汚し、破り、捨ててしまうことすらこれまでに何度となくありました。末弟のリランが成長してからはよほど怒りに任せた時以外は毛布に関する嫌がらせをしなくなったように思える。それは毛布を持っているのがライナス、オーヴァーオールを着ているのがリランで、毛布を持たないライナスはオーヴァーオールを着ていない時のリランと見分けがつかないからです。
 しかしルーシーにはルーシーなりの言い分があるでしょう。ライナスは姉の死の床にまでこんな確執が心から晴れない自分を恥じましたが、彼女のような姉を持った少年が穏やかにに姉の臨終を迎えられる訳はなく、ルーシーの弟であることはライナスにとって生まれながらの呪いのようなものだったのです。
 ですがその存在はあまりに大きなものだったので、姉亡き世界がライナスにとってどう変貌するかは想像もつかないことでした。まったく、想像もつかないことでした。


  (73)

 闇夜のカラスは写真に写らない。ルーシーの弟たちに対する感情は基本的にはだいたいそのようなものでした。ルーシーの暗い人生観では、あらゆる感情が闇夜の黒一色に紛れてしまうのです。それはルーシーの根底にある不信、敵意、狂気そして救いがたい暗さが攻撃性になって横暴な暴走に走ったものでした。
 そして嵐の吹く暗い夜でした。ウッドストックは顔を上げると、いつもの無表情で続きをうながしました。どこまで行ったっけ、と尊大なビーグル犬はふふん、という仕草をしました。ウッドストックは仲間同士とこのビーグル犬にしかわからない、ガラスをひっかくような音声で、かいつまんで説明しました。概略そういうことですよ、とひとしきりキーキー鳴くと、ふたたびビーグル犬とヌケサク鳥の周囲は沈黙に包まれました。その沈黙は沈思におちいらせるよりも、むしろ活発な思考を沈み込ませるようなものでした。何もするな、とその沈黙は語りかけてくるのでした、何も考えるな。
 自害して果てたスヌーピーの遺骸は、日ごとに生前のおもかげを失っていきました。かんかん照りの荒野、しかも夜間は極寒の乾燥地帯では、遺骸の腐敗は進まず、ミイラ化だけが進んで行きました。まず体表面の筋肉が干からび、いわゆる骨と皮の状態になり、それから次第に全身の毛並みが抜けてしまうと、風に吹かれて飛んで行きました。
 スヌーピーの遺骸は毛をむしった調理用のチキンのようになりました。生前のスヌーピーがチキン呼ばわりされたら、自分がチキンなら相手はピッグだと罵り返したでしょう。しかし今のスヌーピーはもはやチキンですらありません。さらに言えばスヌーピーですらなく、遺骸というただの物質です。そこにはかつてスヌーピーというビーグル犬のパーソナリティ(犬をパーソンと呼べるとすれば)が宿っていました。そこにはかつてスヌーピーというビーグル犬のパーソナリティが宿っていました。
 いたのかな?そういうことでいいでしょう、とウッドストックは無言でタイプを打ちました。つまりスヌーピーがパーソナリティを持つビーグル犬でなければ、ウッドストックもまたパーソナリティを持つヌケサク鳥ではあり得ないからです。宿っていました、とウッドストックはもう一度、その箇所を暗誦しました。
 頼もしい秘書に、ビーグル犬は感謝の視線を投げかけようとしました。しかしそこにはすでにウッドストックの姿はありませんでした。


  (74)

 オラたちの出番もそろそろ終わりみたいだナ、としんのすけは呟きました。ええっ、それはどうゆうことなのしんちゃん!とマサオくんが動揺するのをネネちゃんは、あんたオトコでしょっ、ビビるんじゃないわよ!と叱り飛ばしましたが、実はその強がりは虚勢で、内心はマサオくんに負けず劣らずビビっていたのです。しかしネネちゃんはツンデレこそのプライドがあり、それは本物のお嬢さまの酢乙女あいちゃんや、男ひでりのまつざか先生のようには、素直な感情の発露を許さないものでした。
 ねえ?とネネちゃんは風間くんに同意を求めました。こういう時にはネネちゃんはいつも風間くんに話を振るのです。だから風間くんはたいがい、そうだよしんのすけ、とネネちゃんに代わってしんのすけにツッコミを入れる役回りを勤めるのですが、この時ばかりは風間くんもしんちゃんの発言に呆気にとられていました。ど、どうしようボーちゃん、と風間くんはおそらくかすかべ防衛隊唯一の理性である鼻たれ小僧に尋ねました。ボー、とボーちゃんはいつもの通りに呟きました。
 決まっているじゃあナイか、卒園式をするんだゾ、としんちゃんが言うと、5人はいつの間にか教壇の黒板前に並んで立っていました。黒板にはしんのすけの汚い字で「ふたばようちえんそつえんしき」と大きく殴り書きしてありました。しんちゃんは園歌斉唱の音頭をとり、卒園児代表の悼辞を読むと、オラが組長せんせいの役を演るゾ、とサングラスをかけて教壇に上がりました。なによ、これリアルおままごと?とネネちゃん。
 しんちゃんはマサオくん、ボーちゃん、ネネちゃんを次々と呼んで卒園証書を授与すると、風間くんに授与した後はサングラスを渡して風間くんから自分に卒園証書を渡してもらいました。これは本気の卒園式なんだ、とその時誰もが気づいたのです。
 さて、お見送りの番だナ、としんのすけが言うと、みんなが一斉にマサオくんを見つめました。えっ何ぼくが最初?とひと声残して、マサオくんは消えました。次にボーちゃんがボー、とだけ言って消えました。アンタたちと残るくらいなら先に行くわよ!と次にネネちゃんが消えました。どういうことだよしんのすけ!と呆然とする風間くんの敏感な耳にしんちゃんがフーッと息をかけると、風間くんもああっ……と呻いて消えました。
 そしてしんちゃんはひとり、卒園証書を握りしめて、旅立ちを見送る人もなく立ち尽くしていました。


  (75)

 第一章(回想)。
 ある暗い嵐の夜でした。
水皿の水にぼくのかおがうつっている。ぼくはのどが渇いているけど、この水をのみほせばぼくのかおは視られなくなる。ならぼくを視ているほうがいいや。そうナルシシストの小型ビーグル犬は考えると、そろそろおやすみの時刻かな、と犬小屋の屋根に億劫そうに上りました。彼は閉所恐怖症なのです。
 空模様はまずまずで、犬小屋には実は広大で快適な地下室もあり、タイプライター(執筆に関しては、彼はアンチ・パソコン派でした)を据えたデスクの正面には不運な火災で焼失するまではゴッホの小品が飾ってあり、やむなくビュッフェに変えてからは自分の創作力も低下しているように思えるのでした。「ある暗い嵐の夜でした……」
 彼は脊柱ががっちり犬小屋の屋根の峰を押さえこんでいるのを背筋の感触で確かめると、この小屋を彼に与えたくりくり坊主の少年のことを思い出し、自分ほどの知性ある犬、なにしろ少年の知人の少女には人間だと思われていたことすらあり、かつての戦線では撃墜王として勇名を轟かせ、探偵経験も弁護士資格も持ち、絶版ながら小説の著作も一冊ある(「ある暗い嵐の夜でした……」)。なのになぜあの少年はくりくり坊主としか覚えられないのだろう、と小首を傾げました。
 チャーリーも小首を傾げました。で?
 まあそれは自分のせいではないのだろう、とこの自惚れの強い小型ビーグル犬は気持よさそうに伸びをし、自分が彼らにどう呼ばれているかを、心地良い優越感とともに思い巡らしました。くりくり坊主とその仲間たちの、誰を取っても彼の名前と結びつけずには人物像が浮かばないほど、世界は彼を中心に形成されていたのです。
 ではもしあの少年の名がシルヴァーまたはゴールドだったら?あるいは陰影深いアジュールやグレイやブラックなら?色鉛筆や草花のようにレッド、ローズ、パイン、ミント、グリーン、ヒース、プラム、ガーネットだったら?
 ……ですがそれはあり得ないことでした。 少年の名前はチャールズ、愛称チャーリー。そして名前はブラウン、変哲もないブラウンだったからです。彼は何の役目も持たずにこの世界に生まれ、たまたま知らないうちにチャーリー・ブラウンという個性になったのでした。それでもスヌーピーにとってはただのくりくり坊主でしかなかったのです。
 ……チャーリーは顔を上げました。スヌーピーの姿はもうありませんでした。。


  (76)

 私たちがここに来ているのは何のためだったのかね、と吹きすさぶ嵐にずぶ濡れになりながら、ジャコウネズミ博士がこぼしました。わしなどすっかり濡れネズミではないか。世界的な哲学者にして自然科学者、物理学者の威厳がこれではさっぱりとしか思えんぞ。きみたちはそれでもいいのかね?
 と申しますと?とスティンキーが混ぜっ返します。博士はどーんな時でもムーミン谷いちばんの学識者でいらっしゃいますよ。気になさることなどないじゃあありませんですか、多少ずぶ濡れになろうと。
 ずぶ濡れに多少もあるものか、とヘムル署長が手錠でつながれたスティンキーの腕を引っ張りました。博士は濡れないところで休んでいてください、後は私たちでどうにかやれそうですから。なあ、という顔でヘムル署長は同行しているムーミン谷の仲間に振り向きました。そこには、
・今ここにいる人、と、
・今ここにいない人
 の両方がずぶ濡れになって立ち尽くしていました。それほどムーミン谷の住民は結束力が固いとも、付和雷同ともいえる光景に、天の怒りはますます激しい雨風やいなびかりを浴びせかけました。
 なんか変なものが飛んできましたよ、とスノークは顔にべったり貼りついたチラシを一瞥すると、これはいったい誰なら説明してくれるものかと悩みを抱えこみました。チラシにはこうありました。

生身の男性を女性用
ダッチワイフとして
派遣する性的派遣サイトです!!
◎男性様は完全無料、女性様は入会費が発生致します。
 ◎今すぐお金が欲しい
 ◎セックスしたい
 ◎楽に金を稼ぎたい
上記3点を一度でも
考えた事がある方は
ぜひ一度拝見して
くださいませ
 ⇒http://sptthreesan.com
まずはエントリー

メール交換

待ち合わせ

プレイ&報酬

初心者でも安心
してご利用頂け
ます。
 ⇒http://sptthreesan.com
◎セックスに自信の
ない方でも大丈夫、
そういった未経験
を好む女性もたく
さんおられます。

 私たちは地下通路の途中でひと休みすることにしました。本当は急がなければなりませんが、急いだところで本質的な解決にはならないのも明らかでした。一服くらいしようじゃないか、と私たちは腰かけました。すると、かたわらに横たえた少女が初めて何かつぶやいたのが聞こえたのです。何?と私たちは慌てて少女の耳もとに問いかけました。
 ……チャーリー、と少女は言いました。そしてスヌーピー、とも。


  (77)

 そしてようやくチャーリー・ブラウンはこの世界の意味を知りました。つまりパインクレスト町に住むチャーリー自身とスヌーピーウッドストック、また理髪店を開いているチャーリー・ブラウンのお父さんとお母さん、妹のサリー・ブラウン、パインクレスト小学校の学友たち……元祖ツンデレのルーシー・ヴァン・ペルト、毛布でおなじみライナス・ヴァン・ペルト、ライナスとうりふたつのリラン・ヴァン・ペルトの三姉弟や、天才トイ・ピアニストのシュローダー、ペパーミント・パティこと父子家庭のパトリシア・ライチャー、チャーリーやペパーミント・パティの崇拝者の少女マーシー、知性溢れる人格者の黒人少年フランクリン、いつも不潔なピッグペン、さらに天然カーリー・ヘアが自慢のフリーダやチャーリーとペパーミント・パティを引き合わせてくれたロイ、ライナスを翻弄したリディア、チャーリーが失恋したペギー・ジーン、傷心のチャーリーを慰めてくれたエミリー、ライナスの励ましで白血病と闘病したシャーリー、サリーが心を通わすことができた旧校舎の「学校さん」……そしてチャーリーが会ったことのないこの世界の最重要人物こそがスヌーピーの元の飼い主だったというライラという少女で、チャーリーはデイジーヒル仔犬園の係員さんからその少女がスヌーピーを一度は引き取りながら、再び里親探しに出さねばならなかった事情を教えてもらったのですが、遠い町に引っ越したという彼女と会ってお礼を言う機会には恵まれませんでした。
 また、ライラに会ったところでチャーリーにお礼以外の何が言えたでしょう。仔犬を飼いたいのに仔犬を飼えなくなった少女に向かって、仔犬を飼いたくて仔犬を飼うことがかなった少年が何を言えるというのでしょう。チャーリーはこれまで一度もそれを考えたことがなく、スヌーピーは最初から自分を取り巻くこのピーナッツ世界の一員のように思っていたのです。それはチャーリーの錯覚だったのでしょうか?むしろ、ライラがスヌーピーを里子に手離した時に願ったことが実現して、ライラのいない世界がパインクレストの町に成立したのです。
 では、とチャーリーは考えました、ぼくたちはライラの見ている夢の中の住人なんだろうか。そして今、彼女はその夢が自分を縛りつけている悪夢と気づき始めて、夢から覚めようとしているところなのだろうか。そして彼女の目覚めとともに、ぼくらは消えるのだろうか。


  (78)

 もうきみなんか嫌いだ、とライナスは言いました、飽き飽きしたし嫌気がさした、もうぼくの人生に関わらないでくれ。ただそれだけのことをきっぱり言えるにも人が積まなければならない経験には長い長い時間がかかります。また、それを言うのに十分な長い時間を過ごしていても、まったく時間の流れの影響を受けない状態があるとすれば、そこにはすでに本来の時間という概念が消滅してしまっているとも言えるでしょう。ライナスが生きていたのはそういう世界だったはずでした。
 しかし今ライナスは、はっきりとそれが間違いだと気づきました。ライナスはずっと自分が誰かに夢見られている影のような存在のような気がしていて、毛布を手離せなかったのはそのためでした。自分にも赤ちゃんの時代があり、それはフロイトの言う口唇期の性癖から由来するものと思いたかったのです。その記憶は作られたものでした。ライナスには幼児の時代などなかったのです。ライナスは最初から今あるライナスで、いつまで経ってもかつてと同じライナスのままでした。
 それは最初から他人の人生を生きているようなものでした。変化も成長もない人生を人生と呼べるとしても、ライナスは硬い殻の中で変化し成長しようとする強い力が抑えこまれ、内圧が耐えがたいまでに高まった状態を長い間生きてきました。もうきみなんか嫌いだ、とライナスは自分に言いました、飽き飽きしたし嫌気がさした、もうぼくの人生は好きにさせてくれ、ぼくに関わらないでくれ。
 ライナスはチャーリー・ブラウンを思い出しました。そしてチャーリーの妹サリー、ライナスの姉のルーシーと弟のリラン、パインクレスト小学校の学友たち……シュローダー、ペパーミント・パティ、マーシー、フランクリン、ピッグペン、またフリーダやロイ、ライナスを振り回したリディア、チャーリーが失恋したペギー・ジーン、それを慰めたエミリーを思い出しました。また、ライナスがお伴をしてデイジーヒル仔犬園にもらいに行ったチャーリーの飼い犬と、その犬と仲良しの野鳥(らしきもの)を思い出しました。
 しかしライナスの記憶では、今やチャーリーの飼い犬も、その仲良しの野鳥も何と呼んでいたかは定かではなくなっていました。かろうじてその存在が思い出せる程度で、犬種すら覚えていないほどでした。ひょっとしたらもう長いこと以前に、その犬はライナスの人生から消えていたのかもしれませんでした。


  (79)

 嵐の吹く暗い夜でした。
 夜はまだ早く、彼もまだ少年の年頃でした。ですが、夜は甘いのに、彼の心は苦りきっていました。それは彼が取り返しのつかない選択を決断してしまったからで、いくつもの可能性を諦め、人生の全体をスライスされたあげくその一片しか与えられないような立場に追い込まれていたからでした。
 より正確に言えば、彼を消沈させているのは現在陥っている状況そのものではなく、彼自身がそれを認識しているという点にありました。何も気づいていなければそれは起こらなかったのと同じことです。彼が苦しんでいるとすればそれは彼自身の認識力からきたした迷惑であり、そこから抜けだすにはオイディプスのように、もうひとりのアダムのように両目を潰さなければならないでしょう。しかしそれも彼には想像するだにぞっとすることでした。
 この世界の秩序の根幹にあり、疑ってはならないとされているのものは信じる心であり、希望であり、愛でした。いつしか彼はそれらからも見離されていました。しかしそれは彼自身がいつからか心のどこかで望んでいて、遂に実現しただけなのかもしれません。
 彼、つまりチャーリーにもともと備わっていなかったのは自信と積極性であり、それを初めて与えてくれた存在があのビーグル犬だったことはチャーリーも認めざるを得ませんでした。それまでぼくは卑怯で弱虫だった。だけれど、飼っているペットで人気を集めたぼくも相変わらず本当は卑怯で弱虫なだけだった。いい服を着ている、いい時計をしている、いい車に乗って有名な学校に通っている、両親が町では有名だったりする。そんなことと変わりない。
 ぼくは自分の領域を広げようとして、あの犬とともに不死である代わりに成長もできない存在になってしまった。でも今、あの犬との関わりを失ってからは、ぼくは何者でもない存在でいられる。ぼくは一気に歳をとることもできるし、またチャーリー・ブラウンである必要すらない。ぼくは弱虫で卑怯だったが、今や無責任であることすらできるのだ。
 だからチャーリーはもうあの犬の名前すら忘れ果てることにしました。すると、彼は自分が何者だったかも覚えていないのに気がつきました。それと同時にすべての記憶が失われ、かつてひとりの少年の人格だったものすらが崩れ、薄れてゆき、暗がりの中で明滅する点ほどの意識になり、それすらもほどなく遂には消滅していきました。
 次回最終回。


  (80)

 仔犬を飼っていいよ、とお父さんが言いました。えっ、本当にいいの!とライラは椅子から立ち上がりました。本当だよ、お母さんに訊いてごらん。ライラはすぐに台所に行こうとしましたが、ちょうどお母さんがお料理を運んできたところでした。お母さん、ねえとライラが言いかけると、お母さんはお父さんとライラの会話が聞こえていたらしく、いいわよ、と答えてにっこりしました。
 仔犬を飼ってもいいかどうかは、ライラには小学生になる前からの願いごとでした。幼稚園に通っていた時も仔犬を飼っている同級生がいて、ライラはうらやましくて仕方がありませんでした。その仔犬は道ばたに箱に入れられて捨てられていたのを、男の子に拾われてきたのです。はじめは家の中でうんちをする、お母さんのお気に入りドレスを食いちぎるなどかなりお行儀が悪い仔犬だったそうですが、ライラたちが知る頃には気弱ながらもかなり利口な仔犬になっていました。その頃には仔犬の方が男の子に苦労していたようですが、それでも飼い主の男の子は誰よりも大好きな様子で、お休みの日にライラが公園で男の子たちを見かけることがあると、仔犬はとても嬉しそうにボールを追いかけたりしていました。
 またこの仔犬はしっかり者で、散歩に連れて行ってもらえないとひとりで散歩に行ったり、エサをもらえないと商店街で一芸を披露して通行人に食べ物をもらったり、男の子やお母さんの代わりにおもちゃを片づけたり、洗濯物を取込んでくれたり、オクラの水やりをサボった男の子の代わりに水やりや虫や雨を防いだり陽の当たる場所に出したりして見事に育て上げたり、男の子の代わりにお使いに行ってちゃんとお買い物をしてきたり、お家の赤ちゃんのお世話をするなど人間なみの行動力がありました。また捨て犬や病気の捨て猫の面倒を見たり、猫が死んだ時は怒りのあまり元飼い主に吠えかかったり、自分とそっくりな犬を亡くした病弱な女性を慰めるという優しさも持ちあわせていて、自分をいじめたのら犬やのら猫とも仲良くなれました。
 その一面その仔犬は、かわいいメス犬を見つけるとナンパをしたり鼻の下を伸ばしたり、勝手に一人で散歩に出かけたり、家じゅうが慌てている時でも外でのんびり昼寝をするなど、マイペースな一面もありました。
 ……飼えるかい?うん、もう名前も決めてあるの、とライラは言いました。でもまだ誰にも言わないの。だれにも。
 おしまい。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第二部・初出2014~15年、原題『ピーナッツ畑でつかまえて』全八章・80回完結)
(お借りした画像は本文と全然関係ありません)