人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(2)ディジー・ガレスピー(tp)

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Dizzy Gillespie(1917-1993,trumpet,vocal)。実はこの初期3枚でディジーを代表させるのはいささか気が引ける。パーカーは34歳で死去したがディジーは76歳まで苛酷な音楽ビジネスを生き抜き、後輩マイルス・デイヴィス(トランペット)の死まで看取った。マイルスはパーカーがディジーとコンビ解消した後二十歳そこそこで採用した新人で、1945年の初レコーディング(サヴォイ・セッション)ではディジーが心配して現場に立ち会い、やはり新人メンバーの代わりにピアノを弾いたり、マイルスがどうしても吹けない曲で代役を勤めたりしている。
マイルス独立の後にパーカーが採用したのはチェット・ベイカー(トランペット)で、パーカーはディジーとマイルスに「すごいやつ見つけたぞ。白人で美少年だぞ」と電話したという。それから25年経ち(70年代半ば)、チェットはもう10年以上ヨーロッパを放浪して現地ジャズマンをバックに演奏して日銭を稼ぎ、しかもヘロイン代で懐は火の車(パーカーから教わったらしい)という身になっていた。そこで労働組合に話をつけてチェットの保証人になりヨーロッパから呼び戻したのがディジーだった。この手の美談を上げればきりがない。

60年代には黒人ジャズマンの間では'Dizz for Prez!'(ディジーを大統領に)が合言葉になっていた。そのくらい尊敬を集めていた人なのだ。本人は謙虚と冗談で「時代の先取りはマイルスに任せたよ。おれは後からパクるから」ととぼけていた。器がでかい。
ディジーの演奏はいつも新鮮で、晩年まで艶を失わなかった。全盛期は自分のバンドを持っていた60年代までで、70~80年代はヴェテラン同士のコラボレーション中心になる。映像を見るとすごい。楽器に息を吹き込むと頬や首の太さが倍になるのだ。ジャズ以外では絶対ダメと言われる吹き方。さすがだ。

紹介アルバムは、ビッグ・バンドとパーカーとのビ・バップ・バンド最初の傑作「グルーヴィン・ハイ」(1945・画像1)、アフロ~ラテン風味で後に大物になる新人ばかり従えた「スクール・デイズ」(1951・画像2)、よりエンタテインメント色を強めリズム&ブルース的ヴォーカル曲を中心とした「ザ・チャンプ」(1952・画像3)で、ディジーの全貌はこの三枚の延長にある。なにより音楽が暖かいのがこの人の魅力だ。