人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(5b)マイルス・デイヴィス(tp)

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前回の続き。マイルスはチャーリー・パーカーのバンドから独立後、10人弱の編成でビ・バップをソフトに奏でる、というアイディアを実践し、客入りの悪い臨時編成バンドだったが批評家の絶賛からこのスタイルはクール・ジャズと呼ばれ、アルバム「クールの誕生」1949が録音される。一般的にはようやくパーカー=ガレスピーのビ・バップが浸透した頃だが、クールを生み出すとすぐマイルスは別の方向へ向かう。前回から引用しよう。

「(そして)ビ・バップの発展型としてハード・バップ様式を確立した最初の傑作「ディグ」(1951)、超人的メンバーが揃い完全にビ・バップとは異なる音楽理論からジャズを反転させた「カインド・オブ・ブルー」(1959)、エレクトリック編成で官能性と抽象性を極めた「イン・ア・サイレント・ウェイ」(1969)を里程標に」マイルスの音楽は進んでいった。「ディグ」はソニー・ロリンズ(テナー・サックス)、ジャッキー・マクリーン(アルト・サックス)を世に送り出し、「カインド~」はジョン・コルトレーン(テナー・サックス)との5年間のコンビネーションに新鋭ビル・エヴァンズ(ピアノ)が参加して実現したアルバムで、「~サイレント・ウェイ」もウェイン・ショーター(テナー・サックス)やハービー・ハンコック(ピアノ)を含む60年代の抽象主義クインテットを、バンドを解体してエレキ・ギターやエレクトリック・ピアノに置き換えたもの、と言えるだろう


そして「~サイレント・ウェイ」からわずか半年後に録音された2枚組「ビッチズ・ブリュー」(1969・画像1)はさらに過激なものだった。マイルスは「どんなロック・バンドだって超えてやる」と公言していたが、このアルバムから76年までは本当にそれを実行してしまった。「ジャック・ジョンソン」「アット・フィルモア」「ライヴ・イーヴル」が70~71年にかけて発表され、72年には驚異のジャズ・ファンク名作「オン・ザ・コーナー」(画像2)で多くのファンを失う。そしてマイルスはジミ・ヘンドリクスジェームス・ブラウンの影響で超絶ファンクを強化、その結論が75年の大阪コンサート「パンゲア」(画像3)だった。

翌年から活動停止していたマイルスは81年にカムバック。往年の生気は薄れたがカリスマ性はあり、生きた伝説として晩年の10年を送った。