人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(7)クリフォード・ブラウン(tp)

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Clifford Brown(1930-1956,trumpet)。ビ・バップ~ハード・バップ最高で、26歳夭逝ながらも今なおこの人を超えるトランペッターはいない、と言われるが、この人の前にディジーがいるし、天才ファッツ・ナヴァロ(1923-1950)がいる。パーカーと互角に渡り合ったのはあと1人、LAのハワード・マッギーだけだったと言われる。ちゃんと録音も残っている。ナヴァロなら「ワン・ナイト・イン・バードランド」1950で、火を噴くようなライヴ録音だ。
ナヴァロはヘロイン中毒による不摂生から肺炎を起こして早逝したが、学生時代のクリフォードはナヴァロに親切に教えてもらっていたという。クリフォードのデビューは1952年だった(画像3「ザ・ビギニングス・アンド・ジ・エンド」に収録)。パーカーは55年に急逝し、クリフォードも翌年自動車事故で亡くなる。クリフォードは実働4年のキャリアで伝説的巨匠になった。

「ザ・ビギニングス~」の後半は、なんと事故死する晩に巡業先のジャズクラブのジャムセッションの録音(参加者による)も収められていて、あまりにクリフォードがすごいのでそれなりの地元ジャズマンたちが息切れ寸前になっている。
順序は逆になるが、ビッグ・バンドで働く傍らルー・ドナルドソン(アルト・サックス)とクインテットを組んでいたクリフォードに最初に目をつけたのがアート・ブレイキー(ドラムス)で、ブルー・ノート・レーベルに話をつけてライヴ録音を取りつけ、自分がドラムスでリーダーの座についたのが画像1「バードランドの夜」1954だった。ブルー・ノートはインディーズだがミュージシャンの間では瞬く間に評判が広がった。このアルバムはとにかく速いが走りすぎて字余りになるルー・ドナルドソンが微妙だ。

で、マックス・ローチがクリフォードを引き抜いてLAに拠点を移し、ブラウン=ローチ・クインテットを結成(テナーはハロルド・ランド、のちソニー・ロリンズ)。ピアノはバド・パウェルの弟リッチー・パウェル。このバンドでクリフォードの死までの2年間に録音したアルバム6作はすべて名作。画像2「スタディ・イン・ブラウン」1955は2月の3日間で録音され、曲も短めで聴きやすい。
追悼曲「クリフォードの思い出」はスタンダードになっている。