人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(34d)ハンク・モブレー(ts)

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そしてモブレーびいきから見れば楽歴唯一の失態、人によっては汚点とすら呼ぶマイルス・デイヴィスクインテット時代がやってくる。ジョン・コルトレーンが1960年に独立したのでマイルスはサックス奏者を探していた。ウェイン・ショーターが欲しかったがジャズ・メッセンジャーズに取られてしまった。ツアーはヴェテランのソニー・スティットで乗り切るが感覚が古い。そこで実績も十分なら世代も若いモブレーを加入させた。
これには裏話もあって、第一候補はエリック・ドルフィーだったが当時ドルフィーコルトレーンクインテットのメンバーだった。それ以来マイルスはインタビューごとにドルフィーの演奏をくさすようになった、というのがN.Y.のジャズ関係者の間では公然の秘密だったという。

ともあれ、61年3月にモブレー入りクインテットはアルバム「いつか王子様が」(画像1)の録音に入る。だが2回目のセッションでタイトル曲を録音するにあたってはジョン・コルトレーンをゲスト参加させ、結局それがアルバムのハイライトになってしまう。
モブレーは三部作最後の傑作「ワークアウト」を録音後マイルス・クインテットの西海岸ツアーに出発、61年4月21日・22日のサンフランシスコ公演は「ブラック・ホークのマイルス・デイヴィスVol.1」(画像2)「Vol.2」としてアルバム化されたが、モブレーのソロは大幅に短縮された。初回盤CDではレコード通り、現行CDではカット部分を復元した完全版として再発売されたが、マイルスのファンはそれ見ろ、モブレーのファンは悔し泣きの、緊張感を欠いた垂れ流しソロがあるだけだった。リズム・セクションだっていつもブルー・ノートのアルバム録音で馴染みのメンバーばかりなのに、なぜこういうことになってしまうのか。テーマから先発ソロをとるマイルスの音楽的支配力の強靭さに、モブレーの音楽性が太刀打ちできないのだ。歴代のマイルス・バンドのホーン奏者たちはどれだけ屈強だったかわかる。それこそドルフィーやショーターほどの強力な個性が必須だった。

モブレーはオーケストラとのライヴ盤「アット・カーネギー・ホール」61.5(画像3)を最後にマイルス・クインテットを去る。半年も持たなかった。このライヴでは比較的無理のないモブレーだが、所詮は音楽性が違いすぎた。モブレーはそれほど繊細だった。