詩人石原吉郎(1915-1977)の俳句と短歌については、急逝後すぐの書き下ろし論考が二編「現代詩読本-2・石原吉郎」78.7に収録されていると前回で触れた。そのうち、藤井貞和「〈形〉について~日本的美意識の問題」は、すでに検討した通り、76年7月「詩の世界・第5号」に同時発表された詩三編・俳句三句・短歌二首を論考の起点とし、照応する詩編を指摘したのち主に歌集「北鎌倉」について論じている。晩年の石原は短歌においては(複数の評者が指摘するように)日本的美意識の形にのめり込んだ。だが村上一郎のように日本的美意識を「くぐり抜ける」道はなかったか、と、本格的な問題に足をかけたところで擱筆されている。
おそらく村上の自殺は晩年の石原には畏怖すべき事件だったろう。
村上一郎(1920-1975)は敗戦後、共産党員の批評家として活動しつつ共産主義の理想と党への疑惑を深め、離党して日本近代の革命思想史の研究に向った。その最大の成果が2.26事件の理論的首謀者として冤罪から銃殺刑された「北一輝論」70で、同人誌連載中から三島由紀夫に高く評価され、晩年の三島の思想にも影響を与えている。ただし三島が謀叛を玉砕を織り込んだアジテーションとして解釈し、心情的に殉教的決起と捕え、そして模倣したのに対し、村上は理論的に「2.26成功以後の、日本の可能性」を考察している。
村上はホーリーネス派のクリスチャン・ホームに育ったから殉教者コンプレックスは第二次大戦の戦死者たちに持ち続けていた。石原には欠落している社会的視野(吉本隆明の指摘)を、共産党運動経験から獲得していた(石原のソヴィエト抑留はあまりに個人的な苦悩だったので、個人と他者以上の広がりを持ち得なかった)。三島の自害を「絶対への殉教」と賛美した澁澤龍彦のような軽薄さは、村上にはなかった。三島もまた戦死者たちへの贖罪意識に苛まれていたことを理解していた。
村上の自殺は日本刀で頸動脈を切断、という壮絶なものだった。通常刃物による自傷行為は、自己防衛本能が働いて致命傷には至らない。後の江藤淳の自殺も半身不随の病状で入浴中に手首を切り失血死、と、それも痛々しいが、村上は明確に三島の五年のちの後追い自殺だった。
晩年の石原の言動には、明らかに村上の死が影を落としている。石原もまた、クリスチャンだった。