人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

マルカム・ラウリー『火山の下』(1947)2

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イギリスの小説家マルカム・ラウリー(1909~1957)の代表作『火山の下』1947は全12章で、そのうち第一章は全体の序章をなす一年後の回想ですから、第二章以降の11章は主人公夫婦が悲惨な事故死を遂げた一日の午前七時~午後七時の12時間を追ったものにすぎません。事故死の状況は序章で明確に述べられてはいませんし、序章の視点人物である主人公の友人が知り得た範囲でしか事件は回想されないから、その日主人公夫婦(正確には元夫婦)に具体的には何が起こったかは序章だけではわかりません。離婚したアルコール依存症の元夫婦が再会したその日に別々に事故死した、読者が序章から知り得るのはそこまでです。

そして第二章が事件当日の朝の情景から始まるなら、通常読者が予想するのはドキュメンタリー的な事件の生起とその推移の客観的叙述ですが、確かに朝の情景には違いないものの状況説明もなしに人物の行動が描かれ、唐突に内面描写に切り替わっても行動と内面は並行して進行していくだけで、心理が行動を、行動が心理を説明し裏づけるような効果はまったく果たしていない。取りつく島がないとはこのことで、内面の描写が続いているうちに行動が進展し、または行動の描写が続いているうちに内面の変化が生じていることもしばしばですから、訳者解説にもあるように「一読して何が起こっているのか理解しづらい」ような手法に作者の自覚がないわけはないのです。

また、これは作品に「謎」が設定されていて、そのために伏線が張ってあるのとも異なるでしょう。そうした伏線なら、作品はフィクションの水準で一定のリアリティを確保した上で結末に向けて合理的な解明がなされるか、または読者に解釈の選択肢を提示してくれます。解釈の不可能性を含めても、それが意図ならばゲームは成り立ちます。しかし作者は韜晦しているのではないでしょう。

ラウリーはジョイスプルースト、フォークナーら20世紀前半の前衛小説に直接影響を受け、自己流に独自の文学的実験を行ったには違いありませんが、出来上がったのは作者の特異な感受性を反映した突然変異とも言える作品になった。狂気に近い禍々しさと破滅的な不吉さでほとんど読者を寄せつけない伝説的作品を生み出した。次に再刊されるのは2050年頃でしょう。読めない本、というのも世の中にはあるのです。