カップラーメンならまだいい、というのは、日本にも乾麺の伝統があり、茹で上げではなく熱湯の浸透で仕上がる汁ラーメン(またはうどん、そば)だからそう違和感はない。だがカップ焼きそばは湯戻しした味つき油揚げ乾麺を湯切りして、ソースをかけただけではないか。焼きそばといっても炒める手間をかけずに、ただ焼きそばのような味になっているだけのものを焼きそばと呼ぶのは、焼きそばという大衆的エスニック食(大仰かもしれないが)の伝統にあまりにも敬意を欠いていないか。
そういう食文化の自然な発生・発展から見ても、カップ焼きそばは破壊的な突然変異食品なのではないか。明らかにこれは焼きそばもどきであって、目的は違うがこんにゃくゼリーとか、食品のふりをした擬似食であり、嗜好食でしかないようなもので、しかも普通の麺食に化けているのがこわい。これが普通になると、カップ焼きそばは好物だが、蒸し生麺を野菜や肉・海鮮と炒めた真正の焼きそばは全然好きではない人もいるかもしれない。もちろんすべての麺類は平等であるべきだが(トコロテンは微妙だが)カップ焼きそばをも正統な麺類とすると麺類平等の原則が疑わしくなってくるのだ。これは食文化全体に及ぶ問題でもある。
本来なら異文化である土壌に受容された飲食物が食生活のアクセントになるのもよくあり、たとえばトマトは江戸時代に渡来したが一般に食されるようになったのは昭和(1926年~)以来のことだった。詩人の小野十三郎(1903~1996)の第1詩集『半分開いた窓』は1926年の刊行だが、11月だからぎりぎり大正16年中の作品になる。この詩人の昭和最後の年、1989年の詩集『いま いるところ』は前作『カヌーの速度で』1988から1年で60編の新作を収めた詩集で、『カヌーの速度で』前年には60年来の詩人仲間の草野心平、秋山清、そして『いま いるところ』刊行半年前には60年来連れ添った夫人が亡くなり、詩集制作中にも詩人仲間の藤沢恒夫の訃報が入ってきた。令嬢4人が嫁ぎ先から代わるがわる訪ねてきてくれたが、一人暮らしになった小野十三郎は執筆は夜、昼は事務や面会者の応対という生活リズムのために朝は喫茶店にモーニングに出向くを日課にする。その詩がこの「レモンのすっぱさ」になる。
次の詩も同じ詩集からで、やはり朝食を喫茶店のモーニングでとる楽しみを書いた詩だが、86歳の寡夫となった老詩人の詩と思うと、張りがあり無理がない表現には感嘆する。こちらのタイトルは「フォークにスパゲッティをからませるとき」で、これが全行になる。