人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年2月11日~15日/ジョーン・クロフォード(1904-1977)とベティ・デイヴィス(1908-1989)

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 ジョン・クロムウェル監督作品『痴人の愛』はベティ・デイヴィス出世作となった定評ある名作で、クロムウェル作品を続けて観たついでに『痴人の愛』以外のベティ・デイヴィス出演作も観直したくなりました。ベティ・デイヴィスというと思い出すのがジョーン・クロフォードと姉妹役で主役を張った『何がジェーンに起こったか?』(アメリカ'62/ロバート・アルドリッチ)で、子供時代にこの映画のカラー広告が載った古雑誌が家にあったのでベティ・デイヴィスジョーン・クロフォードは最初に覚えたアメリカ映画の女優の名前でした。この映画は頭のおかしくなった妹(デイヴィス)が身体障害者になった姉(クロフォード)を監禁虐待、目撃者の殺害までするサイコ・スリラーで、ペットの小鳥が料理に出てくる食卓シーンなど序の口で、とにかく50代の女優ふたりが怖かったです。『何がジェーンに~』もいずれ観直したいと思いますが、今回はいつか観たいと思っていた『黒蘭の女』『情熱の航路』『深夜の銃声~偽りの結婚(ミルドレッド・ピアース)』を初めて観ることができました。

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2月11日(土)ジョーン・クロフォード主演作
ルイス・マイルストン『雨』(アメリカ'32)*94mins, B/W
・原作サマーセット・モーム。サイレント末期にラオール・ウォルシュ監督でグロリア・スワンソン主演『港の女』として初映画化されて、そちらの方がヒットし評価も高いらしいが現存フィルムはラスト10分欠落で観る機会がない(輸入盤DVDはスチール写真とクロフォード版『雨』をラストにつないでいるらしい)。こちらのクロフォード版も名高いが公開時の観客動員は惨敗だったそうで、クロフォードは同年のオールスター映画『グランド・ホテル』で何とか面目を保ったらしい。南海の孤島に嵐とコレラで足止めされた旅客に混じって、流れ者の娼婦丸出しの女サディ(クロフォード)が水兵にはモテるがほとんどの客からは顰蹙を買う。居丈高な中年牧師(ウォルター・ヒューストン)が女を更生させると息巻くが、この牧師の傲慢さと偽善性がよく描けているので現代の観客には(たぶん当時も)娼婦も牧師も不愉快な人物同士のいがみ合い(娼婦の方が偽善的でないだけまだましという程度)に見える。外はずっと豪雨、室内劇的な内容の上に登場人物があまりに頭が悪く(お互い無視すれば済む話で、それでは映画にならないのならもっと衝突を避けられない工夫が欲しい)、伏線もなにもなしにいきなり結末になって唐突で困ってしまうが、クロフォードの反抗とヒューストンの説教の応酬を延々観るうちにブツッと終わってしまう粗っぽさがあっけなく、ウォルター・ヒューストンといえば息子ジョン・ヒューストン監督の『黄金』の食えない爺さんだから(グリフィス『世界の英雄』のリンカーン、ワイラー『孔雀夫人』の大富豪役でもある)、ヒューストンを観ているだけでまっいいか、という気になる。監督のマイルストンは毎度毎度どこか釘が抜けているような仕上がりで、雨を降らせば(地面を叩く雨は悪くない)一丁上がりみたいな安易さはないか。クロフォードはサイレント期からの映画女優なので(ヒューストンは舞台俳優出身)演技も映画自体もまだサイレント映画を引きずっているようにも見える。その辺りの過渡期っぽさがそれなりに見所(結局雨水が跳ねるカットなんかサイレント的だろう)ではある。この映画の見所に触れると完全にいわゆるネタバレになり、ネタバレしたって変わらないかもしれないが、ほとんど爆笑を誘う場面が2箇所ある。これは何かのパロディかと疑わしいくらいで、まさかそんなことはなさそうだからなおさら面食らう。これはあくまで外国映画であり、85年前のアメリカ人の文化資料と思えばこれほど興味深いものはない。何なら喜劇と思って観ても構わないし、少しだけネタバレすればこれはエクソシスト映画、つまり恐怖映画でもある。

2月12日(日)ベティ・デイヴィス主演作
ジョン・クロムウェル痴人の愛』(アメリカ'34)*83mins, B/W
・原作サマーセット・モーム『人間の絆』"OF HUMAN BONDAGE"。これは人間の束縛、またはしがらみ人生と訳した方が正確なのでは。キャスト上ではベティ・デイヴィスに誘惑されては捨てられる医学生役のレスリー・ハワードが主人公になっている。クロムウェルはいかにも気候の晴ればれしないロンドンを描いて、基本的には冴えない青年の話をムード込みで見せる。デイヴィス演じるウェイトレス上がりの尻軽女ミルドレッドも医学生こそカモにしか思っていないが、医学生周辺の男と次から次へと出来ては捨てられ未婚の母にまでなってしまうので、自業自得とはいえ不幸な女には違いない。ようやく縁が切れました、という頃に自分を頼りに戻ってくる、しかもたび重なるほどボロボロな女になっていくのできっぱり別れられない主人公も自業自得と自覚しているので、この映画の結末は他に仕方がないハッピーエンドなのかもしれない。この映画のレスリー・ハワードほど表情に生気のない(笑顔どころか表情すらない)映画の主人公の場合、普通なら観客の共感もしようのない失敗作になるところだが、こういう題材の映画ではハワードの演技、クロムウェルの演出がはまった。アメリカ人の考える典型的な朴念仁のイギリス人という感じがどんよりしたムードとあいまって良く出ている。デイヴィス(1908年生)はトーキー時代になって映画界入りした人で、サイレント女優だったクロフォード(1904年と05年生説で確定できないらしい)とは4~5歳差だけで演技がまるで違う。クロフォードなら視線を移しながら顎までしゃくって肩が傾くがデイヴィスは視線の移動は口もとで感情表現するにとどまる。それでも『雨』では仁王立ちのウォルター・ヒューストン相手に検討したが、『痴人の愛』のハワードとデイヴィスの硬直したしがらみ演技の迫真力にはかなわない。クロフォードは後から出てきたデイヴィスに抜かれて終生の因縁になるが、本作が出世作となったデイヴィスも25年後には『イヴの総て』で自己パロディ的なキャスティングがまわる。ただしデイヴィスは(『イヴの総て』も)本作以降作品に恵まれた点でクロフォードよりついていたように思える。

2月13日(月)ベティ・デイヴィス主演作
ウィリアム・ワイラー『黒蘭の女』(アメリカ'38)*104mins, B/W
・『痴人の愛』が大評判になりながら所属映画会社からの他社出演作が理由でアカデミー賞にノミネートもされなかったものの、翌年の『青春の抗議』(アルフレッド・E・グリーン)でアカデミー賞主演女優賞振り替え受賞(笑)。次いでワイラーの本作で堂々二度目の主演女優賞受賞。19世紀半ばの南部、大農園令嬢のヒロイン(デイヴィス)は奔放な性格で社交界の礼儀もわきまえず、婚約予定の工場主の恋人(ヘンリー・フォンダ)の面目も潰してしまう。傷心の工場主は北部へ長期の出張に行き、数年後に帰ってきたら北部で見初めた嫁さんを連れていた。深く後悔するヒロインはチフス流行の地へ救護活動に行ったまま感染して帰れなくなった元恋人への思いが断ち切れず……と、まるで翌年公開の『風と共に去りぬ』の予告編みたいな話で、ワイラーはさすがにうまいです。階上まで吹き抜けの大広間があって、下手(左)に食堂やキッチン、居間、上手(右)に二階に上がるアーチ型の大階段があり、この室内構造を生かした人物の入退場や構図はワイラーの独壇場(キャプラも上手いが。『我が家の楽園』『毒薬と老嬢』)。『風と~』を観ていれば本作のヒロインなどまだ可愛く見える。そう、『雨』にしても『痴人の愛』にしてもヒロインは自分の好きなようにしているだけで十分報いは受けているし、本作のヒロインもまたしかり。フォンダ演じる青年が意志薄弱なだけに見えてくる。実際大してヒロインと向き合わないまま出張先で結婚してしまうし、逆恨みしないヒロインの方が立派に見えるほど。ただし映画としての格を下げるほどの瑕ではない(上げもしないが)。デイヴィスは貧乏人の強欲を演じるよりも金持ちの傲慢を演じる方がスケールがでかい。フォンダは名優は名優だが、名優にも向き不向きがある。デイヴィスとの組み合わせがしくじったか。2年後の『西部の男』で起用するゲーリー・クーパーを呼べなかったのか、それともギャラの問題か。いやクーパーとデイヴィスの共演というのも何だか散漫になりそうだからフォンダで良かったのか。満足いく佳作ながらもっと満足の秀作にあとひと押しのもどかしさがあって、デイヴィスに関しては十分満足なのだが。

2月14日(火)ベティ・デイヴィス主演作
アーヴィング・ラパー『情熱の航路』(アメリカ'42)*117mins, B/W
・原題『Now, Voyager!』。行け、船人よ、という意味らしく、このタイトルのセンスは素晴らしい。ヴァージニア・ウルフみたい。内容も非常にシリアスで、未成年の頃からの母親の抑圧から慢性的で深刻な鬱に陥った母子家庭の末子のオールドミス(デイヴィス)が、良い精神科医(クロード・レインズ)に恵まれ立ち直るまでが前半、後半は母離れのため医師の勧める大西洋ツアーに参加して中年ビジネスマン(ポール・ヘンリード)と知り合い親しくなり、彼の妻子がちょうど母と自分と同じような状態なのを知る。すっかり回復して帰国するが母の態度は変わらず、母の進めていた縁談を断ったことで口論となり母は心臓発作で急死。再びサナトリウムに入所したヒロインは旅行で知った彼の末娘が重鬱で入院中なのを知り(偶然ではなく、旅行中の身の上話でヒロインの勧めた病院だったから)、片思いする男の娘の母代わりをすることに生きがいを見出すのだった。と結末まで書いてしまったがこういう作品ならいいだろう。ワーナー作品で製作はハル・B・ウォリス、レインズとヘンリード助演という布陣は『カサブランカ』(マイケル・カーティス)と同じで、同じ大手でもMGMやパラマウントではこういう翳りのある作品は作れない。スタッフの末席にドン・シーゲルもいる。本作の見所はずばりベティ・デイヴィスの別人演技で、前年のワイラーの名作『偽りの花園』での名演に劣らない。最初は猫背で老け込みおどおどした重鬱オールドミス、退院する時は病明けの身動きながら希望を見つけた表情、実家に戻って母に当たられ初めて自己主張するシーンの激しさ、大西洋ツアー中にどんどん磨きがかかっていく美貌、母の急死後に自分から入院を決める精神的自立、主治医の同意を得て重鬱の少女を慈しむラストシーンの母性、などベティ・デイヴィスアメリカの田中絹代(1909-1977)かというくらい演技の幅が広い。これもアカデミー賞主演女優賞ノミネートなのは納得。戦時中作品だが戦後日本公開されたのは戦時色がない映画だからだろう。ヒロインの成長物語であると共に家庭問題を扱ったホームドラマでもあり、身近な病気からのリハビリ物語でもある。ワイルダーの画期的な『失われた週末』が1945年だから、こうしたメンタル疾患とそのリハビリはアメリカ本国でも目新しい題材だったのではないか。またアメリカのゲイの男性黒人作家ジェームズ・ボールドウィン(1924-1987)の映画論集『悪魔が映画を作った』には、少年時代の最愛の女優はベティ・デイヴィスだったとある。次のクロフォード主演作『深夜の銃声』もクロフォードの成熟した名演が観られる傑作だが、同じ名演でもデイヴィスの演技は虚構ならではのリアリティという点でクロフォードとは質的に違い、それが少年ボールドウィンの感じたデイヴィスへの共感なのではないか。本作の途方もない演技の氾濫はそうしたことを考えさせる。

2月15日(水)ジョーン・クロフォード主演作
マイケル・カーティス『深夜の銃声~偽りの結婚(ミルドレッド・ピアース)』(アメリカ'45)*111mins, B/W
・原作ジェームズ・M・ケイン(『郵便配達は二度ベルを鳴らす』『倍額保険(深夜の告白)』)。日本劇場未公開作品で『深夜の銃声~偽りの結婚』はテレビ放映題名、原題はヒロイン名の『ミルドレッド・ピアース』。アカデミー賞主演女優賞受賞作で映画自体もマイケル・カーティスの傑作。テレビ放映タイトルは映画の内容に即して悪くない。いきなり中年男が射殺される場面(もちろん犯人は写らない)から始まる。男は「ミルドレッド……」と呟いて死ぬ(『痴人の愛』と偶然同じ名前)。次に橋の欄干に手をかけ思い詰めた表情の中年女。パトロール中の警官に注意されて街中へ歩いて行くと知り合いの中年男にばったり遭う。「やあ、ミルドレッドじゃないか」。飲みに行こう、という話になり女は海辺のロッジに誘う。女が酒の支度をするのを男がロッジの居間で待っていると、いつまで待っても女は来ない。ロッジを出ようとすると外から鍵がかかっている。居間に戻って明かりを点けると映画冒頭で射殺された中年男の死体。男は窓を破って脱出するが、すでに警察がやってきている。で、次に警察署内に場面が移るとその男の嫌疑は晴れて、殺された男はミルドレッドの再婚相手の夫とわかり、前夫との娘と家にいる所を呼び出されたミルドレッドは担当警部に前夫が容疑者と告げられる。「そんなはずはありません」ここまでで約15分。ここから75分間はミルドレッドが前夫との離婚の経緯から母子家庭で生計を立てた肝っ玉母さん物語、ウェイトレスから始めてレストランのオーナーになり、家庭に不幸があり、レストラン経営にも曲折あって何だかんだで亡夫と再婚することになり、と朝の連続テレビ小説みたいになる。そしてヒロインの回想(供述)が終わってラスト10分でとんでもない真相が明らかになる。原作小説は知らないが、映画的な話術トリックが抜きん出ている上にキャラクターの性格造型も掘り下げて十分な伏線が張り巡らされているのでズシンと重い説得力がある。このテーマは同じワーナーの先行作品『情熱の航路』に似ている、と思ったら実際それを踏襲し、カーティスはベティ・デイヴィスオリヴィア・デ・ハヴィランドを使いたかったらしい。クロフォードは『雨』の類型的娼婦とは別人のように翳りのある中年女性を演じている。『深夜の告白』の成功から映画化された作品らしいが、女性視点のフィルム・ノワールも珍しければ、これだけ捻りのうまく決まった作品も稀だろう。本国1945年公開だが、日本劇場未公開に終わったのはなぜだろうか。暗いからか?