北村透谷(門太郎)・明治元年(1868年)12月29日生~明治27年(1894年)5月16日逝去(縊死自殺、享年25歳)。明治25年=1892年夏(23歳)、同年6月生の長女・英子と。
前回ひとまず北村透谷の処女作である長編詩『楚囚之詩』(明治22年=1889年刊)の全編をご紹介しました。明治22年には日本の人権意識はどのようなものだったか、同書の奥付を見るとわかります。
奥付に著者・発行者個人の在住地と身分を明記するなどまるで封建時代の慣習ですが、実際士農工商制度は昭和20年の日本の同盟国敗戦まで続き、それまで事実上一夫多妻制が倫理的に黙認されていたのは女性に相続権がなかったからです。結婚は家督同士の合算を意味しましたから基本的に自由結婚は無産階級にしかあり得ず、市民階級では恋愛の概念は放蕩か不貞を意味しました。北村透谷は長編詩『楚囚之詩』、長編詩劇『蓬莱曲』(明治24年=1891年)の後は詩は短詩が晩年までにほぼ詩集1冊分の20編あり、分業は文芸批評を主に手がけましたが、明治25年の詩人論「厭世詩家と女性」は冒頭のマニフェスト「恋愛は人世の秘鑰(ひやく=鍵)なり」の一文で大反響を呼びました。透谷は「秘鑰(ひやく=鍵)」を英語的概念で使っているので、恋愛こそは人生(または人の世)におけるマスター・キー、シークレット・キーなりと喝破しているのです。透谷の文芸批評は詩、全集収録の日記、書簡などすべて漢文脈の文語文の上に、まだ近代的な概念語が定着していなかった時代ですので「人世」のような曖昧な用法、「秘鑰」のような難解な語彙がただでさえ読みづらい文語文の論説をさらに難しくしています。ここで透谷が言う「恋愛」は江戸時代の放蕩的な「恋」ではなく英語概念の愛でしょうから、平易な現代文に訳せば「人は愛によって人生の真の意味を知る」あたりが妥当だと思います。それだけの指摘が読者に大きなショックを与える時代に透谷は登場したのです。
ここでは伝記的記述はなるべく控えたいと思いますが、小田原の没落士族出身の透谷は学生時代に政治結社と関係し、その結社が活動資金調達のため強盗事件を計画したのに失望して政治運動から離れ、大学も中退してしまいます。透谷が次に向かったのはキリスト教信仰で、明治にはキリスト教会は英語学習と英語圏文化、英文学の学習の場であり、男女身分平等の出会いの場として文学青年を惹きつけていたのです。透谷はその典型でした。明治21年(1888年)には洗礼を受け信徒の夫人と熱烈な恋愛の上結婚しますが(全集には長大な自伝的ラヴ・レターが収録されています)、夫人は透谷の友人の恋人だった人でした。翌明治22年『楚囚之詩』を自費出版しますが配本前に内容の過激さに司直からの摘発を怖れ、手もとに1冊残して発売自粛してしまいます。日本最初の現代詩はとんだ死産になったわけです(実際は5冊程度が発売されてしまい、昭和5年=1930年に復刻発売されました)。それから晩年までは詩では前述の『蓬莱曲』と短詩があり、『蓬莱曲』は少年時代の蒲原有明が所有する学友を探して借りて読んだというほど時代の先端を行く長編詩劇でした。短詩では美那子夫人や宿痾で亡くなった教え子の富井松子を詠んだと思われる可憐な佳作があります。散文では単行本ほぼ2~3冊分の文芸批評、19世紀アメリカの思想家の評伝『エマルソン』があり、これは生活のためにも必要でした。結婚後の透谷はキリスト教伝道師とミッション系女学校の英語の臨時教師に従事しながら文筆活動を続けましたが、キリスト教伝道師の給与は現代換算では4人家族で月給15万円弱がせいぜいなのです。
しかし晩年の透谷は富井松子の逝去に打撃を受け、さらに日清戦争に沸く時勢下でのキリスト教伝道の思想的矛盾と家庭問題から奇行・妄言が目立ち始め、明治26年(1893年)暮には自殺未遂を図ります。年末年始は入院して過ごしましたが帰宅後も統合失調様症状と見られる病相が続き、翌明治27年(1894年)4月、家族が気づかないうちに夜間に家を出て近所の芝公園内で縊死しました。享年25歳。夫人は28歳、長女はまだ1歳10か月でした。
今回から4回に分けて自序+全16章からなる『楚囚之詩』を4章ずつ読んでみたいと思います。初版の原文は江戸時代からの変体かな、英文でセミコロンに当たるものとして明治中期に使われていた白ゴマ読点、不統一なルビ、明らかな誤植を含みますが、前回では勝本清一郎編・校訂による岩波文庫版『北村透谷選集』の本文に依りました。今回以降は不要と思われるルビは省略することにします。岩波文庫は昭和25年~30年(1950年~55年)刊行の勝本編・校訂の『北村透谷全集』からの選集で、勝本版全集は明治35年の島崎藤村編全集(藤村は透谷に師事していたので)の3倍の分量と厳密な校訂の決定版全集と長らく目されていましたが、60年代からテキスト学は歴史的再現性の厳密さが要求されるようになり、筑摩書房の『明治文学全集』の『北村透谷集』(昭和51年刊)では1巻本に勝本=岩波版全集を完全収録しながら勝本が手を加えた本文をすべて単行本、または雑誌掲載型本文に戻し、日記や書簡は可能な限り原文通りの表記に起こし直されています。結果的には明治時代の表記には忠実、ですが本文自体には忠実に表記は現代との間を取って読みやすくした勝本版全集とは違う、専門の研究者向けの全集になりました。ここでは通読の難しい長編詩でもあり、漢字は略字体に改め多少送りがなを補ってご紹介します。
『楚囚之詩』明治22年(1889年)4月9日・春洋堂刊。四六判横綴・自序2頁、本文24頁。
自序
余は遂に一詩を作り上げました。大胆にも是れを書肆の手に渡して知己及び文学に志ある江湖の諸兄に頒たんとまでは決心しましたが、実の処躊躇しました。余は実に多年斯の如き者を作らんことに心を寄せて居ました。が然し、如何にも非常の改革、至大艱難(かんなん)の事業なれば今日までは黙過して居たのです。
或時は翻訳して見たり、又た或時は自作して見たり、いろいろに試みますが、底事此の篇位の者です。然るに近頃文学社界に新体詩とか変体詩とかの議論が囂(かまびす)しく起りまして、勇気ある文学家は手に唾して此大革命をやつてのけんと奮発され数多の小詩歌が各種の紙上に出現するに至りました。是れが余を激励したのです。是れが余をして文学世界に歩み近よらしめた者です。
余は此「楚囚之詩」が江湖に容れられる事を要しませぬ、然し、余は確かに信ず、吾等の同志が諸共に協力して素志を貫く心になれば遂には狭隘なる古来の詩歌を進歩せしめて、今日行はるゝ小説の如くに且つ最も優美なる霊妙なる者となすに難からずと。
幸にして余は尚ほ年少の身なれば、好し此「楚囚之詩」が諸君の嗤笑を買ひ、諸君の心頭をを傷くる事あらんとも、尚ほ余は他日是れが罪を償ひ得る事ある可しと思ひます。
元とより是は吾国語の所謂歌でも詩でもありませぬ、寧ろ小説に似て居るのです。左れど、是れでも詩です、余は此様にして余の詩を作り始めませう。又た此篇の楚囚は今日の時代に意を寓したものではありませぬから獄舎の模様なども必らず違つて居ます。唯だ獄中にありての感情、境遇などは聊(いささ)か心を用ひた処です。
明治廿二年四月六日 透谷橋外の僑寓に於いて
北村門太郎謹識
楚囚之詩。 北村門太郎著
第一
曽(か)つて誤つて法を破り
政治の罪人として捕はれたり、
余と生死を誓ひし壮士等の
数多(あまた)あるうちに余は其の首領なり、
中に、余が最愛の
まだ蕾の花なる少女も、
国の為とて諸共に
この花婿も花嫁も。
[ 自序~第一 ]
・タイトルの由来は中国で春秋戦国時代に、楚の鐘儀が晋の俘虜になっても楚国の冠をつけて祖国を忘れなかった故事から、他郷で捕らわれの身となった人、捕虜、囚人を指しています。孤立した英雄の独白という着想はイギリス詩人バイロンの『Manfred』によると思われ、自序でしきりにこれは勉強の成果であり、習作であると強調しているのは自負と本音が半々でしょう。透谷には例外的に口語文で自序が書かれているのも一種の謙譲の感覚がうかがえます。
・第一は全編でもっとも短く、端的に設定のみを述べた章です。革命を企む政治犯が一斉検挙される、語り手はそのリーダーで、婚約者の少女も政治犯メンバーとして拘置されてしまった。しかしこの1行目「曽(か)つて誤つて法を破り」は良い韻律ではありますが、「壮士」(=愛国者)という語り手の自負とは矛盾をきたしており、それは透谷の政治的挫折経験が反映したものではないか、という指摘が昔からあります。つまり真の愛国者は既存の国法を改革する権利がある、というのが革命家の思考法ですが、この語り手は違法行為によって捕縛拘置されたのを革命グループの過ちとして認めている。「余は其首領なり」と言いますがこの語り手が首領では革命などとうてい望めないでしょう。透谷は語り手が早くもアンチ・ヒーローでしかないことに気づいていないので、1行目はおそらく政治的配慮からのみ「曽(か)つて誤つて」と反省から始めてしまいました。作品の成立過程を明かす資料(草稿、第一稿)などが残っていないので断言できませんが、普通長編詩とは第一章と最終章が長くなるものです。この第一章は全編の成立後に全編の見取り図となる序詩として追加されたもので、短くまとまっているのも弁解的な調子もそのためではないか、と思われます。この推定には一読者ながら自信があります。バイロン的自我主義的革命家であれば1行目は「曽(か)つて誤てる法を破り」とすべきで、透谷も意識の上ではその意味で書いたのでしょう。ですが「誤てる法を破り」と「誤つて法を破り」では大違いです。もっとも実はこの自家撞着が全編に渡ってくり返されるのが『楚囚之詩』を日本最初の現代詩にしているとも言えて、これも透谷の意図を越えた詩の皮肉でもあるでしょう。
第二
余が髪は何時の間にか伸びていと長し、
前額を盖(おお)ひ眼を遮りていと重し、
肉は落ち骨出で胸は常に枯れ、
沈み、萎れ、縮み、あゝ物憂し、
歳月を重ねし故にあらず、
又た疾病に苦む為ならず、
浦島が帰郷の其れにも
はて似付かふもあらず、
余が口は涸れたり、余が眼は凹し、
曽つて世を動かす弁論をなせし此の口も、
曽つて万古を通貫したるこの活眼(かつがん)も、
はや今は口は腐れたる空気を呼吸し
眼は限られたる暗き壁を睥睨(へいげい)し
且つ我が腕は曲り、足は撓ゆめり、
嗚呼(ああ)楚囚! 世の太陽はいと遠し!
噫(ああ)此は何の科(とが)ぞや?
たゞ国の前途を計りてなり!
噫此は何の結果ぞや?
此世の民に尽したればなり!
去れど独り余ならず、
吾が祖父は骨を戦野に暴せり、
吾が父も国の為めに生命を捨てたり、
余が代には楚囚となりて
とこしなへに母に離るなり。
[ 第二 ]
・第二章は監禁状態にある語り手の自己描写が前半で、1行目と2行目の対句と脚韻、「沈み、萎れ、縮み、あゝ物憂し」と畳みかける重複形容副詞節など英文学から学んだ技巧を漢文脈の文語自由詩に自在に生かしています。明治の詩が安定した表現を獲得するのは明治30年代中期以降ですが、主流を占めたのは一定の和文体韻律であって和歌・長歌の伝統的な五七調韻律を借りたものでした。かえってもっとも早い現代詩人である透谷に不規則律の文語自由詩があるのは不思議な気がします。北村透谷の他に自由詩を試作していたのは主に大学教育に関わる外国文学者で、教育者ではなく陸軍軍医ですが外国文学者で最高の成果を示したのは森鴎外でした。中西梅花の『新體梅花詩集』(明治24年=1891年)という奇書もあります。中西梅花(1866-1898)は25歳の同書が唯一の著作で、ダダイズムの先駆とも江戸期戯作文の継承とも自由詩運動のパロディとも酔っ払いの与太とも知れない錯乱した自由詩で読者をケムに巻きましたが、酒と女で身上を潰して狂死したという伝説の人物で、さすがに梅花詩集は現代詩に寄与しませんでした。一方透谷の文体は蒲原有明を通って『氷島』(昭和7年)の萩原朔太郎、『わがひとに與ふる哀歌』(昭和10年)、『夏花』(昭和14年)の伊東静雄に隔世遺伝することになります。第二章前半15行が監禁状況の外見的描写なのに対し、「嗚呼(ああ)楚囚!」からの後半10行は語り手の内省的詠嘆になります。前半と後半の行数が3対2の黄金分割になっているのは厳密な計算ではなくても詩人のカンでしょう。ただ後半10行はひたすら語り手が愛国者と自己アピールする内容で、透谷の文体を萩原朔太郎、伊東静雄ともに「壮士風」のアナクロニズムとして逆利用した伏線はこうした中身のない雄弁調にもあるのです。もし詩行の内容通り語り手が愛国者だとしてもこの国家は愛国者を弾圧する国家であり、語り手が尽くそうとしている「国」は抽象概念だけで具体性をもって描かれているわけではなく、「国の前途」「国の為め」と連発されるほど詩行は形式的なヴァリエーション(「吾が祖父」「吾が父」「余が代」)の連鎖に留まって空疎なレトリックのためのレトリックに陥ります。後半部は第一章をさらにパラフレーズしただめ押しパートで、詩的効果より語り手の設定の再確認の意味が大きいものです。
第三
獄舎(ひとや)! つたなくも余が迷い入れる獄舎は、
二重の壁にて世界と隔たれり、
左れど其壁の隙又た穴をもぐりて
逃場を失ひ、馳込む日光もあり、
余の青醒めたる腕を照さんとて
壁を伝ひ、余が膝の上まで歩み寄れり。
余は心なく頭を擡(もた)げて見れば、
この獄舎は広く且つ空しくて
中に四つのしきりが境となり、
四人の罪人が打揃ひて――
曽つて生死を誓ひし壮士等が、
無残や狭まき籠に繋れ、
彼等は山頂の鷲なりき、
自由に喬木の上を舞ひ、
又た不羈に清朗の天を旅し、
ひとたびは山野に威を振ひ、
剽悍なる熊をおそれしめ、
湖上の毒蛇の巣を襲ひ
世に畏れられたる者なるに
今は此の籠中に憂き棲ひ!
四人は一室にありながら
物語りする事は許されず、
四人は同じ思ひを持ちながら
そを運ぶ事さへ容されず、
各自限られたる場所の外へは
足を踏み出す事かなはず、
たゞ相通ふ者とては
仝(おな)じ心のためいきなり。
[ 第三 ]
・第三章は拘置所内の構造描写です。透谷は「獄舎」と呼んでいますが未決囚監ですからまだ裁判で罪状と判決が決定しておらず、一応建て前としては懲役でも禁固でもない訳です。とはいえ実際の未決囚監は実質的には禁固刑と変わらないもので、透谷がどこから取材したものかわかりませんが一間を4分割して擬似的な4人分の独房にする場合も考えられますが、会話禁止を科しても共謀犯をまとめて同居房にするのは偽証防止のためにも考えづらいことです。あり得るならば過疎地・遠隔地や孤島など常設の拘置所に押送困難な場合ですが、すると「獄舎」と呼ぶには不適切な仮設施設になってしまいます。拘置所は検察庁により立件後に裁判待機のため監禁される施設ですが、逮捕直後で立件以前の容疑段階では警察署内の留置場に監禁されます。これは警察官権限で任意(と言っても完全に強制)逮捕できるので、民主国家であれ国民は保護以上に強大な強権を国家警察に委ねているわけです。検察庁が取り調べから立件するまで事件によりますが2か月~4か月、黙秘し弁護士をつけて保釈金を払って留置場を出る方法もありますが、国選弁護人では立件まで決まりませんから家族や知人に弁護士依頼を頼むとして軽犯罪であっても保釈金で最低50万円、弁護士報酬で最低200万円の掛け捨てになり、これは有罪でも無罪でも戻りません。『楚囚之詩』の場合はかなり深刻で、政治活動に対して反逆罪があり極刑は死刑だった時代です。仮に軽犯罪の容疑段階としても語り手の監禁されている共謀者同士の4人を収めた留置場(とします)から4人全員保釈を計ると一人当たり250万円、4人で1,000万円かかるので、いつの時代でもどこの国でも革命家グループは裕福な家庭の子弟がパトロン兼リーダーが、さもなければマフィア化して活動資金を稼がなければ立ちゆかないのは政治犯ぎりぎりの活動には常にお金がかかるからです。さて、第三章は壁の隙間から差す陽の光から「獄舎」内部の様子、4人部屋の構造、仲間たちと活動した往時の回想、再び4人部屋の規則に戻り、監禁状態の確認で次の章に渡されます。回想のあたりのレトリックは漢詩的で型通りなきらいはありますが、28行が6行・6行・8行・8行(4行・4行)に分割され、この頻繁な視点の移動は複雑なようで整然としており、意識的な透谷の技術なのは行数の均等化でも明らかです。さらに6行や8行のパートの中でも必ず動的な視点移動がある入れ子構造が螺旋状の効果を呼んでいるのは特筆すべきで、これらも明治の詩では伊良子清白、岩野泡鳴、蒲原有明らがようやく明治30年代中期に継承した技法で、ほとんどの詩人は透谷の詩意識に追いつかなかったのです。
第四
四人の中にも、美くしき
我が花嫁……いと若かき
其の頬の色は消え失せて
顔色の別けて悲しき!
嗚呼余の胸を撃つ
其の物思はしき眼付き!
彼は余と故郷を同じうし、
余と手を携へて都へ上りにき――
京都に出でゝ琵琶を後にし
三州の沃野(よくや)を過(よぎ)りて、浜名に着き、
富士の麓に出でゝ函根を越し、
遂に花の都へは着たりき、
愛といひ恋といふには科(しな)あれど、
吾等雙個(ふたり)の愛は精神(たま)にあり、
花の美くしさは美くしけれど、
吾が花嫁の美は、其の蕊(しべ)にあり、
梅が枝にさへづる鳥は多情なれ、
吾が情はたゞ赤き心にあり、
彼れの柔き手は吾が肩にありて、
余は幾度か神に祈りを捧げたり。
左れどつれなくも風に妬まれて、
愛も望みも花も萎れてけり、
一夜の契りも結ばずして
花婿と花嫁は獄舎(ひとや)にあり。
獄舎は狭し
狭き中にも両世界――
彼方の世界に余の半身あり、
此方の世界に余の半身あり、
彼方が宿(やど)か此方が宿か?
余の魂(たま)は日夜独り迷ふなり!
[ 第四 ]
・全30行は同房に拘置された婚約者の描写に6行、二人で西日本から東京へ上京してきた回想に6行、次の12行は4行ずつに分かれ先の4行はプラトニック・ラヴの謳歌、中の4行は精神的な一体感を詠み、後の4行で「左れどつれなくも」「一夜の契りも結ばずして/花婿と花嫁は獄舎にあり」と甘美な回想から残酷な現在に戻ります。最終節の6行は2行、3行、1行と意識的な不規則律が効いており、「獄舎は狭し/狭き中にも両世界――/彼方の世界に余の半身あり、/此方の世界に余の半身あり、/彼方が宿か此方が宿か?/余の魂は日夜独り迷ふなり」と内容は関係性の概念化だけの散文的な理屈なのですが、破調によって詩として成立している珍しい成功例です。透谷の文学史的位置は日本文化の西洋化以来最初のロマン主義文学者というのが妥当かつ大勢の見解ですが、ロマン主義がヨーロッパ思潮の中で反体制的文化なのに対して、透谷はヨーロッパの合理主義文化とロマン主義を同時に学んでしまった、矛盾を抱えたロマン主義文学者でした。この第四章末尾の6行はロマン主義詩人の発想ではなく明治日本人の学んだ西洋的合理主義です。それは第一章冒頭で「曽つて誤つて法を破り」と書いた発想と同じものなのです。