人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

2017年映画日記4月1日~10日/フェデリコ・フェリーニ(1920-1993)10連発(その3)

 前回4月3日~5日に観たフェリーニ作品について散々な感想を洩らしてしまいましたが何でだろう、と反省すると、3月末にD・W・グリフィスの後期作品をまとめて観ています。中には初見の快作もあり、フィックスショットでこれしかないぜというカットをバシバシ決めるグリフィス映画の小気味良さを堪能した直後にフェリーニの映画を観ると、特に'60年代作品はいかにももったいぶってテンポが鈍く、鈍さが良さになっているとも思えませんでした。今回からの作品は'70年代~'80年代のものですが、フェリーニ自身が'60年代作品の作風から変化を望んだもののようにに感じます。

4月6日(木)
サテリコン』(イタリア/フランス'69)*130mins, DeLuxecolor
・この前にオムニバス映画『世にも怪奇な物語』1968に中編「悪魔の首飾り」を提供しており、『ボッカチオ70』1962もそうだったがオムニバス映画提供作の中短編ではサービス精神溢れる快作を作るあたりフェリーニさすがだな、と素直に感心する。'60年代の大作『甘い生活』『81/2』『魂のジュリエッタ』の感想文では不満ばかりを連ねてしまったがフェリーニ映画で観直した回数では『甘い生活』『81/2』が断トツ(10回近く観ていると思う)なのでつい点が辛くなる。『~ジュリエッタ』にしても『81/2』と一対でしか観られない。『サテリコン』は『~ジュリエッタ』でパーソナルなテーマ追求に行き詰まったフェリーニが一転して外在的なテーマに活路を見出した'70年代以降の大風呂敷路線の端緒となったもの。神話的・古典的題材の現代的解釈を得意としたパゾリーニからの感化もあったかもしれない。古代ローマのネロ帝政下の執務官だったペトロニウス(A.D.20頃-66)の作と伝えられる小説『サテュリコン』(15世紀に発見)が原作。現存するのは2章分のみだが原本はその10~20倍あったと言われる。神(ヘドニズム時代の神々)の怒りを買い諸国遍歴の呪いをかけられた青年と美少年稚児です男色カップルが主人公で『東海道中膝栗毛』(弥次さん喜多さんも贖罪のため放浪する男色カップルだった)のように話などあってないようなもの。ペトロニウスはネロに認められ執務官に取り立てられたが、やがて不興を買って処刑(自害)されたのは『サテュリコン』がネロ帝政への風刺と見られたからとも言われる。きりがないので映画に戻ると『世にも怪奇な物語』と『サテリコン』はフェリーニ作品中でも日本のテレビ放映回数最多なのではないか。『秘密の儀式』『メイド・イン・USA』『狼の時刻』『サテリコン』『イージー・ライダー』『砂丘』『早春』『断絶』といった1970年前後のアートシアター系作品はアメリカ経由で権利関係が安かったのか、1時間半枠実質(映画本編)70分(!)という驚異的な短縮吹き替え版でくり返しテレビ放映されていた。オリジナル版を観る機会があるたびまるごとカットされたシークエンスに驚いたもので、『秘密の儀式』などは110分のオリジナルがちょうど区切りがいいため後半40分をカットして前半70分で途中で終わる!すごい短縮版だったのがわかった。どうも脱線ばかりで『サテリコン』の短縮版がどうだったか具体的に思い出せないが、残存原作2章分でも中心をなす有名な成り上がりの解放奴隷「トリマルキオの饗宴」の部分を生かして前後をはしょった短縮版になっていたのではないか。実際オリジナル版全編を観ても「トリマルキオの饗宴」以外の前後はまず冒頭の古代ローマ風景と、精力回復のため人肉食を喰らう結末が印象に残る程度。それもゴダール『ウイークエンド』1967の現代フランスで描かれる人肉食の衝撃にはかなわない。実は全編観ると絵柄が派手な割には華がない大作だが、'60年代の現代文化頽廃三部作からがらりと開放的な作風を志向した意欲には好感を持てる。しかし本作の場合テレビ放映用短縮70分吹き替え版でも十分な程度の内容でしかないのではないか。映画館で130分を堪能するのとお茶の間でCMに寸断された吹き替え版を観るのはまったく違う体験とはいえ、最初に観たのがポルノ映画3本立て的70分ヴァージョンで愛着があるという人も少なくないのではないかと思う。

4月7日(金)
フェリーニのローマ』(イタリア/フランス'72)*120mins, Eastmancolor
・本作の前にテレビ用疑似ドキュメンタリー作品『フェリーニの道化師』1970があり、気負いがなくとぼけたユーモアに溢れた小品佳作だった。『~ローマ』も同工異曲の疑似ドキュメンタリーで、本作の発表で『甘い生活』『サテリコン』『~ローマ』がフェリーニのローマ三部作と呼ばれるようになった(と今回初めて知った)。この疑似ドキュメンタリー映画キネマ旬報年間外国映画第2位、次作『アマルコルド』は1位だから当時のフェリーニ人気のほどがわかる。ドキュメンタリーとフィクションの混交はゴダール彼女について私が知っている二、三の事柄』1967あたりが範になって流行化していた手法だが、フェリーニは現実を描こうとフィクションを描こうと作為に大差がないのでゴダールのように落差や衝突の衝撃がないのが痛い。ハイライトは地下洞で発見されたフレスコ画が外気に触れて消滅していく場面だが、結局偽劇映画の部分が見所でドキュメンタリー部分は映画のつなぎでしかないのが弱い。エンディングの適当さには唖然とするが、中世・20世紀大戦間(フェリーニの青少年時代)・現代と対比させて『サテリコン』ともども駄目だこりゃと思ったのかどうか、次作は一気にノスタルジア映画に走るあたりが現実的楽観主義者フェリーニの愛嬌なのかもしれない。

4月8日(土)
フェリーニのアマルコルド』(イタリア/フランス'73)*118mins, Eastmancolor
・毎度のことだがアカデミー賞外国語映画賞、NY批評家協会賞作品賞・監督賞受賞と何回目だと数えたくなる。内外問わず映画賞は業界内の景気づけだし、カンヌやヴェネチアなどの国際映画祭になると巨匠クラスの監督側が出品するから絶対受賞作にしろとゴリ押しするらしいが(ブレッソンタルコフスキーなど大変だったらしい)、フェリーニの場合は何だかんだいって明るい映画だから好まれたのではないか。'70年代前半は『ペーパームーン』に代表されるようなノスタルジア映画ブームもあった。トリュフォーですら『思春期』を作った。50代になったばかりで「昔は良かったね」映画を作ったフェリーニにも物申したいが、イタリアの戦前映画人は稼ぐだけ稼いで40代で引退するのが当たり前だったようだから'70年代以降のフェリーニ作品は隠居の道楽だったのかもしれない。ひどいことを言っているようだが映画が隠居の道楽であって悪いとは言い切れない。『アマルコルド』はフェリーニと共同脚本家トニーノ・グェッラによるノヴェライズも翻訳があって本を先に読んだが、当然映画の方が断然良い。'70年代以降フェリーニ屈指の人気作なのに全作品中唯一日本盤DVD未発売なのは権利関係に事情があるのだろうか。今回はイギリス盤DVD(英語字幕つき)で観直したが昔一度観たきりできれいさっぱり忘れていたので、内容の好嫌はどうあれインパクトだけは強いフェリーニ映画には珍しい。小品という感じではなくヴォリュームは相応にあるのだが、フェリーニ自身の少年時代を必ずしも少年が主人公でも視点人物でもなく(ドキュメンタリー風に解説するおっさんも出てくる)、第二次大戦前のムッソリーニ台頭期時代のイタリアの田舎町の庶民風景まるごとがベタなリアリズムでもおとぎ話的でもなく淡々と描かれていって淡々と終わる、という風情で、例によってフェリーニ好みの奇人変人や発情グラマー女も出てくるが特に枯れた感じはしないのに余裕のある語り口はこれまでありそうでなかった。道具立てはフェリーニ映画では見慣れたものだから新境地とまでは思わないが、いい歳のとり方してるなというか、東洋人的な老成とは違うがラテン民族は若いうちに燃焼しきってしまうのか、52、3歳で老いの境地というのもありなんだろうなと何となく納得がいく。トリュフォーの享年も52歳だったし。ちなみに本作の日本公開を調べると1974年11月16日、宣伝コピーは「全世界をつつむ笑いと感動!/〈映画芸術〉の巨匠フェリーニが/素朴に/そしてエネルギッシュに/謳いあげる青春のノスタルジア//私は思い出す/懐かしい故郷を--/親しい人々を--/そして憧れた/あの美しい年上の女を」というものだったという。21世紀の現代に〈映画芸術〉などとコピーに使ったら壊滅的だろうと思うと隔世の感がある。
(以降次回)