人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年5月20日~5月22日/フリッツ・ラング(1890-1976)のアメリカ映画(2)

 主演女優にシルヴィア・シドニーを起用した犯罪映画三部作(スリラー、メロドラマ、コメディ)から始まったフリッツ・ラングのハリウッド作品は'40年代を迎えてさらに西部劇、スパイ活劇と進みます。サイレント時代初の大作がエキゾチック活劇『蜘蛛』1919/1920だったようにラングの作風には西部劇との親近性は元々あり、さらに『ドクトル・マブゼ』以降のラング映画にはスパイの登場は不可欠でしたが、1940年代となると第二次世界大戦をにらんだ戦争映画(反ナチ映画)としての性格も加わりました。ラングのハリウッドでの監督作品はジャンル的には犯罪映画、西部劇、戦争映画と分けてジャンル内でスリラーだったりメロドラマだったりコメディだったり手口を変えていると言えるので、第二次世界大戦開戦前のこの時期までにほぼラングに割り当てられる題材は決まったといえます。特に'40年代前半の作品は充実しており、終戦後の作品にムラがあるのと対照をなしています。ムラがあっても面白いのが叩き上げの映画人ラングのしぶといところですが、ハリウッド第1作『激怒』'36~『緋色の街/スカーレット・ストリート』'45までの戦前・戦中作品、『外套と短剣』'46~ハリウッド最終作『条理ある疑いの彼方に』'56の戦後作では映画の張りにかなり差があり、ハリウッド時代のラング映画を観るならまず戦前・戦中作品からでしょう。この時期の作品はどれをとっても面白く、ラングのサービス精神がサイレント時代以上にうまく映画を楽しくしています。戦争を逃れてアメリカに渡ってきたヨーロッパの監督はラングに限りませんが、アメリカ映画で本国では作れなかった題材の名作を残した点でラングに次ぐのはジャン・ルノワールくらいでしょうか。しかし数の上ではルノワールアメリカ映画はラングの1/4程度なのです(それだけ密度が高いとも言えますが)。またルノワールとラングでは手がけた題材も相当異なり、単純には比較できません。今回の3作などはまずルノワールには回ってこなかった企画でしょう。

●5月20日(土)
『地獄への逆襲』The Return of Frank James (米20世紀フォックス'40)*93mins, Technicolor

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・ラング最初の西部劇は脚本、キャストまで決定していた段階でフォックス社から依頼されたもので、ヘンリー・キングのヒット作かつ西部劇史上の傑作『地獄への道』"Jesse James"1939の続編というなんとも微妙な企画でラングらしさが稀薄な上に内容も地味と監督の個性を映画に求めるマニア層にはあまり人気がないが、出来はすこぶる良い。西部劇は堅実に観客を呼べるジャンルかつスタジオのインフラも整備されているから標準的な予算で十分な収益が見込めるので早くからカラー化の比率も高いジャンルで、ラングも本作が初のカラー映画になった。一層式の低廉なイーストマンカラーが開発され50年代後半から普及する以前の三層式テクニカラーは高価で感度が低いが発色と耐久性は褪色しやすいイーストマンカラーの比ではなく、'40年代の成功したテクニカラー西部劇はカラー映像の鑑賞だけでも堪能できる。ジェシーとフランクのジェームズ兄弟が義賊となって活躍し、仲間の裏切りでジェシーが殺害されるまでを描いた『地獄への道』の続編は兄フランク(ヘンリー・フォンダ)がジェシーを殺害したフォード兄弟の自滅を見届けるまでを描く。盗賊団から抜けて別名を名乗り僻地で農園を営んでいたフランクはジェシーが裏切りでフォード兄弟に殺害され、さらに兄弟は北部の鉄道会社の庇護で無罪判決になったと知る。フランクの行方も追われているので牧童クレム(ジャッキー・クーパー)に新聞社の女性記者エリアナ(これがデビュー作のジーン・ティアニー)にフランク殺害の目撃証言をさせ、フォード兄弟がジェシー殺害で得た報奨金分を列車強盗で報復するが、保安員の事故死で農園の黒人管理人ピンキー(アーネスト・ホイットマン)が容疑者として逮捕され死刑を求刑される。フランクの生存を知ったエリアナはフォード兄弟の逃走先に向かおうとするフランクとクレムに復讐より今日死刑執行されるピンキーの無実を晴らすべきと諭し、フランクは一旦はフォード兄弟を追うが翻意して裁判中の法廷に姿を現しピンキーの無罪と自分たち(フランクとクレム)の列車強盗の罪状を認める。フランクたちが被告になった中でフォード兄弟も傍聴席に姿を現す。事情を知ったジェームズ兄弟支持者の地元南部の陪審員たちは即座にフランクとクレムに無罪判決を下す。法廷から逃走したフォード兄弟を追い詰めて弟は崖での撃ち合いで転落死し、兄ボブ(ジョン・キャラダイン)はクレムと相撃ちして命運尽きる。陰気な悪役キャラダインといい名子役上がりのジャッキー・クーパーといい良い役者が揃っている。前作を観ていなくても楽しめるが一般的な西部劇の前提(南部こそ正義で北部・東部は侵略者、ゆえに北部・東部への抵抗者であるジェームズ兄弟は義賊で北部・東部に寝返ったフォード兄弟は悪党)を知らないとよくわからないかもしれない。ラングは脚本に関わりがないから西部劇の定石通りとしても、定石を率直に演出して堂に入っている。真面目を絵に描いたようなフォンダは『暗黒街の弾痕』で傲慢なラングの演出を嫌っていたらしいが、のち『荒野の決闘』1946を手がけるサム・ヘルマンのシナリオによる本作は明解な図式が気持ち良く、ジーン・ティアニーも魅力を添えて素晴らしいスクリーン・デビューになった。強烈な傑作『地獄への道』の後日談程度としても佳作と言うに足り、ラングが撮らなかったらどの監督に回っただろうかと思うと(1940年のフォックスで西部劇ならジョン・フォードもあり得る!)楽しくなってくる。

●5月21日(日)
『西部魂』Western Union (米20世紀フォックス'41)*92mins, Technicolor

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・戦中作品だったが戦時色はないので日本では戦後公開されたがせっかくのカラー作品がB/W版で上映されたことでも知られる。『地獄への逆襲』以上に景観を生かしたオープン・セットの南部の風物が見所なのでB/W版上映とはもったいない。実は原題でもある「ウェスタン・ユニオン」は実在の電気・通信会社で、本作はウェスタン・ユニオン社が南北戦争勃発時に北部との電信網を西部まで敷設するために、敵地南部では白人の手を出せないインディアン居住区を選んで交渉し苦心して築いた社史に基づくPR映画でもあり、西部劇を普通に100本以上観て19世紀後半の南北戦争前後のアメリカ史と市民感情を知っていれば注釈はいらないが、20世紀アメリカ映画の時代劇は『国民の創生』も『風と共に去りぬ』も南北戦争という内戦を背景にしているから西部劇の歴史観に馴染んでいるかが外国人観客にはハードルになる。映画は疲労しきった男が落馬して伸びているのを通りかかった男が追い剥ぎするが、負傷に気づいて介抱し動けるまで世話をやくエピソードから始まる。落馬した男クレイトン(ディーン・ジャガー)はウェスタン・ユニオン社の電信網設置技師で、人足を募集すると先の風来坊ショウ(ランドルフ・スコット)も仕事を求めに来たが募集先の責任者がクレイトンと知って去ろうとするも、クレイトンは地元に詳しかろうと雇う。東部からは父親のつてで青年技師ブレイク(ロバート・ヤング)が加わり、クレイトンの妹スー(ヴァージニア・ギルモア)をめぐってブレイクとショウの間に恋のさやあてが生じる。明朗な大卒技師ブレイクとは対照的にショウは過去にいわくありげで何度も去ろうとするがクレイトンに引き留められる。そんな時、電信敷設団の牧場が再三夜盗に逢い、捕らえてみると白人にウィスキーで買収されたインディアンとインディアンになりすました白人の集団なのが判明。数日後に家畜仲買業者を名乗るスレイド(バートン・マクレーン)の一行が電信敷設団牧場で盗まれた牛を売りに来る。クレイトンはこれきりだ、と牛を買い戻す。ショウはスレイドを追って問い詰めるが、スレイドはこれからも何度もやる、お前も仲間になれとショウを誘う。夜盗来襲の際にカウボーイのリーダーが殺害されたのでクレイトンはショウをリーダーに任命する。ブレイクはショウが訳ありとにらんでクレイトンに進言するがクレイトンは翻意しない。ショウは再びスレイドに談判に行くがショウが仲間になる気はないとわかるとスレイドたちはショウを捕縛して再び襲撃に出向き、ショウが焚き火の残り火でようやく縄から逃れ駆けつけるとウェスタン・ユニオンの支社はスレイドたちの放火で大火していた。ブレイクやクレイトンが問い詰めるもショウは弁明せず、あいつは兄弟なんだ、と言って電信社を辞め街にスレイドたちを追う。ショウは酒場にたむろするスレイドの部下二人を倒すがスレイドには返り討ちにあい、駆けつけたブレイクがスレイドを倒す。ランドルフ・スコットは正義漢の紳士的保安官役のイメージが強いが日活無国籍アクション映画のような陰のある役柄の本作は異色の名演。1881年が設定の本作を見るとネブラスカオマハが舞台で北部・東部の最西端になり、南部のテリトリーのインディアン集落の点在する荒野を横ぎり、西部最東端のユタのソルトレイク・シティに通信線を引こうという地理的条件がわかる。実在のインディアン集落を登場させて電線に触れさせ、これは敵の来襲を防ぐ効果もあるのだと納得させる面白いシーンもあり、ラングによれば伝統的メーキャップをした実際のネイティヴ・アメリカンを映画に登場させたのは本作が西部劇史上初めてだというが、映画監督はたいがいホラ吹きなのであてにならない。西部劇というとあまり観ない人はインディアンへの偏見や蔑視があるように思うかもしれないが、実際の西部劇では白人がネイティヴ・アメリカンを利用したり搾取したり虐げたりしたことが描かれ、災いの種は白人にあるのがはっきり描かれている。また南部連合軍の名の下に北部・東部との境で強盗行為が無法化された暗黒面があったのもわかる。テクニカラーが美しいとはいえ地味な西部劇だが内容は適度に濃密で、ああ映画観たなあと満足度の高い佳作になっている。ランドルフ・スコットの訳ありの流れ者同様、最後の決闘がサマになっていないのもリアリティがあって良い。

●5月22日(月)
マン・ハント』Man Hunt (米20世紀フォックス'41)*102mins, B/W

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・再びB/W、しかもラング初の反ナチ映画。撮影は1941年春で『カサブランカ』と同時期、つまりアメリカはまだ第二次世界大戦に参戦していない。連合国を支援はしていたが連盟国側から直接本土に侵攻されることはなかったので同年12月9日の真珠湾攻撃までは世論も参戦には躊躇があった。アメリカ初の反ナチ映画はアナトール・リトヴァクの『秘密のスパイ網』"Confessions of a Nazi Spy"1939で、前年のドイツ軍の東欧侵攻と大虐殺によってアメリカでも反ナチ感情が高まり、折からドイツとの交易も低下していた事による。本作の脚本はイギリスの反ナチ小説を原作にジョン・フォードの『駅馬車』'39、『果てしなき船路』'40、ジャン・ルノワールの『スワンプ・ウォーター』'40のダドリー・ニコルズが書いてフォードが監督第一候補だったが、ウィリアム・ワイラーが『ミニヴァー夫人』'42監督のために進行中の『わが谷は緑なりき』'41を降板したためナナリー・ジョンソン脚本の『怒りの葡萄』'40完成直後のフォードは『マン・ハント』は辞去して小品『タバコ・ロード』1941、大作『わが谷~』に回ることになり、ラングが引き受けることになる。ダドリー・ニコルズといいナナリー・ジョンソンといい当時最高の脚本家で、フォードもラングもこの二人の脚本で最高傑作を撮っているのはラングとフォードの作風の違いを思うと気が遠くなる(ニコルズはルノワールの反ナチ映画『自由への闘い』'43も書いている)。アメリカ参戦前だから舞台はドイツとイギリスで、国際的な有名ハンターのソーンダイク大尉(ウォルター・ピジョン)は偶然狩猟旅行先のドイツの山中でヒトラーの姿を発見、ライフルを構えた所を警備兵に捕縛される。ゲシュタポの担当官キーヴ=スミス(ジョージ・サンダース)は宣戦布告の材料にするためイギリス政府からの暗殺指令という供述書にサインせよと迫るが大尉は断固として拒む。拷問の末に大尉は事故に見せかけて崖から突き落とされたが奇跡的に助かり、捜索網を縫って港にたどり着く。停泊中のイギリス行きのオランダ船に忍び込み、少年船員ヴァナー(ロディ・マクドウォール)に助けられる。大尉に逃げられたキーヴ=スミスは、その船に暗殺者ジョーンズ(ジョン・キャラダイン)を乗船させる。大尉はロンドンでもゲシュタポの配下に追われ、通りがかりのアパートの街娼ジェリー(ジョーン・ベネット)の部屋に隠れる。大尉はジェリーを連れて兄のリスボロー卿の屋敷に向かう。兄にはすでにドイツからの大尉の引き渡し要求が来ていた。大尉はジェリーとロンドンの街を逃げ回る。ジェリーが帽子のピンバッジを落とし、彼は彼女が選んだ矢の形の新品を買ってプレゼントする。ジェリーは大尉が貴族と知って結ばれない運命を悟って泣く。別行動で地下鉄に逃げ込んだ大尉は、トンネル奥深くまで追ってきた暗殺者と格闘し、暗殺者は感電死する。新聞は地下鉄殺人を書き立て、大尉は警察からも追われる。彼はジェリーに3週間後に某田舎町の郵便局に手紙を出してほしいと兄への伝言を託して行方をくらませることにする。二度と逢えない気がする、とジェリー。3週間後に郵便局に現れた大尉は局員の怯えた様子に急いで手紙を掴んで洞窟の隠れ家に逃げ帰る。手紙はキーヴ=スミスからのもので「これは本物の狩りだ」とあった。まもなくキーヴ=スミスが現れてジェリーの帽子を差し出し彼女が拷問で殺されたことを告げ、大尉に供述書の署名を迫る。洞窟は塞がれて酸欠と飢えで死ぬしかない。大尉は5分考えさせてくれと帽子のピンバッジと木の枝で即席の弓矢を作り、供述書に署名するよと洞窟の出入口を開けさせ、側面の穴から矢を射ってキーヴ=スミスを倒す。ラストシーンは弓矢のマークをつけた戦闘機から大尉がパラシュート降下する場面で終わる。この年ヒッチコックの『海外特派員』で頼りになる同僚役を演じる変人ジョージ・サンダース(1906-1972、「65歳になったら自殺する」と予告して服毒自殺した)のキザな片眼鏡の冷酷漢ナチ将校も実に良く、出番は少ないが主人公を助ける少年船員ロディ・マクドウォールも翌年の『わが谷は緑なりき』、翌々年の『名犬ラッシー~家路~』の名子役ぶりが嬉しい。撮影は『わが谷~』のアーサー・ミラー、音楽はアルフレッド・ニューマンと最高で、主演のウォルター・ピジョンも『わが谷~』『ミニヴァー夫人』の直前。暗殺者役のジョン・キャラダインは言うにおよばず、この後ラング作品『飾窓の女』『緋色の街/スカーレット・ストリート』『扉の影の秘密』で主演女優を勤めるジョーン・ベネット(1910-1990)が可憐な街娼役で素晴らしい。二度と逢えない気がする、とキスを求めるが警官が通りかかって街娼が客引きのふりをしてキスもできず別れていくシーンなど『怪人マブゼ博士』や『月世界の女』、『地獄への逆襲』『西部魂』などのやっつけ的なロマンスではなく『死滅の谷』『リリオム』と並んで珍しく情感がこもっている。ヘンリー・フォンダによるとラングの演技指導は足元に線を引き「ここからここまで歩いて、顔を上げて、胸元で握り拳をして」と命令調だったそうだが、主人公の兄の豪邸から安アパートに戻って会話中に突然泣き出してしまうベネットの演技などは珍しくアドリブを許したのではないか。『飾窓の女』では変則的妖女で『緋色の街~』ではストレートな悪女、『扉の陰~』ではニューロティックな役と作品ごとに性格は違うが、拷問死したのも台詞で片づけられてしまうこのヒロインの薄倖さはあっさり描かれているだけに切ない。別れのシーンが何となく『カサブランカ』に似ているのはどちらもドイツ出身監督なのもあるが、1941年のアメリカの映画観客の嗜好と思える。ラストのボーイスカウト的逆転劇は原作にあるのだろうが、映像にしたらギャグになる寸前で素朴なリアリティがあるのはさすが。しかしこれ、ラングが監督と決まって改稿されたとしても元々ジョン・フォードの監督企画だったというのがすごい。ニコルズ脚本のフォードのスパイ物は『海の底』'31、広義には『男の敵』'35があるし、『駅馬車』だって大アクション映画なのだが『マン・ハント』は無茶振りというものだろう。