人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年2月12日・13日/日本の昭和10~20年代時代劇(4)

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 今回、次回でコスミック出版の9枚組DVDセット『時代劇傑作集』収録作品(トーキー以後の時代劇)の年代順鑑賞はひと通り観終えることになります。前回の『狐の呉れた赤ん坊』は初の敗戦後作品でしたから、ここから先はすべて戦後作になります(もっとも山中貞雄の2作も戦後検閲版で数分の欠損があるようですし、片岡千恵蔵主演『織田信長』'40は戦後の短縮編集版『風雲児信長』'54、阪東妻三郎主演『伊賀の水月』'40も戦後の短縮編集版『剣雲三十六騎』'53でした)。今回は昭和20年('45年)作品『狐の呉れた~』から昭和27年('52年)に跳びますが、コスミック出版のパブリック・ドメイン作品の廉価版シリーズには作品紹介以外監修者の記載も批評的解説も一切ないので推測すると、人情劇『狐の~』は辛うじて時代劇の括りで収めることができたものの、昭和20年~昭和27年は日本はアメリカ駐留軍総本部による占領下にあり、その間は剣戟や仇討ちを含む時代劇らしい時代劇は検閲を通らないのでめぼしい作品が作られず、昭和26年('51年)3月に総司令官マッカーサーが更迭されてようやく駐留軍撤退の準備が始まるとともに翌27年('52年)の占領解除も予告され、映画検閲も緩和されたので、敗戦後ずっと時代劇の新作を渇望していた観客の要望に応えて映画会社が競って新作時代劇の製作を再開したのが収録作品年度の偏りに表れたように思われます。また作品選択には主演スターの格も働いており、収録作品9作のうち大河内傳次郎4作、阪東妻三郎3作、片岡千恵蔵1作、あと1作は剣戟スターとは言えない前進座中村翫右衛門河原崎長十郎主演の『人情紙風船』ですがこれは山中貞雄の名作なので例外、ということになるでょう。今回は大河内傳次郎主演作と阪東妻三郎主演作の組み合わせです。千両役者の往年の姿を拝めるだけでも実にありがたい機会ではありませんか。

●2月12日(月)
木村恵吾『三万両五十三次』(大映京都'52/1/25)*65min(オリジナル同), B/W

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監督・木村恵吾/脚本・木村恵吾/原作・野村胡堂/撮影・長井信一/美術・角井平吉/音楽・白木義信
出演・大河内傳次郎(瓢箪の馬場蔵人)、轟夕起子(お蓮)、折原啓子(小百合)、河津清三郎(山際三左衛門)、菅井一郎(松居要三)、香川良介(植松求馬)、澤村國太郎(堀田備中守)、加東大介(牛若小僧)、寺島貢(南郷小彌太)、上田寛(三吉)、杉山昌三九(矢柄城之介)、南部彰三(相川惣八)、潮万太郎(亭主源兵衛)、葉山富之輔(目明し長兵衛)
○解説(キネマ旬報日本映画データベースより) 野村胡堂の原作から「馬喰一代(1951)」の木村恵吾がシナリオを書き、監督したもの。撮影は「ある婦人科医の告白」の長井信一が担当している。出演者の主なものは、「十六夜街道」の大河内傳次郎、「ある夜の出來事」の轟夕起子、「紅涙草」の折原啓子、「新撰組 第一部京洛風雲の巻」の河津清三郎に、菅井一郎、澤村國太郎加東大介などである。尚、かつて日活で辻吉朗監督が同じ大河内傳次郎主演で撮ったものの再映画化である。
○あらすじ(同上) 黒船の相つぐ渡来に、国をあげて閉国か開港かの議論でわきかえっていたとき、各老堀田備中守は、強行に開港を主張し、反対派たる京都の公家たちを懐柔する資金三万両の黄金を京都へ送ることになった。その大任が、人々の予想に反し、一介の浪人馬場蔵人に与えられ、蔵人は、京都の寺へ寄進する十六菩薩だと称する十六個の荷物を八頭の馬に積んで京都への旅に出発した。それと同時に、日本橋から京都へ向う花嫁行列が、江戸切っての目明かし、雁金の長兵衛に守護されて出発した。三万両をねらう反幕派の浪士たち、欲にからんだ怪盗牛若小僧と女賊のお蓮の一味、大任を蔵人にさらわれた上、想いをかけた家老の娘小百合の心まで蔵人に奪われた恨みを抱く山際三左衛門、蔵人の身を案じた小百合までが、そのあとを追って同じ五十三次の旅へと続いた。こうして蔵人の行列は幾度か襲われ、その度に蔵人の奇策とあざやかな剣さばきとが危機をきり抜け、三左衛門のため追いつめられた小百合の危険をも救った。京都へ目と鼻の瀬田の大橋では、京都からの反幕派の浪士も加わり、牛若小僧もこれに便乗、前後からのはさみうちで、堀田家の一行も危ないかに見えたが、これも蔵人の機智と剣とで見事に切り抜け、一行は無事京都へ到着したのだった。いつしか蔵人の人柄にひきつけられていたお蓮も、大任を果たして江戸へ引きかえす蔵人のあとを追う小百合の姿を、あきらめの瞳で見送るのだった。

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 大河内傳次郎(本名大邊男<ますお>、1898-1962)は『弥陀ヶ原の殺陣』(衣笠貞之助監督、聯合映画芸術家協会'25=大正14年)に新民衆座の座員の一人として目明し紋治役で端役出演したのが映画デビュー作で、原作は大河内が西方弥陀六の筆名で書いた四幕の舞台脚本『若き日の忠次』でした。魁夷な容貌の丹下左膳からは意外な気もしますが、演劇青年時代から脚本執筆もしていたのは自己プロデュース指向の強さを伺わせます。翌大正15年(1926年)に日活大将軍に入社して芸名を大河内傳次郎に定め、同時期に日活に入った伊藤大輔監督に注目され伊藤の日活第1作『月形半平太』の主演に希望されるも入社歴の序列から同作での主演は叶わず、伊藤による『月形半平太』を裏返しにした内容の大河内初出演作『長恨』は数作の端役出演を経た同年11月になりますが、この頃には大河内はすでにブレイクの兆しを見せていました。翌昭和2年(1927年)が大河内の大ブレイクが訪れた年で、同年だけで21作に出演、伊藤監督・唐沢弘光撮影の『忠次旅日記』全三部作(キネマ旬報ベストテンで第二部が1位、第三部4位)、池田富保監督『建国史 尊王攘夷』(キネマ旬報ベストテン3位)と評価も高く、翌昭和3年(1928年)には伊藤監督・唐沢撮影のトリオで初の丹下左膳もの『新版大岡政談』が作られます。原作では重要人物ではない丹下左膳でしたが、映画では左膳を前面に押し出し、大河内は大岡越前と左膳の二役を演じました。以降大河内は、タイトルに『丹下左膳』を謳った作品17作に主演することになります。本作の木村恵吾監督(1903-1986)は昭和15年オペレッタ映画『狸御殿』'40が『オペレッタ狸御殿』(2005年)のオリジナルとして有名ですが、大正15年('26年)に日活映画で脚本家デビューし、昭和4年('29年)までに11本の脚本が映画化、帝国キネマ演芸に昭和5年('30年)に移り監督デビューします。のち大映に移り1965年まで監督を勤め、大映退社後はしばらくテレビ演出をしましたが間もなく引退、1986年に逝去しました。昭和30年(1955年)、京マチ子主演作品『千姫』'54年がカンヌ国際映画祭パルムドールにノミネートされ、コンペティション上映されましたが、受賞は逃しています。丸根賛太郎より10歳年長ですし監督デビューもほぼ10年早い人ですが、丸根ほどではないにせよ映画界引退が早かった人でもあります。ところで前回の『狐の呉れた赤ん坊』からいきなり'52年に飛んでしまいましたが、この間時代劇が作られなかったわけではなく戦前から「時代劇6大スタア」と呼ばれた阪東妻三郎嵐寛寿郎片岡千恵蔵市川右太衛門長谷川一夫、そして大河内傳次郎がおりましたし(または月形龍之介を含めて「七剣聖」)、丸根賛太郎のような時代劇に徹した監督もいました。しかしアメリカ駐留軍総司令部の映画検閲はずっと続いていたので時代劇は非常に作りづらく、上記の時代劇スターも現代アクション作品や剣戟作品ではない時代劇(片岡千恵蔵金田一耕助多羅尾伴内ものなどの現代劇や、時代劇では遠山金四郎など)の出演を余儀なくされ、穏健な捕物帖や怪談、人情劇が主流を占めた時期がありました。昭和27年をもってアメリカ駐留軍は占領から撤退しますが、前年の昭和26年3月には総司令官マッカーサーか解任され4月からリッジレーが後任に当たり、7月の朝鮮戦争休戦、8月の戦犯指定解除、9月の日米安保条約成立という流れではGHQによる映画検閲は実質的には廃止されていたと思われ、12月には海外の大手映画社の日本支社設立が相次ぎ映画輸入がほぼ自由化されます。昭和26年('51年)後半からは露骨な内容でなければ形式的にはGHQ検閲があったとしても従来よりずっと自由に時代劇の企画が通るようになったと思われるので、例えば今回、次に載せる阪東妻三郎主演作『魔像』などは昭和27年度上半期シーズン最大のヒット作になったそうですから、従来型の剣戟アクション時代劇を観客も待望していたのを物語るようです。
 本作は剣戟よりも多数の登場人物が入り乱れてのお宝争奪戦の方に重点を置いた時代劇ですが、大河内傳次郎の戦前主演作のリメイク版になるそうですからオリジナルも好評だったのでしょう。原作も時代物作家の巨匠、野村胡堂です。監督の木村恵吾はもともと脚本家出身ですから本作も自作シナリオで取り組んでおり、リメイクにとどまらない意欲が感じられます。設定は幕末の開国派と攘夷派との抗争ですが主人公が開国派の使いなので、一応戦後日本への占領軍方針とは衝突しませんが、サイレント時代の『建国史 尊王攘夷』'27では開国派と攘夷派の抗争を描きながらどちらに立っても矛盾を生じる事態に気づいた上で、矛盾を矛盾のまま描き通す構想の大きさがありました。本作ではそのあたりを割り切った作りで、攘夷派=反動=倒幕派=悪役とすんなり図式に収めています。しかしそれだと、原作ではどうなっているのか知りませんが、こうも同じような悪役が(目的はそれなりに違いを設けてありますが)出てきては引っ込むプロットがオムニバス映画めいていて、1本の長編映画なら副登場人物たち同士にももっとドラマがあってもおかしくない、というか話が盛り上がっていきません。本作でも一応は主人公をめぐる人物たち同士の関わり合いが描かれてはいるのですが、大河内傳次郎演じる主人公はあくまで超然としていてドラマを通して変化していくようなキャラクターではない。本作の大河内の役柄は一見控えめで冴えない一介の浪人ながら意志は強く腕前も立つ、という主人公ですが映画の最初と途中と終わりでポテンシャルがまったく同じで、一世一代の大役を果たしたという感じなど全然感じさせないのです。そういう不言実行型の恬淡とした人物を描こうというのなら周辺人物たちが騒がしすぎ、誇張されすぎています。おそらく込み入った登場人物たちの出入りや騒動に次ぐ騒動、といった展開は原作準拠と思われますが、主人公を筆頭に登場人物の性格は配役に基づいた映画独自のものなのではないかと思われ、轟夕起子演じる女賊お蓮などはまり役で他の役者もシナリオが配役を念頭に書かれている感じがします。おそらく大河内傳次郎の主人公についてはオリジナルを叩き台にしたとしても好きに演らせたと思われ、それに合わせて他の曲者たちを設定していったところお話は波乱万丈なのにプロットの起伏は単調になってしまった。展開が読めてしまう、主人公に都合良すぎるのは娯楽映画では必ずしも欠点ではありませんが、まず主人公の浪人馬場蔵人が任務に忠実である説得力からして乏しく、開国派に対しても攘夷倒幕派についても等距離でいる方が自然に思えます。少なくともこの込み入った話の中ではそう思えます。明快な任務遂行型時代劇に仕立てようとしたところその明快さがかえってどこか突っ込みの浅い、いまいち印象の薄い作品にしていますが、昭和27年1月公開作品ですからまだ検閲が念頭にあったのかもしれません。

●2月13日(火)
大曾根辰夫『魔像』(松竹京都'52/5/1)*97min(オリジナル同), B/W

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監督・大曾根辰夫/脚本・鈴木兵吾/原作・林不忘/製作・小倉浩一郎/撮影・石本秀雄/美術・川村鬼世志/音楽 鈴木静一
出演・阪東妻三郎(神尾喬之介)、阪東妻三郎(茨右近)、津島恵子(園絵)、山田五十鈴(お絃)、柳永二郎(大岡越前守)、三島雅夫(魚心堂)、香川良介(壁辰)、小林重四郎(金山寺屋音松)、小堀誠(脇坂山城守)、永田光男(戸部近江介)、海江田譲二(大迫玄蕃)、田中謙三(浅香慶之助)、戸上城太郎(神保造酒)
○解説(キネマ旬報日本映画データベースより) 製作は「相惚れトコトン同志」の小倉浩一郎。「旗本退屈男 江戸城罷り通る」の鈴木兵吾が故林不忘の原作より脚色した「大岡政談」もの。「鞍馬天狗 天狗廻状」の大曾根辰夫が監督し、「大江戸五人男」の石本秀雄が撮影している。出演者の顔ぶれは「稲妻草紙」の阪東妻三郎の二役、「波」の津島恵子、「箱根風雲録」の山田五十鈴、「西鶴一代女」の柳永二郎のほか、三島雅夫、香川良介、戸上城太郎など。
○あらすじ(同上) 千代田城御蔵番を勤める神尾喬之助は元旦早々組与頭の戸部近江介を急先峰に御番所の面々から年賀の礼を尽さなかったとつめよられた。近江介は懸想していた園絵が神尾の妻になった恨みもあったが、何よりも彼等が私腹を肥やしていることに実直生真面目な神尾が常に意見を差し挟む事を邪魔に思っていたからであった。彼等の余りなやり方に堪えられなくなった神尾は近江介を斬って姿を消した。そして彼は江戸っ子気質の御用聞き壁辰と音松の好意で、これも曲がった事が大嫌いという通称喧嘩屋夫婦、茨右近とお紘の家にかくまわれた。その右近がまた喬之助から事情をきき、彼が残る不正の御蔵番一味十七名に天誅を加えようというのには大賛成、喬之助の自宅から園絵をひそかにつれて来てやった。喬之助は次々と不正役人を倒して行った。今や戦々恐々の彼等は剣豪神保造酒に喬之助を討つ事を依頼したが、神保は園絵と引きかえにそれを承知した。騙されておびき出された園絵も、しかし魚心堂と名乗る当時名奉行の名の高い大岡越前守の親友に救われた。越前守は悪役人が大かた退治され主謀の脇坂山城守も御役御免になったのを知って、世をさわがせた喬之助を召取らせた。そこは名奉行のさばき、喬之助を人違いの左近と主張して江戸より追放だけ申渡した。魚心堂から無事送り届けられた園絵と共に、喬之助は心も晴々と旅に出るのだった。

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 神田生まれの阪東妻三郎(本名田村傳吉、1901-1963)は大正5年('16年)に十一代目片岡仁左衛門内弟子となり歌舞伎の世界から俳優になった人で、歌舞伎俳優に限界を感じ大正7年('18年)からは大衆演劇の一座に沢村紀千助名で客演するようになりましたが大衆演劇の方でもすぐに行き詰まってしまいます。転機は大正8年('19年)、国際活映の沢村四郎五郎一派のエキストラとして日当制で映画出演するようになってから訪れ、歌舞伎・大衆演劇など因襲の多い舞台劇の世界からまだ自由な気風のある若い日本映画の世界に触れ、阪東藤助名で昼は映画出演(当時の映画撮影はフィルム感度の問題で多くは自然光撮影でした)、夜は舞台出演の生活上に入ります。大正9年(1920年)には6月開設したばかりの松竹キネマ蒲田撮影所に入社しますがすぐ国活映画に戻り、阪東要二郎名で7月の『島の塚』(枝正義郎監督)で初めて助演ながら注目を集めました。しかし役に恵まれない時代は続き、大正10年('21年)には遂に阪東妻三郎名を名乗って国活の俳優仲間と「東京大歌舞伎 阪東妻三郎一座」を旗上げ、1年間は盛況でしたが金銭管理の問題で翌年一座は解散、阪妻は羽尾打ち枯らして実家に戻ります。この時まだ22歳ですから若くして大変な苦労を味わってきたわけです。大正12年2月、日活から再び独立した牧野省三が京都にマキノ映画製作所を設立するに当たり、東京からスカウトされてきたのが阪妻の出世の足がかりとなりました。当初はエキストラから端役、そして敵役と順序を踏みましたが主役を食う美男子ぶりと存在感で大正13年('24年)の正月映画『火の車お萬』で評判を呼び、悪役を演じた『怪傑鷹』(二川文太郎監督)で人気を博し、『燃ゆる渦巻』(全四篇)の第四篇では主役が早々死んでしまうため実質的に第四篇の主役となります。同年早くもマキノに売り込んでいた新進脚本家の寿々喜多呂九平が浅草生まれで阪妻と意気投合し、阪妻のために呂九平が書き下ろした『鮮血の手型 前・後篇』(沼田紅緑監督)が大ヒット、以降1年半のマキノ映画製作所でのヒット実績で、阪妻大正14年('25年)9月に25歳で阪東妻三郎プロダクションを京都太秦に設立するまでに至ります。第1回製作作品が寿々喜多脚本・二川監督による『雄呂血』で、封切りは東亜キネマ配給によって先に完成した第2作『異人娘と武士』が先になりました。これら阪妻プロ作品はマキノからの妨害に東亜キネマが男衆のガードをつけて製作されたと言われます。阪妻プロ作品はその後松竹との配給契約、自社撮影所の設立、ユニヴァーサル日本支社からの配給契約と移り、松竹に買収され、さらに松竹から独立して新しい阪妻プロを起こしパラマウント日本支社から配給されますが、トーキーが本格化した後昭和11年('36年)12月に阪妻プロは最終的な解散を迎えます。その後の阪妻は裸一貫で日活へ、そして大映へ移るのですが、昭和18年('43年)に軍徴用にかかった際には呼び出しに「役者の阪妻がお国の役に立たなくて、田村傳吉に何の用がおます!」と啖呵を切り、出頭せずじまいで済ませたと言われます。田村高廣、正和、亮兄弟がずっと「阪妻の息子」呼ばわりされてきただけある偉大な俳優だったわけです。また時代劇スタアの中でも全国中に子供のチャンバラを流行させたのは『雄呂血』の阪妻と言いますが、大河内傳次郎阪妻だけは剣戟や遠景など撮影の困難や効率のためのスタントを拒否してシルエットだけのカット、負担を強いる雪中や水中のシーンでも本人の出演を貫いた俳優で、そのための怪我や病気も絶えなかったと言われます。また剣戟作品だけでなく『無法松の一生』'43、『狐の呉れた赤ん坊』'45、『王将』'48、『破れ太鼓』'49などの代表作があるのも特筆すべきことでしょう。さて本作の大曾根辰夫監督(1904-1963)は2本の監督補を経て『石井常右衛門』(松竹下加茂'34/03/01)で監督デビュー、戦前は『北方に鐘が鳴る』 (松竹下加茂'43/08/26)まで36作があり、戦後は松竹京都に移って『朗らか週間 第三話・希望の船出』(松竹京都'46/05/30)から『義士始末記』(松竹京都'62/09/09)まで59作、総計95作の監督作があり、戦前は松竹下加茂、戦後は松竹京都から他社への1作の出向も移籍もしなかった監督です。他に戦後の代表作とされるのは美空ひばり15歳の時代劇コメディ『ひばり姫 初夢道中』'52、松本幸四郎主演の3時間の大作『花の生涯 彦根篇 江戸篇』'53、戦前の成瀬巳喜男作品のリメイク『鶴八鶴次郎』'56、松本清張原作の岡田茉莉子主演、笠智衆が田舎の刑事の和製フィルム・ノワール『顔』'57などで、逝去前年までに監督作品があり年間生涯3~4作ペースで監督作を送り出していたことからも西の松竹のプログラム・ピクチャー監督だった人なのでしょう。こういう監督が大手5社(日活、松竹、大映東宝東映)に何人もいて週替わりのようにプログラム・ピクチャーを送り出していたのですから日本映画の黄金時代は把握しきれないのです。
 本作は阪東妻三郎ほとんど晩年の作品で、翌'53年7月に阪妻は松竹京都の『あばれ獅子』(8月公開)撮影中に高血圧から倒れ、5日後の7月7日に脳内出血で急逝してしまいます。享年51歳でしたが、2役をこなす本作からは体調の不調は微塵も伺えません。『狐の呉れた赤ん坊』でもずぶずぶと子役時代の津川雅彦を肩車して川を渡っていましたが、先に略述した経歴でも監督の大曾根と主演俳優阪妻ではどちらが意欲的で進取の気迫で映画に取り組んでいた映画人だったかを言うのは容易ですがフェアではない気がします。アナーキスト出身の異色監督、悪麗之助(1902-1931)を監督デビューさせたのも阪妻プロでしたし(悪はその後月形龍之介プロ、市川右太衛門プロに招かれましたが29歳で夭逝、監督作品25本は1作も現存しないと思われていましたが2009年に月形主演作『荒木又右衛門』'30の30分弱の断篇が発見され、2011年に脚本から短縮版に編集されました)、 牧野プロから早い逝去に至るまで阪東妻三郎はサイレント時代から'50年代初頭までの日本映画史の主役の筆頭であり生き証人のような人でした。牧野プロでの『逆流』'24、ことに阪妻プロの『雄呂血』'25は世界の映画史のサイレント期の古典とされ、ジョセフ・フォン・スタンバーグが驚愕してロサンゼルスの日本人向け映画館に殺陣シーンの演出で何人斬られたか数えられるまで通ったと言われる作品です。同作が完全なプリントで今日観られるのもプロデューサーでもある阪東妻三郎が自宅に1本を保管しておいたからで、没後の遺品整理中に発見されたと言われますが70代の長寿を迎えられれば日本のダグラス・フェアバンクスルドルフ・ヴァレンティノかと偉業を讃えられることもあり得た人で、それは本作のような戦後の娯楽作品でも一端が味わえます。本作は正義漢で堅物の侍、神尾喬之助(妻のお園に時代劇初出演の津島恵子)と喧嘩番長の町人、茨右近(喧嘩屋夫婦と評判の妻のお絃に山田五十鈴)を阪妻が二役で演じるのが趣向で、成り行きから不正役人のシンジケートを粛清しようと喬之助と右近が組むことになり、この二人はもともと間違えられるほど瓜二つという設定で、二人が対峙するシーンは合成処理で一人二役を演じています。喬之助は「~ござる」口調、右近はべらんめえの「~でえ」口調としゃべればすぐわかり、いかにも慎ましいお園と喧嘩女房の異名をとるお絃の女房二人の対照も楽しく、タイトルが禍々しく『魔像』となっていますがこれは喬之助と右近が瓜二つであるのを指しているので内容は勧善懲悪明朗時代劇で剣戟シーンもくどくはならない程度に豊富で、むしろコメディに近い乗りで、結末などは調子良すぎるんじゃないかというくらいにめでたく終わります。原作の時代小説は戦前の作品になるようですが、昭和27年の時代相だとこの筋書きは野暮な批評家に戦犯懲罰かレッドパージにこじつけて解釈されそうで、観客からはシーズン最高のヒットとなる歓迎を受けたのは本作のどのあたりか少し気になります。サイレント期の阪妻映画を観てチャンバラしていた世代が30代後半の映画観客になっていたノスタルジーも大きいかもしれません。だとすれば、阪東妻三郎急逝の前年に本作を観客の要望に応えるヒット作に仕立てた大曾根監督もまた、プログラム・ピクチャーの映画監督としては最善の仕事をしたと讃えるのが素直な鑑賞で、ただしここではサイレント時代の時代劇の毒気は意図せずにか意図的にか愛嬌に置き換えられてしまった観があるのも確かです。