今年2018年1月には46年ぶりにイギリス=西ドイツ合作の代表作『早春』の待望のリヴァイヴァル上映と日本盤BD、DVD化が実現したものの、現在「スコリモフスキ監督60年代傑作選」時に発売されたDVDは早くも廃盤になっているのは残念です。'60年代映画を代表する伝説的傑作『バリエラ』だけはプレミア価格が高騰していますが他は中古盤の入手は割合容易で、同作や『早春』は以前から比較的多くBS放映されていますのでご覧になる機会も多いかと思います。まだ'60年代の新進気鋭監督、または中堅の精鋭というイメージが強かったスコリモフスキが今年80歳を迎えて現役最年長監督のひとりになったのは変な感じですが、途中15年以上のブランクを経て近年再び製作ペースを取り戻している映画作家です。今回手持ちの10作品を観直して感想文をお送りしますが、いずれも代表作のひとつと言える作品です。しかしスコリモフスキの映画は面白く観られる作品がほとんどですが、感想文を書くとなるとどう扱えばいいのかつかみどころのないようなものなので、1回にまとめるのは2作ごとにとどめました。その訳は本文、または参考リンク映像をご覧いただければおわかりいただけると思います。
●5月1日(火)
『身分証明書』Rysopis (Film Polski Film Agency=Szkola Filmowa, Poland, 1964)*76min, B/W; ポーランド一般公開1965年11月13日・日本公開2010年5月29日; Trailer, Jersey Skolimowski talks about "Rysopis" 2004 (with Movie extract) : https://youtu.be/RmYaNCltZnk : https://youtu.be/9TKGZsxqZgg
○出演=イエジー・スコリモフスキ(アンジェイ)、エリジビエタ・チゼウスカ(テレサ、ヤンチェフスカ、バルバラ)、アンジェイ・ジャルネツキ(ムンデク)、タデウシュ・ミンツ、ヤツェク・シュチェンク
○解説(キネマ旬報映画データベースより) 兵役に出向く青年の屈折した内面を詩情あふれる映像と大胆なカメラワークで描いた作品。監督・脚本・主演はポーランドのイエジー・スコリモフスキ。これが長編デビュー作となった。2010年5月29日より、東京・渋谷シアターイメージフォーラムにて開催された「イエジー・スコリモフスキ'60年代傑作選」でデジタル上映。
○あらすじ(同上) イエジー・スコリモフスキ監督が手掛けた自作自演連作映画"アンジェイもの"第1弾。大学を中退し、毎日を無為に過ごす青年、アンジェイ・レシュチツ。順応を求める社会に居場所を見出せなかった彼は、新たな居場所を得るため突然兵役を志願する。
映画は朝5時に主人公が起床する場面から始まっています。隣には妻テレサが寝ている。主人公が徴兵委員会に出向いて兵役に就く申し込みを済ませ、午後3時の駐屯地行きの電車に乗ると決めて、一旦自宅に戻ってきて、寝ていた妻テレサが起きてくるのが朝8時ですから、ポーランドの徴兵委員会(自衛隊の入隊窓口のようなものか)は行けばいつでも開いているのかと朝の早さに疑問も起こりますが、たぶん徴兵委員会に着いてさっさと用件だけ済ませてきたのが朝7時頃で、兵役申し込み手続きの予約でもしてあったとしましょう。この映画は主人公が乗りこんだ駐屯地行きの午後3時の電車が走り出すところで終わりますから、早朝5時から午後3時までの10時間に主人公が最小限用件を済ませながら街をふらふらする様子だけを描いた映画です。プロット自体が「主人公は兵役手続きを済ませて約束の時間に出発する」というだけですからここから生まれてくるストーリーはおよそストーリーとは呼べないようなもので、無理してドラマ性を作ろうとすれば「主人公が引き留められる」「約束の時間に間に合わなくなりそうになる」といった仕掛けが必要ですが、そういう映画でもありません。主人公アンジェイはテレサが仕事に出るのを見送り、街で買い物をしたり病気の飼い犬を獣医に診せに行ったり、ばったり遭った旧友ムンデクにお金を借りるがその替わり肖像画を作らないかとセールスにあったり、中退届けを出してあった大学に成績表を取りに行き初対面の女子大学生と親しくなったり、ムンデクに教えられた住所でムンデクの愛人と顔をあわせムンデクの裏の稼業を知らされたり、実はこのアパートの部屋も住人の海外旅行中ムンデクが愛人を住まわせていると教えられたりします。街に出たアンジェイは街頭でラジオのインタビュワーにつかまり、それからテレサの職場に行くと早退していたので帰宅します。そこに偽傷痍軍人らしき初老の男がたぶん物乞いに訪ねてきて話だけ聞いて帰し、後から帰ってきたテレサにアンジェイは疑いをぶつけて口げんかの果てに別れ話になります。家を出たアンジェイは駅に急ぎ、走り始めていた駐屯地行きの電車に飛び乗ったアンジェイを女子大学生バルバラが見送ります。そして追いついたバルバラを正面からとらえた構図で映画は終わります。
このラスト・カットは強烈で、駅に向かって走るアンジェイから次はもう走り出した路面電車(この映画に出てくる電車はすべて路面電車です)の中から電車と併走してくるアンジェイを撮したショットになり、アンジェイはそのまま飛び乗ってきますがカメラは窓の外を撮したままで、そのまま走り寄るバルバラがフレームに入ってきて車内から撮したバルバラがミドルに寄るまで追い続けて、ミドルに決まった所で暗転しクレジットロールが流れます。これをカット割りなしのワンカットで路面電車の車内から撮影しているのが映画の長い長いラスト・カットになるので、資料によると本作は76分で39カットしかないそうです。実際の撮影ではもっとテイクを重ねたりカットを割ってみたりしたはずですが、完成された『身分証明書』(「Rysopis」を正確に訳すとまったく逆の意味、つまり「身分証明書なし」になるそうですが)は39カットでできている。つまり1カット平均117秒(1分57秒)になるわけで、もっと短いカットもあるからにはもっと長いカットもあるでしょうが、本作は尺数自体も短いにしても通常の90分~120分の映画が少なくても500カット以上、多ければ1,500カット以上、近年のアニメ作品では2,000カット以上で作られているのを思えばあまり例のない試みです。大島渚の『日本の夜と霧』'60が107分で全43カットという意識的な実験でしたが、大島は『白昼の通り魔』'66では99分を当時としては破格の1,500カット以上の作品に作り上げた、非常に方法意識の強い映画監督でした。『日本の夜と霧』も『白昼の通り魔』も傑作ですが、大島渚らしい知的操作を感じさせるものです。スコリモフスキの場合は大島のような知的探求心ではなく、またヒッチコックの『ロープ』'48の映画技法的実験にヒントを得て1シーン・ワンカット技法を'50年代初頭から低予算映画に応用していたイングマール・ベルイマンとも発想の異なる、まあ映画大学の課題用短編映画フィルムのあまりを使って作ったとか撮影時間が限られていたとか物資的・予算的な都合もあったでしょうがカットを割ってモンタージュすればもっと簡単に済むシーンも多い上に、これを第1長編として世に送るのにカット割りの技法すら使わない76分39カットなどとプロとも思えない作品にわざわざするでしょうか。本作の1カット平均1分57秒というとんでもない作りは率直にスコリモフスキの映画監督としての勘、情動の反映と思えるのです。それは登場人物も内容的にも本作の続編的な第2作『不戦勝』の74分35カットという作りからも自然な連続性がうかがえます。
●5月2日(水)
『不戦勝』Walkower (Zespol Filmowy Syrena, Poland, 1965)*74min, B/W; ポーランド公開1965年6月4日・日本公開2010年5月29日; Trailers, Extracts : https://youtu.be/RmYaNCltZnk : https://youtu.be/sshYaAZCBBk : https://youtu.be/YYk_GDu69uo : https://youtu.be/4_tq62bdszw
○出演=イエジー・スコリモフスキ(アンジェイ)、(アレクサンドラ・ザヴィエルシャンカ(テレサ)、クシシュトフ・ハミェツ(コンビナート所長)、ヘンリィク・クルバ(ロガラ)、アンジェイ・ヘルデル(トラック運転手パヴラク)
○解説(キネマ旬報映画データベースより) 気が進まない試合に出ることとなったボクサーの心の揺れを描くドラマ。監督・脚本・主演は「身分証明書」のイエジー・スコリモフスキ。前作「身分証明書」から6年後のアンジェイを描いた第2作。2010年5月29日より、東京・渋谷シアターイメージフォーラムにて開催された「イエジー・スコリモフスキ'60年代傑作選」でデジタル上映
○あらすじ(同上) 兵役後、アマチュア・ボクサーをしながら不安定な生活をおくるアンジェイはある街で若い女と出会う。それはかつてのクラスメイト・テレサであった。テレサの就職面接に付き合い工場に向かうアンジェイ。彼女は無事採用される。その工場で再会した元トレーナーのロガラの勧めでアンジェイは試合に出ることとなるのだが……。
映画はまず若い女の静止画像が映り、悲鳴とともに頭蓋骨のシルエットが入れ替わって列車の急停止音が鳴り響き、若い女の飛び込み自殺が暗示されます。この写真の女性は前作『身分証明書』でヒロインを勤めた当時のスコリモフスキ夫人のエリジビエタ・チゼウスカです。アンジェイは駅で立ち往生した電車から下りるとプラットフォームで若い女に話しかけ、会話から女の名前はテレサで大学時代のクラスメートで、同じ電車に乗ってきたとわかります。テレサはこの町の工場のエンジニアに採用されて勤務前のあいさつに行こうとしていて、アンジェイは自分もエンジニアだから連れていってくれ、と頼んで工場を訪れます。テレサは企画部のチーフに任命されており、工場長との面談の後さっそく企画部に乗りこんでいきます。アンジェイは大学中退なので採用される見込みはなく敷地をぶらぶらしていると、偶然昔通っていたボクシング・ジムのトレーナーのロガラと出会い、工場で行われるボクシングの初心者試合に出ないか誘われます。一方テレサは企画部で自分のプロジェクトの重要性を強く主張します。アンジェイとテレサは落ち合ってレストランに行き、食後にアンジェイはひとりで携帯ラジオを質屋に売りに行きますが、自動車事故の現場を通りかかったせいで質屋からの帰りに警官に捕まり尋問されます。たまたま泥棒で捕まったアンジェイの旧友が警察署に居合わせ、自殺した若い女の写真をアンジェイに見せます。次いでテレサに語りかけるアンジェイのモノローグでアンジェイの大学中退の理由は政治運動からテレサがアンジェイを追放したことにあるのが語られ、アンジェイは工場の宿舎に移ったテレサを訪ねてボクシング試合に出場する決意を明かします。アンジェイは初戦のトラック運転手との試合にかろうじて勝ちますが、次の相手が強豪ヴィエルゴシュでミドル級チャンピオン・マッチになるとロガラから知らされます。アンジェイは初心者試合のはずじゃないかと抗議しますがアンジェイ自身も初心者ではなく、アンジェイとヴィエルゴシュのタイトル・マッチになるのをロガラが仕組んだと気づきます。アンジェイは棄権を決め、テレサとアンジェイは翌朝列車に乗って出発します。しかしアンジェイの初戦相手だったトラック運転手が偶然アンジェイを見かけて列車を追いかけ試合放棄を非難します。アンジェイは挑発に乗って列車から飛び下り試合ぎりぎりに駆けつけますが、ヴィエルゴシュの棄権によって不戦勝となっているのを知って茫然とします。しかし、試合後に無人になったボクシング会場に戻ったアンジェイを待っていたのは……。
かつての恨みがある女に対する面子をかけたボクシング試合を山場にしたプロットであること、先にストーリーを追う際には触れませんでしたが冒頭のトリッキーな見せ方をした飛び込み自殺のシーンが警察署で旧友の男に見せられた写真を経て初戦でアンジェイが一度ダウンした時にフラッシュ・バック(若い女の静止画像、悲鳴、骸骨のシルエットとともに)されてアンジェイがハッと気づいて起き上がること、アンジェイ不在のシーンの挿入があること(企画部でのテレサ)、テレサとの関係がボクシング試合出場の決意への伏線となっていること、先の「アンジェイを待っていたのは……」の後のブラックでシニカルなどんでん返しなど、一見して『身分証明書』と似たようでいて本作は入念な仕掛けのある映画、骨格らしい骨格がなく量感だけがあった前作とは違って、骨格の確かめられる映画になっているのは上記のような周到さが指摘できるからです。しかし本作の真価は前作との映像文体の統一で、内容ははるかに複雑になっているのに74分を35カット、つまり1カット平均128秒(2分8秒)と、前作の76分39カット、つまり1カット平均117秒(1分57秒)とほぼ同じとも言えますが11秒もの差は通常の映画例では裕に1カット分の長さです(1時間=3,600秒に対して10秒1カットなら360カット、1時間半なら540カット、2時間なら720カットで平均的か、むしろ少ないくらいです)。周到に伏線を張った作品でさらにカットが長くなっているのはそれだけ入念な長いカットが増えたからで、バイクで列車を追ってくる初戦相手を車内から撮して追いついてフレーム・インしてきて列車と併走しながら主人公を挑発し、挑発に乗った主人公アンジェイが列車から飛び下りるのを初戦相手のトラック運転手役の俳優も主人公アンジェイを演じるスコリモフスキもスタントなしでこなしており、この数分間に渡るシーンが車中からの1シーン・ワンカットです。これは初戦相手役、スコリモフスキ、列車の運転手、カメラマン、そして合図役のスタッフの5人で時速50キロ、55キロ、60キロの3回テイクを撮って時速60キロのテイクを使ったそうですが、ボクシングのミドル級の体格を持つスコリモフスキが時速60キロの列車から土手に飛び下りる、この負荷を計算するとよくまあ専門家のスタントを立てずに撮ったものですが、しかも45分かけて3テイク撮ったそうですからたて続けです。プロット、ストーリーともに原題「身分証明書なし」を地で行った前作と人物のキャラクター、映像文体において地つづきながらむしろカットの持続時間では長引いているのが本作の充実と進展を示してあまりあり、さらにこの感想文では書かなかった「不戦勝」後に主人公を待っていたクライマックスの何とも言えない脱力感は前作からさらに磨きがかかっており、以降も時には滑稽に、時には微笑ましく、時には悲愴に変奏されながらもスコリモフスキの映画の特色となっていくものです。