人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年9月19日・20日 /『フランス映画パーフェクトコレクション』の30本(10)

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 9月にまとめて観たコスミック出版の10枚組DVDボックス『フランス映画パーフェクトコレクション』既刊3集は『フランス映画パーフェクトコレクション~ジャン・ギャバンの世界』既刊3集の続刊で、『天井桟敷の人々』『巴里の屋根の下』『舞踏会の手帖』の3集が今年5月~7月にかけて発売されましたが、9月末には『情婦マノン』が発売され、10月末の発売予定には『嘆きのテレーズ』が上がっており、以前コスミック出版からリリースされていた『フランス映画名作コレクション』から『ジャン・ギャバンの世界』に始まった既刊6集にまだ再収録されていない7作中、『うたかたの恋』'36、『北ホテル』'38『美女と野獣』'46は『情婦マノン』に再収録されましたし、残りの『海の牙』'47、『恐るべき子供たち』'50、『嘆きのテレーズ』'53、『恐怖の報酬』'53、また既刊の『音楽映画コレクション』『戦争映画パーフェクトコレクション』『史劇映画パーフェクトコレクション』などでもフランス映画の古典を発売しているので、『楽聖ベートーヴェン』'36、『海の沈黙』'49、『黄金の馬車』'52などが順次収録されると思われます。『情婦マノン』の巻の収録作品は以下10作品です。
[ フランス映画パーフェクトコレクション~情婦マノン] 1.『肉体の冠』'52、2.『悪魔の美しさ』'50、3.『北ホテル』'38、4.『旅路の果て』'39、5.『ピクニック』'36、6.『女だけの都』'35、7.『情婦マノン』'49、8.『罪の天使たち』'43、9.『美女と野獣』'46、10.『うたかたの恋』'36
 続刊の『フランス映画パーフェクトコレクション』も数巻まとまったところでまとめて観直し感想文を載せたいと思います。なお今回も作品解説文はボックス・セットのケース裏面の簡略な作品紹介を引き、映画原題と製作会社、映画監督の生没年、フランス本国公開年月日を添えました。

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●9月19日(水)
パルムの僧院』La Chartreuse de Parme (Les films Andre Paulve, Scalera Film, 1948)*166min, B/W : 1948年2月21日イタリア公開・5月21日フランス公開
監督:クリスチャン=ジャック(1904-1994)、主演:ジェラール・フィリップ、ルネ・フォール、マリア・カザレス
・エルネスト4世の圧政に苦しむパルム公国。ファブリスはナポリから帰省し、叔母ジーナのもとを訪れる。ジーナは逞しい美青年に成長した甥に恋心を抱くが……。文豪スタンダールの『赤と黒』と並ぶ代表作の映画化。

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 日本公開昭和26年(1951年)2月6日(日本公開版134分)、ジェラール・フィリップ主演作ではこの年12月にルネ・クレール監督作『悪魔の美しさ』'50が公開されますが、ミシェル・シモンの老ファウスト博士が悪魔との契約でジェラール・フィリップ演じる美青年アンリになる趣向の二人一役劇『悪魔の美しさ』はキネマ旬報外国映画ベストテン第6位と批評家には好評だったものの興行成績は不振で、フィリップの人気は翌昭和27年公開の『肉体の悪魔』'47からになるそうです。この『パルムの僧院』も文芸映画扱いだったので、伊仏合作の大作とはいえキャストにもまだ馴染みのない時代劇ということもあってまだフィリップのブレイク作にはならなかったようです。オリジナルは現行DVD通り3時間近い大作ですが日本公開は国際公開版の134分と30分以上の短縮があり、筆者は短縮版の方は観たことがありませんがオリジナル版は長さを感じさせないすこぶる快調な仕上がりです。監督クリスチャン=ジャックは5年後にフィリップ主演作の楽しいチャンバラ時代劇『花咲ける騎士道』'52をヒットさせますが、スタンダールの2大傑作でも『赤と黒』よりはぐっと渋い『パルムの僧院』を映画化した監督手腕は重量級の名作をさらっと見せる脚色・演出でこれもありかな、というものなので、原作小説は専制時代の政治小説でもあれば時代に翻弄されて主人公の青春の夢が挫折をたどる歴史の無常を描いた失意の物語でもあるのですが、そういう細かい情感は小説読者の読みこみに任せて事件に次ぐ事件で宮廷陰謀活劇に仕立てたのはそれも見識であって、ベルナルド・ベルトルッチの『革命前夜』'64がのちに現代イタリアに『パルムの僧院』を本案して主人公を挫折するコミュニストにし、伯母との近親相姦的恋愛を押し出して『パルムの僧院』本来の時代閉塞感の表現にかなりの成功を収めたのとはクリスチャン=ジャックの「映画で楽しむ名作文学」的アプローチはサイレント映画時代にまでさかのぼるような発想でまるで逆ですが、それがとかく映画に現代的な問題性を持ちこみたがる傾向のある戦後映画の中ではさっぱりした味わいをもたらしていて、文学作品『パルムの僧院』は読者にとって人生の書となるような大小説ですがそれだけに映画は宮廷陰謀活劇でも別に構わないという気がします。本作のキャストはルネ・フォールがトップでフィリップが二番目、皇帝役のルイ・サルーが三番目で主人公の庇護者の伯母役のマリア・カザレスが四番目ですが、フィリップは二番目でよくてもルネ・フォールとマリア・カザレスは役柄の重要さからも逆じゃないかと思え、皇帝役のルイ・サルーはドラマ上では単に機能的な役割しかない人物です。映画の主人公はフィリップ、もっとも重要なヒロインはカザレスなのは一目瞭然で、これも複雑な原作から適度に枝葉を払って物語の見晴らしを好くした効用です。製作年・本国公開年は本作より前の『天井桟敷の人々』や『肉体の悪魔』でカザレスやフィリップが日本に馴染みがあれば本作はもっと話題になった作品と思われ、文芸映画としては軽すぎ娯楽時代劇としてはやや派手さに乏しい(映画後半は主人公はずっと獄中です)のがいまひとつ本作が注目されなかった原因でしょう。こうした作品ではカラー映画だったらもっと映えていたとも思われ、イタリアやフランスの観客には落ちついたB/W映像でも十分に色彩感をイメージできるとしても日本人観客に19世紀イタリア初頭の色彩をB/W映像からイメージするのは難しいので、アメリカ映画でもカラー化が早かったのは現代劇では少なく、歴史映画と(やはり歴史劇である)西部劇からでした。キネマ旬報近着外国映画紹介はあらすじに人物の取り違えが散見されるので、訂正してご紹介します。
[ 解説 ] スタンダールの『パルムの僧院』の映画化で、脚本はフランスの探偵小説家ピエール・ヴェリ、ピエール・ジャリ、クリスチャン・ジャックの共同執筆で、台詞もヴェリが担当している。監督は「幻の馬」「カルメン(1946)」「幻想交響楽」のクリスチャン・ジャック、撮影は「偽れる装い」「密告」のニコラ・エイエ、音楽はレンツォ・ロッセリーニ、装置ドオボンヌ、衣裳アンネンコフというスタッフで、「王様」「オルフェ」のアンドレ・ポオルヴェ・プロダクション一九四八年度の作品である。主演者は「すべての道はローマへ」のジェラール・フィリップ、我が国に初登場のマリア・カザレス(本映画によりロカルノ映画祭女優演技賞を得ている)、「憂愁夫人」のルネ・フォール、「火の接吻」のルイ・サルー以下、アッチリオ・ドッテジオ、チュリオ・カルミナチ、リュシアン・コエデル、ルイ・セニエ、マリア・ミキ、エンリコ・グロリ、アルド・シルヴァーニ、クラウディオ・ゴーラ等が助演している。
[ あらすじ ] ナポリで気楽で放縦な学生々活を終え故郷のパルム(パルマ)に帰って来たファブリス(ジェラール・フィリップ)は伯母のサンセヴェリナ公爵夫人(マリア・カザレス)に迎えられた。数年ぶりに見る甥の姿に、肉身としての彼女の愛情は忽ち激しい恋心に変った。小胆で愚かなエルネスト四世(ルイ・サルー)が権力を振うパルムの宮殿で、大夜会が催された折典獄ファビオ・コンチ(アルド・シルヴァーニ)の娘クレリア(ルネ・フォール)もファブリスの面影を深く心に焼きつけた。だが彼女には大金特の四十男クレサンジ侯爵(クラウディオ・ゴーラ)という婚約者があった。エルネスト四世は公爵夫人に夢中であったが、彼女はとり合わず、ひたすらファブリスに思いを燃した。警視総監ラッシ(リュシアン・コエデル)は、公爵夫人の情人である総理大臣モスカ伯爵(チュリオ・カルミナチ)を憎み、彼の追放を策していた。ファブリスは可憐なマリエッタ(マリア・ミキ)という女優と恋し合ったが、彼女の前の恋人の道化役者ジレッチ(エンリコ・グロリ)に発見されたとき彼を刺し殺してしまった。ファブリスは捕われ城砦に幽閉された。彼は独房の小窓から見える庭園に清らかなクレリアの姿を見出して心を慰めていたが、毎日顔を合わす若い二人の間には無言のうちに、いつかはげしい恋が生れた。ラッシの陰謀でファブリスは二十年の禁固刑を宣告された。公爵夫人は大公の卑劣さを面罵し、自分の力で彼を脱獄させよぅと決心した。クレリアもまたファブリスを毒殺するという計画を獄卒グリロ(ルイ・セニエ)から聞き、炭焼党の首領フェラント・パラ(アッチリオ・ドッテジオ)に助力を求めた公爵夫人に加担してファブリスを脱獄させた。この事件でクレリアの父は罷免され、彼女はクレサンジ侯と結婚せねばならなかった。サンセヴェリナ公爵夫人はファブリスを追手の届かぬマジュール湖畔に伴って静養させたが、ファブリスが今も深くクレリナを恋していることを知ると、彼女の結婚の近いことを告げて諦めさせようとした。ファブリスは身の危険をかえりみずパルムに走ったが、再び捕えられた。公爵夫人は彼を救うため大公の意に屈したが、直後、彼女に思いを寄せるフェラント・パラが大公を暗殺した。間もなく彼女はモスカ伯爵と結婚し、空しい幸福を求めて遠くパルムの国外へと去った。クレリアに再会したファブリスは、ただ一度最後に許し合っただけで、彼女の幸福を乱さないために、パルムの僧院の奥深く身をかくした。
 ――この通り、あらすじだけなら原作小説『パルムの僧院』を圧縮簡略化したものなのですが、原作の粛々としたムードはジェラール・フィリップとマリア・カザレスのはじけた演技と溌剌とした存在感で一新されています。スタンダールは伯母の公爵夫人と甥の若いファブリス侯爵に近親相姦的愛情を託したと思われますし、それをもっと濃厚にしたベルトルッチの『革命前夜』はスタンダールの政治的挫折感の反映でも的はずれな解釈ではないのですが、フィリップのファブリスはもっと気分屋で軽率気楽な夢想家ですし、カザレスの公爵夫人は皇帝を手玉に取るほどあまりに堂々とした風格なので甥っ子のやんちゃ坊主とは養母と養子の愛情(しかも坊主の方は甘えん坊なので大してありがたがっていない)くらいに見え、行動も非常に理性的で現実的です。簡略化されているにせよ言動は原作小説通りなのに俳優を通して肉体化されるとこれほど根本的な性格から異なってしまうのも映画ならではの面白い現象で、脚本はジャック・ベッケルの佳作『赤い手のグッピー』の原作・脚本家ピエール・ヴェリと監督クリスチャン=ジャックの共作ですが、同じ脚本でもこれをもしファブリス役にダニエル・ジェラン、公爵夫人役にアルレッティを配していたらもっと翳りのある映画になっていたはずで、その方が原作のムードには近いかもしれませんが後味に澱の残るような作品にもなっただろうと思えます。イタリア・フランス混合スタッフ&キャストで原作と監督と主演はフランス人でも、公開もイタリア先行だったようにこれはイタリアが舞台のイタリア映画をフランス人が作った作品と見た方がよく、その場合本作の内容には軍事政権から解放されたイタリアの気分に即した時事的な側面もあるかもしれませんし、3時間近い規模、前後編に分かれる構成といいイタリア版『天井桟敷の人々』のようなものを、というイタリア側からのリクエストがあったかもしれません。だとしたら本作のあっけらかんとした仕上がりはかえってなかなかの見識なのではないか、とも思えてきます。そうして見れば本作も端役にいたるまでの人物配置や生かし方も堂に入ったもので、繊細な人間ドラマというより人を食った歴史絵巻としての大味な面白みがあります。それがサイレント時代の映画のような大味さでも構わないではありませんか。

●9月20日(木)
『双頭の鷲』L'Aigle a Deux Tetes (Les Films Ariane, Sirius Films, Les Films Vog, 1948)*87min, B/W : 1948年9月22日フランス公開
監督:ジャン・コクトー(1889-1963)、主演:エドウィジュ・フィエール、ジャン・マレー
・警官に追われた反体制派の青年が女王の部屋に逃げ込んできた。女王はその青年が亡き国王に瓜二つだったため、召使いとして任命する。その青年との間で芽生える恋の行方は……。J・コクトー監督の渾身の傑作。

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 日本公開昭和28年(1953年)6月24日、この年度のキネマ旬報外国映画ベストテンは1位『禁じられた遊び』、2位『ライムライト』、3位『探偵物語』、4位『落ちた偶像』、5位『終着駅』、6位『静かなる男』、7位『シェーン』、7位(タイ)『文化果つるところ』、9位『忘れられた人々』、10位『超音ジェット機』で、イギリス映画が3本(『ライムライト』もイギリス先行公開なのを入れれば4本)も入っているのも珍しいですし、フランス映画が1位作品のみなのも珍しいですが、コクトーの本格的商業映画第2作の本作はルネ・クレマンが監督補(実質的に共同監督)を勤めた前作『美女と野獣』'46から飛躍的に完成度を高めた傑作です。コクトーの監督作は戦前の実験映画『詩人の血』'32を含めて7作ありますが、この『双頭の鷲』が映画としては水際立っているのではないか。コクトーの映画では親しみやすさとインパクトでは『美女と野獣』と『オルフェ』'50が双璧をなし、コクトー自身が主演した自作自演の生前葬的異色作『オルフェの遺言』'60も鮮やかな作品でした。ミケランジェロ・アントニオーニが'79年に15年ぶりにモニカ・ヴィッティを起用して撮ったTVムーヴィー『オーバーヴァルトの秘密』は本作のリメイクですが、『双頭の鷲』は'46年初演のコクトー自身の舞台劇の映画化であるとしても渋さもここに極まれり、といった内容です。ヒロインの未亡人である王妃(エドウィジュ・フィレール)と、亡き王にそっくりの暗殺者の青年(ジャン・マレー)がヒロインと主人公ですが、1時間半の上映時間中ジャン・マレーが登場するまでが約30分、それまでは王宮に出入りする人物が描かれるだけでドラマらしい動きがまったくない、という徹底ぶりです。ジャン・マレーが登場後、この自分に差し向けられた暗殺失敗者を匿うのを決めた王妃によって徐々に冒頭30分の王宮関係者たちがいかに王妃暗殺の策謀をめぐらしているか、マレーはその陰謀の実行犯に利用されただけであるかが明かされていき、ドラマらしい動きのなかった冒頭30分がいかに用意周到に一触即発の人物配置を描いていたかがわかってくる。それとともに王妃が置かれたのっぴきならない立場も明らかになってきて、ジャン・マレーが暗殺に失敗しても王宮全体が王妃の死を策謀している状態は変わらず、暗殺未遂者のマレーを生かして王妃が仕えさせているうちはむしろ王宮側ではそれ以上の手は打てない、という皮肉な事態になったことも明かされます。この千日手のような事態を巧みに描き、室内劇でもあり台詞劇でもありながら密度の高い映像で画面に見入らせてしまうコクトーの腕前は台詞監修を担当したブレッソンの『ブローニュの森の貴婦人たち』そこのけで、本作について言えばフェデーやカルネのような叩き上げの技巧派監督でもこうはいくまいというほどの冴えきった切迫感がある。自作戯曲の映画化でも舞台劇的な演出ではまったくなく、逆にこの映画を舞台化しろと言われたら達者な劇作家ほど困惑するでしょう。キネマ旬報の近着外国映画紹介でも本作の内容紹介は難題だったらしく、『双頭の鷲』の倍以上の長さの『天井桟敷の人々』の倍近い長さの紹介文を載せています。
[ 解説 ]「美女と野獣」と同じくジャン・コクトーが脚本を書きおろし、自ら監督した一九四七年作品。撮影は「旅路の果て」「血の仮面」のクリスチァン・マトラが監督、音楽は「美女と野獣」「ルイ・ブラス」のジョルジュ・オーリックが作曲、美術監督は「美女と野獣」「ルイ・ブラス」のクリスチャン・ベラール、装置担当も同様ジョルジュ・ヴァケヴィッチである。主演は「しのび泣き」「フロウ氏の犯罪」のエドウィジュ・フィエールと「美女と野獣」「ルイ・ブラス」のジャン・マレーが、コクトオ原作の舞台劇と同じく顔を会わせる。助演は練達のジャン・ドビュクール及びジャック・ヴァレンヌ、舞台にも映画にも活躍しているシルヴィア・モンフォール「ルイ・ブラス」のジル・ケアン、エドワード・スターリング、アブダラー等である。
[ あらすじ ] 女王(エドウィジュ・フィエール)は絶世の美人の誉が高いけれども十年このかたベールに面を包んで、近衛の仕官達はもとより侍従のものもほとんど女王の面影に接した者はない。女王が愛するフレデリック王と結婚の祝典を挙げたのは、ちょうど十年前しかも密月を過そうとクランツの城へ赴く途中王は駅馬車の中で暗殺されたのである。それ以来十年、不思議に国民の信頼を得て覆面の女王は国を治めて来たのである。これを痛くも憎んだのは亡き王の母君の大公爵夫人(イヴォンヌ・ド・ブレー)である。彼女におもねって権勢を得ようとする警視総監フェーン伯爵(ジャック・ヴァレンヌ)は、秘密出版物を利用して女王を中傷するかたわら、偽の無政府主義者を買収して女王暗殺の機械をねらっている。若い熱心な無政府主義者のスタニスラス(ジャン・マレー)は、君主専政の封建制度を覆さんと考え、アヅラエルというペンネームで女王誹謗の詩を書き、フェーン伯一脈にそそのかされて、女王暗殺を志しているというのは、スタニスラスが故フレデリック王に生き写しの顔なので、女王に近ずかせる便宜になると思ったからである。女王が思いでのクランツの城へ行った夜、伯の命令で折からの雷雨の中を警察と犬に追われてスタニスラスはクランツ城の女王の部屋に飛込んだのである。その夜は女王が催した舞踏会の夜で、多くの客が招待されて来たが女王は侍女エディット(シルヴィア・モンフォール)を代理として出席させ、自らは部屋にとじこもった。亡夫が愛したワルツの音を聞きながら女王はあたかも故王と相対しているが如く盃を挙げ、亡き人に話かけているところへ、手傷を追って息も絶え絶えのスタニスラスが転げ込んで来たのである。女王は彼が何者であるか、その使命が何であるか知っている。彼こそは女王が十年間待ち望んでいた死の運命の使者なのである。彼女を愛する夫の許へ導いてくれる死の天使なのである。女王は死の天使を手厚く介抱する。この美しい女王をスタニスラスは殺す術を知らぬ。女王はエディットの代りに彼を「読書役」に任命する。こうして女王と故王に生写しの暗殺者との間に、不思議な愛が生れ、女王はエディットも侍従長フェリックス・ヴィレンシュタイン公爵(ジャン・ドビュクール)もともに大公爵夫人のスパイであること、スタニスラスはフェーン伯爵に使われている人形にすぎないこと等、恐ろしい宮廷の実状を話し、自らの不幸を嘆ずる。女王が黒人の召使い(アーメット・アブダラー)をつれて朝の遠乗りに出掛けている間に伯爵はスタニスラスに使命を果せば自由を与えようという。一時に女王は帰京される。それまで待ってくれと彼は答える。女王が遠乗から帰ると毒薬入の指輪が見えない。城の前庭には供奉の近衛兵が既に勢ぞろいしている。毒を仰いだスタニスラスが女王に愛の言葉をもとめると、下野の分際で無礼であろう、下らぬとむち打つぞ、女王はうそをつくのがクレオパトラ以来の習わしじゃという。逆上した男は短剣を女王の背に突き立てる。殺してほしい故にののしった、私はそなたを愛する――女王はそういうと刺されたまま階段を上って窓辺から近衛の兵隊に敬礼を返し、はたと倒れる。スタニスラスは女王の許へと駆け上ったが毒が回って力尽き階段からころげ落ちて息絶える。
 ――最小限に動きのないドラマの底流に怒涛のマグマが渦巻いているような、このじれったい千日手の結末はいわば無理心中で終わるわけで、終わりのないのが千日手ですからもういずれにせよ殺されるか、みずから死を選ぶかしかないヒロインにとって、最愛の相手に殺されるというのが唯一のハッピーエンドになるので、戦前のイメージからは軽薄才子のモダニストだったようなコクトーが実はギリシャ悲劇からフランス古典悲劇までの正統的悲劇の発想を押さえていたのを示すドラマになっています。しかしこれを発想したとしても戯曲、その上映画化もするとなるとコクトー自身による監督だから企画が通ったようなもので、他の監督では引き受け手がいないか映画化そのものが見送られてしまったでしょう。国際的成功を収めたメルヘン的趣向の作品『美女と野獣』は本作製作のための布陣だったのかもしれないと思うほどこれは映画化そのものが挑戦ですが、コクトー映画の目印とも言える『オルフェ』につながっていく鏡もちゃんと出てきますし、王妃と暗殺者が「双頭の鷲」という対照・対応関係も『美女と野獣』の変型なので、観ているうちは全体がつかめず記憶の中で整理され、観直した時に驚嘆するような仕掛けが全編にあります。ジャン・マレーが少し出るのが20分目あたり、負傷して王妃の前に転がり出るのがさらに10分後ならば、このヒロインの王妃も冒頭20分ヴェールで顔を隠したままですし、結末の背中に刺さるナイフ、階段を転落するジャン・マレーを追うカメラ自体の階段落ちなど一瞬たりとも気が抜けない張りつめた映画で、この質感はフランス映画には違いなくてもコクトーの映画以外には'30年代~'50年代を通して似たものがなく、これもむしろ'20年代のサイレント時代の映画からの(クリスチャン=ジャックの『パルムの僧院』のサイレント的大味さとも違う)直接のコクトー流発展のように見えるのです。