人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

病棟スケッチ(5・女難3)

もちろん「奥さんとお子さんは…」の前に名乗りあいはあった。堀口優子。ぼくが名乗ると「お幾つですか?」来月44(当事)になります。「…私は37です。28の時から入院してます」これは返答に窮する。迂闊に「大変ですね」とも言えない。
「はあ、そうですか」と穏やかでかつ感情を込めない声で応えながら、ぼくは彼女の容貌を探った。滑舌は悪くないが高くて輪郭の不明瞭な声(これも容貌の要素だ)、服装はこの病院の患者服なので特徴はない。中肉中背だが腰にコルセットを着けていて猫背なので歩き方はややがに股だ。髪はかなり縮れている。色白で頬に赤みがあるのはいいが半開きの唇は赤すぎる。細くて藪にらみの目は視線が辿れず、盲人のようだ。本人はおそらく微笑んでいるのだろうがまったくの無表情に見える。28歳で入院?経歴が読めない。
はっ、とぼくは我に返った。訊かれたことに答えなきゃ。
「妻も子供もいましたが離婚して、子供は妻の所にいます」
「今はお一人なんですか?」
「はい。…これから昼寝するのですいません、よろしくお願いします」

翌日も堀口優子は近づいてきて、「看護婦さんに注意されました。来たばかりの人に軽々しく話しかけないように、って」
「いいんですよ」と応えながら、何か神経に障る女だなと思った。
数日で分かった。彼女は女性患者一の嫌われ者だったのだ。とにかく他の女性患者に口出しする。金切り声の罵りあいになり、テーブルまで覆る。民族学の本で「最初に近づいてくるのはグループから仲間外れになっている者が多く、研究対象からは除外した方が良い」とあったのを思い出した。雑学というのもあながち無駄ではないわけだ。
なるべく避けるようにはしたが食堂では運悪く斜め前。ルームメートからも嫌われているので廊下をうろうろしたりナースステーションの前に座りこんだりしていることが多い。都合悪いことに娯楽室と喫煙室はナースステーションの前なので毎日話しかけられる。その都度適当に受け流すのだが、この病棟に移って1か月ほど経った頃、「佐伯さん、ちょっとお話したいことがあるんですが…」と呼び止められた。悩み事相談か?それじゃあっちで、と無人の娯楽室の隅に座った。人が来る前に手早く済ませよう。何のお話でしょうか?
「佐伯さんのご両親は腰の悪い女はお嫌いでしょうか?」
と堀口優子は言った。