これが90年代末になってもシニカルなニューヨーカーのジャニス評価だったのだ。関係者にすら女性でありロック・シンガーであること、さらにジャニスの力量をキャンペーンするために、ビッグ・ブラザーは「無教養なヒッピー集団、演奏も稚拙」と誇張するプロモーションがとられた。もちろんジャニスとバンドの溝を深め、ソロ・シンガーとしてのジャニスの独立を促すために。
ジャニスはテキサスからサンフランシスコに単身上京してビッグ・ブラザーのリード・シンガーになった。同じウェスト・コーストでもロサンゼルスやシアトルだったらもっとプロ・ミュージシャンのマナーに早くから接していたかもしれない。バンドのメンバー全員は当然、交流するバンドのメンバーとも積極的に肉体関係を持った。これは男性社会で女性がコミュニケーションを深めるにはかなり危険な方法だろう。
ルート66でシカゴとは交通の便がある。ビッグ・ブラザーの初アルバムはシカゴのマイナー・レーベルから出た。レコード業界最大手から声がかかったのはその年の夏のロック・フェスで一番人気を取ったからだった。
そして製作されたアルバム「チープ・スリル」はチャート1位を獲得、水面下でジャニス独立計画が進み、結局ビッグ・ブラザーのリーダー、サム・アンドリューを新バンドのリーダーにという条件で「コズミック・ブルースを歌う」が初のソロ・アルバムとして製作される。ただし実権を握ったのはほとんどレコード会社の用意したミュージシャンたちだった。アルバムは凡作、ライヴも生彩を欠いたものになった。
この状況から初めてジャニス自身が音楽的リーダーとなるバンドを組み、遺作「パール」を遺したのは感慨深い。死を引き換えにした勝利、そんな気もする。