人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

藤子・F・不二雄ミュージアム

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向ヶ丘遊園の廃園は確か20002年の春だったと思います。最終日はさすがに名残を惜しんで大勢の人が詰めかけました。当時私の一家は遊園地から徒歩5分のマンションに住んでおり、長女は4歳、次女1歳、ついでに妻は35歳でした。
向ヶ丘遊園は金券ショップではとにかくチケットが安く、これは株主優待券が大量に出回っていたからです。フリーパスで遊んでもゲームセンターより安くつくくらいでした。
私は小田急線の、新宿と小田原のちょうど中間ほどの町で生まれ育ちました。就学前にも遊園地といえば向ヶ丘遊園、たまに横浜ドリームランド。ドリームランドは今思えばアメリカ型、コニー・アイランドやディズニーランド型の遊園地だったと思います。人工的な遊園地でした。よみうりランドや後楽園遊園地(軍事工場地跡)もそうですし、浅草花屋敷もそうでしょう。
向ヶ丘遊園はもともと動物公園開設を条件に電鉄会社が買収した土地です。ところが出来たのは遊園地だったので地域住民は怒り、おかげで地域住民はほとんど顔パス、盆踊りもタダで貸し切りという関係になりました。
向ヶ丘遊園の地勢はうねうねとした丘です。平坦地ではない。いきおい地形に合わせていくつかのブロックに分かれ、斜面やブロックの区切りや中央広場は花畑-遊園地全体が花畑の中の遊び場になったのです。動物公園ではなかったが、自然公園になりました。
小学校の遠足でも行きました。ここで初めて自然のアカツメクサを発見した喜びは今でも忘れられません(シロツメクサは珍しくないのですが)。
バブル期には盛大だった入場者数も晩年には無残なほどでした。次女が生まれて間もない頃は長女とふたりでよく出掛けましたが、日曜の朝だというのに他に人影がない。賑わっていたのはヒーローショーの時くらい。長女は3歳だからあどけなく楽しんでいましたが-実際、発表される前から地域住民の間では廃園の噂が囁かれていました。
めでたく1年遅れでオープンするミュージアムは、遺族から市への協力と提案があった後一度却下され、岡本太郎美術館の竣工・オープンが片づき、ジブリの森の大成功を見て再浮上した企画です。アンパンマンミュージアムにすら先を越されました。
かつては駅から遊園地にチンチン電車、のちにモノレールが往復していました。今回はシャトルバスだそうです。ではよい思い出を。