人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画監督・大島渚

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大島渚の60年代後半の映画は自主プロダクション「創造社」制作・松竹配給で、66年から69年の間にこれだけあります。

●白昼の通り魔
●日本春歌考
忍者武芸帳
●無理心中・日本の夏
●帰ってきたヨッパライ
●新宿泥棒日記
●絞死刑
●少年
●東京戦後戦争秘話

半年に1本!(順番はこれで合ってるはず)。当時は二本立て時代なので短くて80分、長くて110分といったところ。創造社は「大島組」と呼ばれスタッフとキャストはいつも同じ+ゲストで、「日本春歌考」は荒木一郎、「帰ってきたヨッパライ」はフォーク・クルセダーズ、「新宿泥棒日記」は横尾忠則、「絞死刑」「少年」「東京戦後戦争秘話」では素人を主演に起用しています。
屈指の成功作として「日本春歌考」を挙げるとしても、他の作品もうさんくさい問題作揃いです。タイトルからして冴えてますよね。
唯一正攻法で幼い兄弟の不幸を描いた「少年」は泣けます。大島渚も普通の感動作を撮れるんだ、と誰もが驚いたといいます。多才なのか気紛れなのかよくわかりません。冴えてる時は何を撮っても冴えてる、その見本がこの時期の大島映画です。

ぼくはいくつか映画の企画に呼ばれましたが(いわば一般モニター代表みたいな形で)ぼくを招いてくれたのは東映宣伝部のトップから定年後フリーになった人で、お嬢さんがぼくと同い年とのことでかわいがっていただきました。昭和30年代からの日本映画界の生き証人みたいな人で、著書「惹句術」は日本映画界の戦後プロモーション史の最高の史料です(関根忠郎さんといいます)。
関根さんからうかがった話は著書とかぶらない分だけでも優に回想録になりますが、ちょうど大島渚監督の新作「御法度」が完成した頃で関根さんは感慨深そうでした。関根さんが宣伝部で責務につく頃、大島渚監督は松竹の大型新人として助監督から監督に昇進。パーティなどで挨拶する機会があると本当に堂々と男らしくてかっこよかったそうです。それが70年代からはだんだん変ってきた。身のこなしはクネクネしてるし頬に手を当てて笑う。「なんで女性化しちゃったんだろう」と関根さんはしきりに不思議がって、最新作の出来も心配していました。(心配は的中でした)。
その後も大島監督は長い闘病生活が続いています。新作の企画があるとも聞かれません。時代は変りました。