山村暮鳥(1884-1924)の詩集「聖三稜玻璃」1915で最大の問題作はこの唯一の散文詩だろう。シュールレアリスムの確立者ブルトンの散文詩集「溶ける魚」1924より10年早い。原文は長大かつ冗長の気味があり、半分に抄出した。この異様な作品が1914年執筆とは!
『A' FUTUR』
(註・[仏語]フツール=化粧水に捧ぐ)
まっているのは誰。土のうえの芽の合奏の行進曲である。もがきくるしみ転げ廻っている太陽の浮かれもの、こころの向日葵の音楽。永遠にうまれない奇形な胎児のだんす。そのうごめく純白な無数のあしの影、わたしの肉体は底のしれない孔だらけ…銀の長柄の投げ槍で事実がよるの讚美をかい探る。
わたしをまっているのは、誰。
(…)
わたしをめぐる悲しい時計のうれしい針、奇蹟がわたしのやわらかな髪をくしけずる。誰だ、わたしを呼び還すのは。わたしの腕は、もはや、かなたの空へのびている。青に朱を含めた夢で言葉を飾るなら、まず、酔っている北極星を叩きおとせ。愛と沈黙とをびおろんの弦のごとく貫く光。のぞみ。煙。生(いのち)。そして一切。
(…)
何という痛める光景だ。何時うまれた。どこから来た。粘土の音と金属の色とのいずれのかなしき様式にでも舟の如く浮かぶわたしの神聖な泥溝のなかなる火の祈祷。盲目の翫賞家。自己礼拝。わたしのぴあのは裂け、時雨はとおり過ぎてしまったけれど執着の果実はまだまだ青い。
(…)
おずおずとその瞳をみひらくわたしの死んだ騾馬、わたしを乗せた騾馬-記憶。世界を失うことだ。それが高貴で淫卑なさろめが接吻の場(シーン)となる。そぷらので、すべてそぷらので。残忍なる蟋蟀は孕み、蝶は衰弱し、水仙はなぐさめなく、帰らぬ鳩は眩きおもいをのみ残し。
(…)
まっているのは誰。そして、わたしを呼びかえすのは。目瞼のほとりを匍う幽霊のもの言わぬ狂乱。鈎をめぐる人魚の唄。色彩のとどめを刺すべく古風な韻律はふかいところにめざめている。霊と肉の表裏ある淡紅色の窓のがらすにあるかなきかの疵を発見(みつ)けた(重い頭脳の上の水瓶をいたわらなければならない)。
わたしの騾馬は後方の丘の十字架に繋がれている。そして物憂くこの日永を所在なさに糧も惜まず鳴いている。
(大正3年=1914年5月「風景」・原題『肉体の合奏の行進曲』)