人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

あるジャズ・ピアニストの肖像- 2

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(1より続く)
同じことが当時のルー・ドナルドソンクリフォード・ブラウンソニー・ロリンズジャッキー・マクリーンのアルバムにも言えて、なぜかエルモ・ホープだけ何時まで経ってもうだつが上がらなかった。ブラウンとドナルドソンがアート・ブレイキーにスカウトされた時はピアニストの座はホレス・シルヴァーだったし(シルヴァーなら仕方ない)、ポール・チェンバースフィリー・ジョー・ジョーンズという最強のベース&ドラムス・コンビが後のテナー・サックスの巨匠ジョン・コルトレーンと共にマイルス・デイビスに抜擢された時もピアニストは器用なレッド・ガーランドだった(ホープは作曲の才はビ・バップ5大ピアニストでも上位だったが-写真上-サイドのプレイの不器用さは否めなかった)。
前回ご紹介した「インフォーマル・ジャズ」にはコルトレーン脱退後にテナーに採用されたハンク・モブレーも参加している。ジャズの世界は狭い。それでもホープには仕事の口がなかった。しかもバド・パウエルセロニアス・モンクレニー・トリスターノのように一枚看板を貼れるピアニストではない。バドはエルモの幼馴染みだったが、仕事を回しあうにはどちらも個性が強すぎた。
そして仕事はないが顔は広いエルモに本職以外のアルバイトのお声がかかった。マフィアからだ。麻薬の小売り商、いわゆる売人である。マイルス晩年の自伝にもエルモの客だった話が出てくる。ただしマイルスはメジャーのレコード会社契約を機にドラッグを断つ。サイドマンはちゃんと仕事をしている限り黙認。
ただしマイルスもそう考えた通り、売人を新規に雇うバンドやバーはない。かえって本職を犠牲にする破目になってしまった。
そうするうちにホープは逮捕され、ニューヨーク追放を条件に保釈されてロスアンジェルスに行った。ニューヨークのジャズマンたちは困ったそうだ。
ロスでも仕事にありつけず、ニューヨークで今度は刑期をこなす。出所して録音したのが63年の「サウンズ・フロム・ライカーズ・アイランド」で麻薬刑務所島で一緒だったフィリー・ジョーやテナーのジョン・ギルモアと共演している。その後64年に2枚の名作「ハイ・ホープ」「ヒアズ・ホープ」をチェンバース&フィリー・ジョーと、66年にフィリー・ジョーらと最後の録音をする。翌年44歳の若さで死去。沁みます、この人は。