人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

「罐詰同棲又は陷穽への逃走」

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タイトルから既に悪意が感じられる。詩人・鈴木志郎康(1935-・東京生れ)は当時NHK地方局勤務のカメラマン。これは処女詩集「新生都市」1963に続く第二詩集(1967)。この詩集の出現は吉岡実の第三詩集「僧侶」1958以来の衝撃を現代詩の世界にもたらした。吉岡詩集同様異口同音に「凄く面白い。お手上げ」とだれもが唸った。
残念ながら「凄く面白い」作品は長くて紹介できないが、この詩集でもおとなしい部類の次の作品はどうか。末尾6行は現代詩の常識をひっくり返した。

『月』

始め光のない所で
私に向って来た
女の尻は片側から光を受けて
二重の月は行ってしまうのか
私は女の腰の中で死にたかった
何度か
私は自分を見分けることもできない闇の中の
[恐怖の中に]
というのは実は嘘で
明るい高い天井の下で
私は裸体の少女が鏡の前で手淫した
血が頭に登って私は美しかった
他人に見られない法悦の中の
[恐怖の中に]
私は死ぬのか
私の乳房は立派に立っていた
立っている二つの男根
手がのびた
私は何を探しているのか
私は求めているのか
裸体の少女は地平線まで拡がる明室の中で
天井に登った鏡に映る逆転した自身に見入って手淫している
朱色の膣の中に
滑り込む指は実は私が
自分も見分けのつかない闇の中に
私は死ぬのか
少女がまるで受胎したように叫ぶのだった
[叫び声があった]
私は人妻が手淫していた
私は老婆が手淫していた
私は女性重労働者が手淫していた
私は人妻が手淫していた
私は牛乳びんが手淫していた
私は時計が手淫していた
(前記詩集より)

これでもおとなしい部類なのだ。この詩集では「処女キキ」「処女プアプア」各連作が名高い。前者から『私小説的処女キキの得意なお遊び』の冒頭を。

いやな感じの鏡の中の正午の私の背後から黄色いキキがやって
くる
するともう詩はだめだ、つまらない、なってない
キキの登場がテーマならもういうことがなかろう
(註1・キキは危機ではない。彼女は学校にきちんと通っているところをよく見られた。六月と十月には衣替えをした。彼女の将来ははっきりしており、結婚式があって、家庭があり、性交がある)
(前記詩集より)