自転車に猫が載っている。運転は出来ないだろうから「載って」だ。これはフランスの70年代バンド「エトロン・フー・ルルーブラン」訳すと「狂気の白い狼」というふざけた猟奇的グループのファースト・アルバムのジャケットで、筆者はこういうジャケットが好きなのだった(でもエトロン・フーの音楽は好みじゃない)。…今日はイタリアン・ロックの記事を2本書いた。マニアックにならないように、適度に過不足なく、と思って書くとあんなものになる。脱力感に襲われる。たぶん脳の5パーセントほどしか使っていないのではないか。消費税相当分の思考しか費やさない作文。でも仕方がない。先週からどんどん鬱に向かっているのがわかる。それでも記事を書けるのが携帯電話の便利なところであり、筆者の作文根性のしぶといところだ。
事実筆者も体験しているが、本物の鬱はまったく非生産的な状態に陥るからこそ鬱なので、鬱状態で筆を執るなどあり得ないというか、定義の矛盾でしかない。軽鬱への回復がなければ筆など執れない。いま筆者に筆記具を持たせてもなにも書けないと思う。
指摘されてはいないことだが(精神医学にはそんなことがいっぱいある)、鬱で不可能になるのは筆記作業であって、躁と異なり思考の乱れはないから、よほどの重鬱で意欲が失われなければパソコンや携帯電話による文書の作成はできる(場合もある)のではないか。鬱の状態で筆記するとひどいものだ。文字はくしゃくしゃに乱れ、ほんの数行も続けられない。躁の場合は爆発的になり、支離滅裂(「支離滅裂」とは本来統合失調症の病相を示す造語)な状態に近づく。筆記の困難を軽減すれば、ある程度の鬱なら作文はできる、ということだろう。
一昨日(月曜)は診察日だった。寛解と軽鬱の間から、今はだんだん鬱が強くなっているようです。引きこもりは相変わらずで、あまり映画を見たりする気も起りません。
「今はそれでいいんだよ」と主治医。「寛解にはそういう意味もあるんだから。自然な防衛本能というか、無理なことを避けて安定した状態を保ちたい、というのも寛解だと考えていいんだよ。引きこもりにも意味があるんだから。季節の変わり目でもあるし、まだ体も心も休みたいと欲しているんだよ。のんびりしましょう」
そうか、これも寛解の一種なのか。長引くんだな、この病気は。