人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(6)老舗で現役ニュー・トロルス

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オザンナに似ている。しかもデビューも活動期間もニュー・トロルスの方が長い(分裂期間もあったがニュー・トロルス名義の活動は続いていた)。デビュー・アルバムが1968年だから来年で45年になるのだ。一昨年の秋にはオザンナと共に来日公演を行った。日本では宝石店チェーンのテレビCM、サッカー番組のテーマ曲に使われて意外なところで浸透している。
だがユーロ・ロックの愛好家の間では人気はオザンナに水を開ける。全盛期の数作はオザンナに匹敵するが、それ以外の期間は普通のカンツォーネ系ポップスで、それでいて演奏・アレンジ力は抜群。早い話が器用貧乏というか、オザンナ・ファミリーのような殺気に欠ける。別に音楽すべてが殺気が感じられなくてもいいのだが、全盛期トロルスやオザンナはじめイタリアのプログ・ロックは殺気が命というようなところがあるのだ。
逆に言えばその殺気の欠如がPFMやバンコよりポップス路線を可能にした、ともいえる。アレアなどリーダーの逝去がなくてもポップスに転向した(できた)とは思えない。こういうところがますますトロルスの株を下げる。難しいものだ。

ただし68年のデビュー作・70年の第二作からニュー・トロルスは流行のビート・グループから一歩進んだことをやっていて、それがいわゆるカンツォーネとロックの融合だった。そして映画音楽界の巨匠ルイス・エンリケス・バカロフとの共演盤という話が舞い込んでくる。それが「コンチェルト・グロッソ」1971(画像1)で本格的な出世作となり、バカロフがオザンナと「ミラノ・カリブロ9」1972、RDMと「汚染された世界」1973を作るきっかけとなった。
勢いついたトロルスはライヴとスタジオの2枚組「サーチング・フォー・ニュー・ランド」1972に続き決定盤「UT」(画像2)を同年にリリース。ところがトロルスはギターのニコ・デ・パーロ、キーボードのヴィットリオ・ディ・スカルツィの双頭バンドだったのだが、ニコが仕切った「UT」の成功でヴィットリオ以外の全員を連れてニコが脱退してしまう。そしてイビス「サン・シュプリーム」1974(画像3)などを発表するが、トロルスの暖簾を守ったヴィットリオの「アトミック・システム」1973の方が格段に出来は良く、和解したメンバーたちは「コンチェルト・グロッソ2」1976年で再出発したのだった。