人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

フェデリコ・フェリーニ「8 1/2 」

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今回もフェデリコ・フェリーニ8 1/2」1963(画像1)の続き。1回でまとめるつもりだったが、あらすじ(らしきもの)をなんとか各種データベースから作り上げ、フェリーニのキャリアを紹介し、やっと作品論的な感想文に入ろうとしたら制限文字数だった。しかし感想文ほど乗り気にならないものはない。筆者自身が関心があるのは感想ではなくデータで、感想はひと言、捨てぜりふでいいという考えだからだ。

前回の終りで「架空の自伝的設定がこの映画のトリック」「実は理詰めで出来ている」というのが筆者としては捨てぜりふで、後は放り投げるほうが粋だと思うが、この作品のリクエストをくださったかたが「感想をいっぱい入れて」との要望なのだった。ならば感想もなくはない。たとえば前回のあらすじ、各種データベースから総合したものだから筆者の主観は入っていないが、実は大嘘なのです。なぜか?他に書きようがないからです。

筆者がこの映画を知ったのは丸谷才一のエッセイ集「遊び時間」で、「戦艦ポチョムキン」と「市民ケーン」から映画の古典性を考察し、20世紀のモダニズム文学になぞらえて「去年マリエンバートで」はプルースト、「8 1/2」はジョイスと講釈していた。「そういうものかな」とどの映画も文学少女とデートのついでに見に行ったものだ。
今ならはっきり言えるが丸谷説は文学者ならではの珍説。「去年マリエンバートで」も誤解がまかり通っている名作だが、「8 1/2」もずばり元ネタがある。アメリカ映画「虹を掴む男」1947のリメイクなのだ。

○虹を掴む男 わが国では初めてのダニー・ケイ主演のミュージカル喜劇で、ノーマン・マクロードが色彩映画として監督。空想好きの男が見るもの聞くものに豊かな空想の世界を描くという、華やかな色と踊りと音楽の溢れるような映画である。(田中純一郎「日本映画発達史」)

「虹を掴む男」はジェイムズ・サーバーの短篇小説(雑誌「ニューヨーカー」1939)の映画化。うだつのあがらない中年男が妻の買い物につきあいながら戦場、天才外科医、法廷、無法者と脈絡のない空想にふける、翻訳で10ページの皮肉な作品。これをアレンジし、現実と空想との接点に工夫を加えたものが「8 1/2」で、自伝的設定はトリックというのはその意味。そして「8 1/2」影響下の作品には…ちょうど紙幅が尽きた。