人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

病理と表現活動

昨日の記事では「明日に続く」と書き、実際半分ほど「精神疾患と表現能力」という題目で書き進めたが、個人差はともかく精神疾患の種類や程度によって異なることに触れないわけにはいかず、そうなるとこれも精神障害者に上下を設けることに繋がりかねないというタブーがある。筆者自身の知識や見聞、経験に限定してと断ったとしても偏見や差別を助長しかねないという微妙さがついて回る。専門家でなく素人、しかも精神疾患の当事者(その意味では専門家以上に専門家だが)がそれを書く、ということはバイアスをかけて捉えられる恐れが大いにある。昨日触れた内緒コメントの件もそうだろう。

もともと精神疾患の人間は社会的発言権が奪われていた。ゲーテやルソー、スウィフトやサドなどは特殊な条件に恵まれた(または災いされた)例にすぎない。平民階級の精神障害者による表現活動は歴史的にはごく最近のことで、ゴッホアルトー辻潤など同時代には限られた理解者しか持たなかった。やはり精神障害者の詩人で辻の盟友だった高橋新吉の詩集の表題のように、それらは気違いの「戯言集」としか取られなかった。

明らかに病的な状態を反映した表現物は、病者・健常者問わず確かにある。病的だからこそ鋭い洞察力を発揮している場合もしばしばある。だがそれが普遍性を備えているかというと話はややこしい。健常者が必ずしも普遍的な価値観の下で判断力を備えているとは言えず、ならば普遍性とは何か、という論議に迷い込むのは目に見えている。

ただし病者の場合は病者であるという条件を自覚せざるを得ないから、普遍性への意志は健常者よりも強く働く。この場合の普遍性とは根源性への指向(ラディカリズム)と言ってよく、多くは現実批判を伴うから反社会的な思想傾向と見倣されることが起きる。これも事情は微妙で、反社会的な傾向から現実と乖離して病者となる例も想像できるだろう。
だとすれば病者とは何を指すのか。簡単に言えば社会的生活に支障をきたすほど問題を抱えた状態をそう呼ぶ。すると普遍性を健康な社会性とすれば、病者は普遍性への到達は不可能ということになる。

そうした前提から、病者による表現は一種の境界線上(マージナル)の人間による珍品としてあしらわれてきた。本当の病理ではなく、いわゆる佯狂。本題の前にこれだけの前置きが必要なのだ。