人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

2007年9月13日(独房まで)

2007年9月13日、ぼくは6日の公判に継ぐ二度目の公判で懲役3か月・執行猶予4年の判決を受けて横浜拘置所から釈放された(以前「懲役2年」と誤記したかもしれない。実際は3か月だ)。5月23日~9月13日まで114日間もぶちこんでおいて、いまさら懲役3か月・執行猶予4年(これは罪状の下限にあたり、これ以下は無罪しかない)もない。

ぼく程度の事件(!)なら、通常は起訴が決定してから逮捕され、立件されて裁判になるまでは2~3か月なのだが、ぼくは罪状も確定していない段階で参考人として拘置され、獄中で起訴が捏造され、立件された頃には盆休みで裁判が遅れた。3か月と20日間も未決囚監に監禁されていたのは、起訴・立件のための罪状も試行期間だったからだ。その年、この県ではDV防止条令を新条令としてキャンペーン中だった。いわばぼくはノルマ、またはモデルケースで、裁判など形式的なものにすぎなかった。仕込みは念入りに、有罪は確実にする方向で司法の流れは進んだ。

ぼくは6日の裁判後に独居房に移室させてもらった。その前には12畳に男10人の雑居房を二か所移った。時計はなく、天井は男三人が肩車しても届かない。
最初の部屋は密輸と窃盗団の部屋で、陰湿に嫌がらせをしてきた。仲間とつるんでいると強がるが、一人では何もできないようなやつら。いじめのグループを組み得意がっているような連中だ。
そこでぼくは刑務官に頼んだ。移室は滅多にあることではないらしく、運動の時間に他の部屋の人たちからも心配された。
移った部屋は麻薬犯、ただしバイヤーではなく常習者の部屋だった。前の部屋は騒がしかったのに今度は極端に無口な人たちだった。ぼくもしばらくは麻薬犯と思われていた。一匹狼の群れ、という感じで居心地は悪くなかった。

だが、おそらく次回で判決が決まり、執行猶予つきの釈放を控えているとなると一人でじっくり生活計画を立てる必要を感じた。手錠と腰縄をかけられて覆面バスで裁判所から戻ると、刑務官に独居房移室を頼んだ(同室の人たちには「お世話になりました」と頭を下げてきた)。
だが独居房のフロアに着くと、誰もが「独居だけは嫌だよな」と言っていた理由がわかった。40部屋以上の四畳半が一列に並んでいるのに物音ひとつしない。五階建ての五階だが外界から入ってくる物音もない。だがもう後戻りはできないのだ。