(後)小津安二郎『父ありき』(松竹1942)後編
『父ありき』(全)
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小津安二郎監督作品から一作を選ぶなら、とアンケートをとれば一般的には『東京物語』1位、『晩春』2位、ちょっと考えて『麦秋』3位というところでしょうが、同等かそれ以上に重視されるべき作品が戦中の『一人息子』『淑女は何を忘れたか』徴用を挟んだ『戸田家の兄弟』、そして再度の出征前に撮られた最後の作品『父ありき』になると思います。初のトーキー作品で通算35作目な『一人息子』からのトーキー4作で、小津はそれまでのサイレント作品で扱ってきたテーマを総決算した観があり(『一人息子』で不況もの、『淑女は~』でアメリカ映画風コメディ)、さらにこれまでのどの作品よりも規模の大きい一族の群像劇(『戸田家~』)を成功させ、さらに『生れてはみたけれど』や『出来ごころ』『浮草物語』では必ずしも中心テーマにならなかった父と息子の愛情を完全に中心に据えて描き切ったのが通算38作目になる『父ありき』でした。この充実したフィルモグラフィーには、戦時下の並々ならぬ覚悟が感じられてなりません。
小津の畏敬していた3歳上の伊丹万作監督は逝去は戦後1946年ですが戦時下の闘病生活が続いて『巨人傳』1938が遺作になりましたし、小津を敬愛していた6歳下の山中貞雄監督は『人情紙風船』1937を遺作に1938年に戦死します。伊丹万作は遺作が38歳で享年46歳、山中貞雄は遺作が28歳で享年29歳です。『父ありき』は小津38歳の作品でした。
小津の最初の徴用は演習召集で、監督昇進の1927年9月~10月に20日間ほど入営しています。本格的な徴用は1937年9月~1939年7月で、この間1938年7月に山中貞雄の戦死があり、1939年春には志賀直哉の『暗夜行路』完結編を読んで何年もないほどの感動を受けています。1938年6月からの徴用は軍報道部映画班員としてシンガポールに召集されますが、戦局の悪化で敗戦までまったく軍務はなく、敗戦後は民間人収容所でゴム林での労働に従事。ようやく引き上げがかなって帰国したのは1946年2月でした。39歳~42歳の働き盛りを戦地で過ごしたわけですが、戦局悪化の結果かえって安全になっていた地域に配置されたのは皮肉なことでした。仮に戦中作品が遺作になっていた場合、文学者では時局迎合的な作品が残されてしまった気の毒な例が多いのですが、言論統制が行われて時局的に好ましいとされた脚本しか映画化が許されない、というのが時局も太平洋戦争まで進んだ日本の映画情勢でした。
しかし、ただでさえ制作本数が減少する一方なのに露骨な戦意高揚映画が観客に歓迎されるわけはない。小津の『戸田家の兄弟』は巧みに時局臭を取り入れながら華のある娯楽映画になりましたし、黒澤明は『姿三四郎』や『一番美しく』で時局臭の中にも爽やかな青春映画を作り上げ、『虎の尾を踏む男たち』などは敗戦末期に制作された時代劇ながら戦後の占領軍検閲にも易々と通過して公開されたものです。無惨なのは溝口健二『宮本武蔵』のような作品で、溝口は当時松竹所属でしたから出征していなかったら小津に回ってきた可能性もある企画ですが、1944年12月28日公開ですから正月映画ながら上映時間50分、『宮本武蔵』というタイトルの次に「討ちして止まん」と筆書きの字幕が出て、ワンシーン・ワンカットと言えば聞こえはいいですが俳優の演技を遠景から据えっぱなしのカメラで写しているだけ、という代物でした。映画は大きな経費のかかる事業ですから、いくらやる気がなくてもどんな映画もそれなりに工夫の跡が感じられるものですが、溝口版『宮本武蔵』に限って言えば作品とすら呼べないもので、こういうのがあるのが溝口の恐ろしいところです。
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親子の愛情を描いたものでは、母と息子の組み合わせでは『一人息子』がすでにありました。『父ありき』では父と息子になるのはタイトルからも予想がつきます。ただし内容は大きく異なります。単に母親が父親に変わっただけではなく、『一人息子』が母子家庭の行く末を描いて社会的な視野を持ったものだったのに対し、『父ありき』でも社会的な視点はあるけれど母子家庭が弱者としての立場にさらされているようにはここで父子は描かれてはいないので、小津の狙いは理想的な父親像を息子の視点から描いてみせることでした。『一人息子』の暗さと『父ありき』の暖かさの違いはそこに由来します。『父ありき』が理想的父親像を描いた作品になったのは志賀直哉の影響もあるかもしれません。小津安二郎の世代には、志賀直哉は中でも突出した存在ですが、白樺派の文学者たちは人生肯定的な思想の代弁者でした。
また、小津の描いた白樺派的・調和的な理想的父親像は運良く戦時下の日本の国策とも調和するものであり、また敗戦後に占領軍により再検閲を受けた際にも穏健な人文主義的思想と見逃されるようなものだったのです。国家への奉仕参翼的な行き過ぎはなかったが国民総動員的な時勢には同伴していた、だが戦後民主主義からもこの映画が描いた人間像には根本的には批判はされない普遍性、公平さがありました。
それを「社会にとって有用な仕事に持てる力を尽くす」こと、と言ってしまうとあんまりですが、『父ありき』で父から息子へ渡されるバトンはそういうメッセージです。これをいかに安っぽくなく、生きた人間同士の関わりを描きながら一本の映画として見ごたえのある作品にしたか、『父ありき』での小津の手腕は名人芸以上の訴求力を持って訴えかけてくるのです。
蓮實重彦氏の『監督 小津安二郎』は政治的視点を意図的に避けていますが、佐藤忠男氏の『小津安二郎の芸術』は戦時下に少年時代を送った論者だけに『父ありき』の主題と国策の並立に複雑な感慨を指摘せざるを得ません。一方、佐藤氏より10歳近く年長(すなわち青年時代を敵国アメリカ市民として送った)ドナルド・リチー氏がこの作品に『一人息子』を上回る芸術的達成を認め、小津の主題は国家公認のものだったがプロットのために人物造形を犠牲にしたり、政治宣伝のために人物造形を歪めたりは決してしなかった、むしろ小津の主題の扱い方が非常に人間的だったので当局の姿勢の方が問題とされるべきだろう、と擁護しています。
しかし『父ありき』が制作可能だったのも(昭和17年、4月1日公開)この年がぎりぎりの限度だったかもしれません。前作『戸田家の兄弟』の公開は昭和16年3月1日でした。小津の再度の徴用は翌年6月でしたし、『父ありき』は観客動員も良く、キネマ旬報年間ベストテン2位でしたが日本映画の古典となるだろう、と予言的評価も獲得しました(その通りになりました)。時間的には再度の徴用までにもう一作が望めたはずです。ですが次作の構想はまとまらず、小津は原作者も兼ねる監督ですから『父ありき』が国家検閲を通るぎりぎりの構想だったのかもしれません。それを本人も承知していたから、制作本数低下にかこつけて急がなかったのではないか。その場合『父ありき』は小津にとって遺作になる覚悟で制作されたのではないかとすら思われるのです。