人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年3月11日~13日/溝口健二(1898-1956)のトーキー作品(11)最終回

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 昭和31年5月に単球性白血病で入院(本人告知はされず)、8月に逝去するまで晩年2年の溝口健二の栄誉は高く表彰されたものでした。『近松物語』は東京映画記者会ブルーリボン賞(監督賞)を受賞し、昭和31年は1月から大映東京撮影所で香港のショウ・ブラザースとの日華合作映画『楊貴妃』を大映上半期の総力結集大作として5月に発表します。同作は溝口初の、日本では大映が独自に導入したイーストマンカラー作品になりました。4月には溝口個人の業績として『近松物語』が文部省より芸術選奨の賞状を受け、8月にはイギリスのエディンバラ映画祭で『雨月物語』がグランプリを受賞、9月には下半期の大映総力結集大作としてカラー作品第2弾『新・平家物語』が公開され年間興行収入第4位のヒット作になり同月大映取締役に就任、都民映画コンクールで『近松物語』が銀賞受賞。11月には映画監督初の紫綬褒章を受賞し、数年来溝口と小津の名前が芸術院会員の候補に上がっていたこともあり、映画界全体の栄誉として溝口は受賞を喜んだようです。次作の大映東京撮影所製作による監督第88作『赤線地帯』は昭和31年3月に公開され、同年の大映作品でも市川昆の『処刑の部屋』と競う大映ひさびさの特大ヒットになり、溝口は西鶴の『日本永代蔵』に材を採った次回作『大阪物語』の脚本を専属脚本家の依田義賢氏に準備させていましたが、その渦中の体調悪化と当時治療不可能だった難病の判明、急逝でした。病没4日後に政府より勲四等瑞宝章の贈与があり、その2日後に大映社葬によって葬儀が行われ、永田雅一大映社長の令によって墓碑の側面には「世界的大監督」と刻まれました。
 溝口としては3月公開の『赤線地帯』の成功もありましたし、秋公開に向けた次回作への意欲も持ったままの3か月間の闘病で、依田氏を含む大映身辺者には担当医から病名と余命告知がされていたので病床を見舞うのは辛いことでしたと依田氏は回想録『溝口健二の人と芸術』'64に記しています。依田氏は『楊貴妃』は取材と脚本執筆のみで東京の撮影には立ち会っておらず、京都撮影の『新・平家物語』には1度急に呼ばれただけで、この2作は大規模な企画の映画だったためにかえって機械的に製作されたようです。また作品の舞台と取材・撮影とも東京だったため依田氏は『赤線地帯』は辞退して(『夜の女たち』は評価は高かったものの、依田氏にとっては懲りごりした仕事だったそうです)次回作『大阪物語』の脚本にかかっていたため『赤線地帯』の裏話は依田氏の『溝口健二の人と芸術』にはありません。しかし『赤線地帯』こそは会社企画の大作2作後に溝口が再び自己のテーマに基づいて実らせた『近松物語』以来の傑作で、かつての記念碑的作品『浪華悲歌』『祇園の姉妹』の監督の新たな挑戦を示す大胆な跳躍を果たした新たな里程標であり、溝口の闘志が最晩年まで持続していたことを伝えて余りある意欲作だったのです。溝口は7歳の時に父が家業に失敗し、舞妓に出た姉によって支えられた家計で少年時代を送りました。紫綬褒章の授与を喜んでも次に取りかかった作品が吉原の娼婦たちを描いた『赤線地帯』だったのが溝口の強烈な自恣の証しでなければ他に何があるでしょうか。

●3月11日(日)
楊貴妃』(大映東京撮影所・邵氏父子=ショウ・ブラザース/大映'55)*87min(オリジナル98分), Eastmancolor; 昭和30年5月3日公開

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○製作・永田雅一/ラン・ラン・ショウ、脚本・依田義賢/川口松太郎/成沢昌茂/陶秦、撮影・杉山公平、音楽・早坂文雄、美術・水谷浩、助監督・増村保造
○あらすじ 妃を失って管絃に淋しさをまぎらわせていた玄宗皇帝(森雅之)は、安禄山(山村聡)のつれてきた楊家の娘大真(京マチ子)の美しさに打たれて貴妃の位を与え寵愛した。名誉欲と物欲の権化である従兄の楊国忠(小沢栄太郎)は宰相に出世し、三人の姉も奢りにみちた生活を送るようになった。しかし楊一族の悪政に対する国民の反感は次第に頂点に達してきた。安禄山は権力を手にしようと反乱を起す。都の長安は反乱軍の手におち、楊貴妃は自ら命を断つ。玄宗皇帝もその後を追うかの如くこの世を去った。溝口健二初の色彩映画である。
(津村秀夫『溝口健二というおのこ』長崎一編・溝口健二監督作品総リストより)

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 監督第86作。本作は製作実務は大映であるものの当時イギリス領だった香港の華僑のプロダクションであるショウ・ブラザースが原案・企画した作品で、大映としてはアジア市場と日本国内では唐時代の中国由来の異国情緒を狙ったカラー大作で二兎を追った日華合作映画で、単層式のイーストマンカラー・フィルムは多層式だったテクニカラー・フィルムの後発ですが高価につくテクニカラーの現像プロセスより安価につき、フィルム自体は褪色しやすい弱点がありましたが感度、自然な発色、デュープの容易さ、保存性、カラーテレビ普及以前のモノクロへの変換など総合的にはテクニカラーより優位で、フィルム時代の映画・テレビ撮影ではテクニカラーを淘汰し永く使われました。地上波のテレビ放映でよく褪色したカラー映画が放映されましたが、あれはテレビ放映用に16mmプリントにデュープし再編集された上に保存管理が良くなかった例で、きちんと保存されたイーストマンカラーのオリジナル・ネガフィルムからレストアされて新規マスターが起こされればどれほど鮮やかなものかを観るには本作は最高の見本です。溝口のカラー映画は本作と次作『新・平家物語』だけですが、カラー作品だけにテレビ放映頻度も高く、大映自体が製作を休止し倒産して徳間、角川と権利が転々としても社運を賭けた大作だけに公開当時から喧伝され、日本映画史に名高い作品なので最初テレビ放映で観た時にも古い映画でも鮮やかさは群を抜いたものでした。それだけは本作と次作『新・平家物語』の見所となっており、内容的には『楊貴妃』と『新・平家物語』はどちらがましかと論議の的にされているようなものです。『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』のどちらが優れるか、『元禄忠臣蔵』前篇と後篇ではどちらが上か(これは戦中作品であることも絡みますが)ではなくて、カラー作品2作の場合は低い評価が前提なのですから、まだしも本作は唐時代の中国が舞台の歴史劇で、溝口が例によって考証癖を発揮して依田氏ともども古美術品や文化史を調査し、玄宗皇帝の唐時代と言えば日本で言えば奈良時代ですからあらかじめ奈良時代の中国からの渡来文物を予習しておき、それから香港側で企画してきた原案を脚本化していったそうで、撮影前の意欲は相当あったようです。しかし史実では実際玄宗皇帝へ楊貴妃追放の直訴と謀叛が起こるほど楊貴妃の驕慢と浪費は唐の国政を傾かせるほど目に剰るものであり、また史実では楊貴妃玄宗皇帝の皇太子寿王の妃だったのを帝側近の高力士が見つけて宮中に入れたのですが、香港側の要望は一族の出世のために利用された可憐な悲劇の姫君楊貴妃像を望んだものでした。また山村聡演じる野心的な策謀家で最後は楊貴妃追放の先方に立つことで民意をつかみ権力を握る安禄山シルクロード経由から来たイラン人であったことも当時の唐の人種的な混交状態が生んだ叛逆の機運には重要なのですが、これを描くのも大作の歴史悲劇ロマンスにはふさわしくないと却下される。東京撮影所製作だったため撮影には京都在住の依田氏は同行していませんが、いつもは依田氏を撮影に呼び現場で脚本の改訂の案を求める溝口が強いて依田氏を同行させなかったのは、京都での脚本執筆進行と同時進行で大映東京撮影所でセット設営や衣装合わせなどプリプロダクションが進み、現場で変更の余地などない企画に膨れ上がっていたことに骨抜きの脚本ともども当初の意欲から会社企画の上半期大作と割り切ったものになっていたのでしょう。その割には山村聡に70回以上のテイクを要求する、撮影中突然宦官を演じる進藤英太郎に髭をつけると言い出して立ち会いの考証監修者とケンカする(「宦官に髭!?」と絶句されたそうです)、と相変わらずの調子もあったようです。
 本作の配収は1億5781万円で、9月公開の溝口の次回作『新・平家物語』の配収1億7303万円、この年の邦画配収ランキング第4位に次ぐ成功を収めました。歴史映画の大作なら溝口で間違いないと大映社長のプロデューサー永田雅一の見込みは興行収入では当たったのですが、『楊貴妃』『新・平家物語』の2作は仏作って魂入れずの喩えがぴったりくる作品です。豪奢な美術と見事な撮影、スター俳優たちの競演、見世物としてなら隙のない演出でカラー撮影を生かすためか長回しの間に短いカット割りを挟んでめりはりをつける工夫もコンテなど用意しない溝口にしてはめずらしく名手杉山カメラマンと打ち合わせて大ベテラン・カメラマンの意見を積極的に取り入れたのではないかと思われます。また審査員のジャン・コクトーが「カラー映画美の極致」と絶賛した衣笠貞之助カンヌ国際映画祭グランプリ受賞作かつアカデミー賞名誉賞(外国語映画賞)受賞作『地獄門』と較べても本作の映像美は衣笠の上を行くもので、衣笠は溝口より2歳年長の先輩ながら女方出身の美意識では溝口よりモダンなセンスがあり、サイレント時代からの監督でありながらトーキー以降の技法も効果的な構図、カット割りと現代映画のコツをいち早く会得した監督ですし、女優(!)出身だけあって自身で実演しながら演技指導し演出できる他の監督では真似のできない特技がありましたが、溝口の大づかみなロングの構図中心の悠然としたスケールのでかさに較べると映画がせせこましく、これは衣笠監督が凡手なのではなく溝口や、溝口に並ぶ監督としては小津安二郎のような監督が破格の映像文体を持っていたからなのですが、小津には『楊貴妃』のような企画は柄にもないから仮に松竹に出向を依頼できても小津が呼ばれることも小津が受けることもなかったでしょう。歴史映画の大作がこなせる大ベテラン監督という定評ができてしまったから溝口は『楊貴妃』『新・平家物語』を託されることになり、脚本段階でもっと身の入る内容になっていれば結果は大きく違ったかもしれません。しかし『楊貴妃』のシナリオ完成稿は溝口が自分のテーマを持ちこめるような作品ではないものになり、大映専務の川口松太郎が大嫌いな老残の玄宗皇帝の回想体の枠物語も香港側の提案となれば断りがたく、『楊貴妃』は年末年始のテレビの歴史ドラマ・スペシャル番組の雛型のような映像スケールばかりでかく中身の空疎とは言わずとも型どおりの、史実を単純化した悲劇メロドラマに終わる結果になりました。映画史家、田中純一郎氏の大著『日本映画発達史』'57-'76全5巻でも第4巻『史上最高の映画時代』で当時の大映の業績には詳細な紹介がされ、『楊貴妃』『新・平家物語』はその象徴的大作、ただし溝口作品としては標準とされながらも作品自体は特筆大書されています。どちらがまだましか、ということはどちらがよりつまらなかったかということで、映画監督としての名声がピークに達した'55年の2作がそういう専属映画会社の企画ものだったのは皮肉としか言えません。

●3月12日(月)
『新・平家物語』(大映京都撮影所/大映'55)*103min(オリジナル108分), Eastmancolor; 昭和30年9月21日公開

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○製作・永田雅一、原作・吉川英治、脚本・依田義賢/成沢昌茂/辻久一、撮影・宮川一夫、音楽・早坂文雄、美術・水谷浩
○あらすじ 保延三年(1137年)、朝廷が天皇権力と上皇権力に分かれた二権対立時代、西海の海賊征伐から凱旋した平忠盛(大矢市次郎)は武士をさげすむ公卿達に冷遇されたが、比叡山延暦寺と朝廷の間に起った紛争を解決したことにより昇殿をゆるされた。忠盛の子清盛(市川雷蔵)は武家の肩を持って謹慎させられたという公卿の藤原時信(石黒達也)の館で時信の娘時子(久我美子)と親しくなる。その後清盛は商人朱鼻の伴卜(進藤英太郎)から実の父が忠盛ではなく、白河上皇(柳永二郎)で、母泰子(木暮実千代)から彼女が白拍子の頃白河上皇が度々通われたこと、その後忠盛の妻として嫁いで月足らずで生れた子であると知らされて驚く。やがて清盛は藤原時忠(林成年)、木工助家貞(菅井一郎)の子平六(河野秋武)と叡山の荒法師との争いにまき込まれ、神輿を持ち出し清盛邸を押しつぶそうと祇園に集まった二千の僧兵を相手にすることになった。そして荒法師の無法に対し青年清盛は敢然と戦いを挑んでいく。青年時代の清盛を主人公とした時代劇映画。
(津村秀夫『溝口健二というおのこ』長崎一編・溝口健二監督作品総リストより)

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 監督第87作。本作は大映'55年度上半期の大作『楊貴妃』に継ぐ同年下半期の大作として作られ、同名の吉川英治のベストセラー歴史小説の映画化三部作の第1作として公開されました。第2部、第3部は異なる監督による企画というのも当初から決まっており、翌'56年(昭和31年)1月に続編の『新・平家物語 義仲をめぐる三人の女』(衣笠貞之助監督作)、同年11月に3作目『新・平家物語 静と義経』(島耕二監督作)が公開されて三部作は完結しました。第2作と第3作の公開の間の8月に溝口が逝去したのは前書きの通りです。本作『新・平家物語』の配収は1億7303万円で'55年の邦画配収ランキング第4位と『楊貴妃』の配収1億5781万円を上回るヒットになったのも先に記しましたが、家庭用テレビの爆発的普及はテレビ中継の視聴のため東京オリンピックの開催で一気に購入家庭が広がった'64年(昭和39年)で、'63年をピークに'64年からは映画観客動員数は下降の一途をたどることになります。テレビ買ってようと駄々をこねる幼い兄弟を主人公にした小津安二郎ホームドラマ『お早よう』が'59年(昭和34年)公開ですから'55年は日本映画盛況時代の爛熟期で、歴史映画のカラー大作というだけでも興行価値は絶大でした。市川雷蔵(1931-1969)は大映長谷川一夫の後継者として総力を上げて売り出したスター俳優ですし、雷蔵主演の名作は'50年代末から続出し勝新太郎とともに大映の2大看板スターになりますが、前'54年スクリーン・デビューした市川雷蔵がようやく注目を集めた出世作が本作『新・平家物語』で、それだけの意義はある作品になったということです。本作のポスターやスチール写真、DVDジャケットをご覧ください。眉毛がすごいことになっていますがコメディではないのです。木暮実千代が母親役、久我美子が恋人役で出演していますが主演女優級のキャスティングのヒロインながらちっとも印象に残りません。依田氏も本作を溝口が気の乗らない映画だったと見ており、今回もエキストラ大量増員の大作ですから現場でシナリオの改変などできず京都撮影ですが依田氏は立ち会いを任じられませんでしたが、清盛が激昂して御輿に矢を射る場面で急遽呼ばれてタクシーで駆けつけると、大勢のエキストラを待機させたまま溝口がこの場面は納得いかん、代案はないかと依田氏に迫る。依田氏はドラマの展開上不可欠の場面だからと説得し溝口は渋々撮ったそうですが、依田氏は不得意なアクション場面の撮影に自信がなかった溝口が渋々撮影するための口実ではないかと解釈しています。そうした場面は清盛が実は貴種の生まれだったというドラマの推移にも現れていたはずで、吉川英治のベストセラー小説でなくて川口松太郎の原案だったりしたらまたしても「あなたはこれでも本気ですか」とゴネたのではないでしょうか。順撮りにこだわる溝口が『楊貴妃』では京マチ子のスケジュール上楊貴妃出演部分だけ先に抜き撮りせざるを得なくなり、永田社長と川口専務は京マチ子の方を何とかしないと依田氏に打ち明け覚悟の上で溝口に事情を話したら「いいですよ」とあっさり抜き撮り了解されて拍子抜けしたそうですが、いつもなら決して譲らない妥協を『楊貴妃』『新・平家物語』でしたのは『雨月物語』から『近松物語』までで大映には好きなように撮れたから、カラー大作2本は会社企画と割り切ったとしか思えません。そうでなければ三部作の第1篇だけ担当などというサイレント時代のような企画は受けなかったでしょうし、配収で当たればよしと溝口なりに娯楽大作に徹したのでしょう。
 頓着しなければ映像はゴージャスで、本作は宮川一夫カメラマンのカラー撮影で長回しとカット割りの配分は『楊貴妃』より練れており、海外市場でも歓迎された時代映画大作になりました。また、音楽家早坂文雄(1914-1955)とはこれが最後の作品になりました。成瀬、黒澤映画でも素晴らしい仕事を残した早坂氏はこの年の10月、依頼を受けていた黒澤明の『生きものの記録』製作途中で肺疾患が重篤になり亡くなります。『醉ひどれ天使』『羅生門』などの黒澤の傑作も早坂氏の音楽で、年が近い分黒澤と早坂氏は公私ともに親交が深く、打撃を受けた黒澤は1週間『生きものの記録』を製作中断したそうです。『雪夫人絵図』以来、売れっ子で病弱な早坂氏とは『西鶴一代女』『祇園囃子』『噂の女』の3作を除いて出来る限り音楽を頼んでいましたが、『噂の女』でも微妙だった黛敏郎を起用したのが『赤線地帯』では否の方が多い賛否両論を呼ぶことになります。『雨月物語』『山椒大夫』『近松物語』と後になるほど音楽の比重が高くなっていましたが『楊貴妃』『新・平家物語』では音楽は適度に抑えられていて、早坂氏が抑えたのか元々あまり用意できなかったのか、依田氏も溝口は音楽は弱かったと記していますが(『雨月物語』で能楽にこだわったのが珍しい例外的主張だったそうです)、カラー作品2作では音楽が控えめなのは取り柄になっています。早坂氏の音楽は優れたものですが多用してしまうと映像と相殺しあってしまうのが『山椒大夫』『近松物語』ではやや気になりました。溝口のセンスは頼りにならないので、たぶん早坂氏があまり多く用意できなかったのがカラー2作品では吉と出ました。ともあれ本作は三部作の第1篇なので青年平清盛が蜂起する場面で終わっています。衣笠監督作、島耕二監督作ですから歴史スペクタクル映画としては溝口の本作よりめりはりのついた娯楽大作になっているにしても、全然第2篇、完結篇を観たいという気にはなりません。市川雷蔵の力演は面白いのですが、後年の眠狂四郎シリーズや『炎上』'58、『斬る』'62、『雪之丞変化』'63、『剣』'64、『ある殺し屋』'67、『ある殺し屋の鍵』'67などの狂気すら感じさせる貫禄を予感させるまでにはいたらず、また本作自体が共感を誘う平清盛像ではないので『新・平家物語』続篇を観るよりは別の作品で市川雷蔵を観る方がいいや、と思わせてしまうのが娯楽映画としては難点になっています。いっそ『若き日の清盛』というタイトルの映画だったら良かったのではないか、いやそれでは地味そうで駄目か。ヒットこそすれ、観客の満足度は低かったのではないかと思われるのです。

●3月13日(火)
『赤線地帯』(大映東京撮影所/大映'56)*82min(オリジナル94分), B/W; 昭和31年3月18日公開 : https://youtu.be/jCkOIMsN48E

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○製作・永田雅一、原作・芝木好子、脚本・成沢昌茂、撮影・宮川一夫、音楽・黛敏郎、美術・水谷浩、助監督・増村保造
○あらすじ 国会に売春禁止法が上程されている頃、主人田倉(進藤英太郎)とその妻の女将辰子(沢村貞子)が経営する東京は旧吉原の特飲店「夢の里」には一人息子の教育費を稼ぐゆめ子(三益愛子)、汚職で入獄した父の保釈金のために働くやすみ(若尾文子)、失業の夫をもつ通い娼婦のハナエ(木暮実千代)、元黒人のオンリーだったミッキー(京マチ子)らが働いていた。やがてゆめ子は息子に裏切られ、親子の縁をきられ絶望の末発狂、やすみはなじみ客の問屋に首をしめられ死に損なう。売春禁止法は四度目の流産となった。より江(町田博子)はなじみ客と結婚したが夫婦生活が破綻し舞い戻ってきた。やすみは貸しぶとん屋を買いとり女主人となって「夢の里」を出て行った。新入りのしず子(川上康子)が恐るおそる客に声をかけるまでになっていた。原作は芝木好子の「洲崎の女」。吉原の売春宿に働く女達の生態をリアルな作風で捉えた溝口健二最後の作品である。
(津村秀夫『溝口健二というおのこ』長崎一編・溝口健二監督作品総リストより)

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 監督第88作にして遺作。溝口自身は体調を崩し入院する2か月前の公開で、秋に公開予定の次作『大阪物語』の脚本を依田氏に進めさせ、初夏から夏中には撮影完成させるつもりでしたから遺作の予感はまったくなかったでしょう。入院が長引いて夏撮影・秋公開は無理とわかっても退院後の復帰を期していたので、そういう意味では溝口には晩年というものはなく、現役監督のまま急逝したと言えます。依田氏自身は吉原取材・東京撮影所製作の『赤線地帯』への辞退を悔いるような記述は回想録にはない上に慎み深い氏は本作へのコメントもないので、溝口文献最重要の1冊『溝口健二の人と芸術』'64はそれだけが本当に惜しまれます。'36年の『浪家悲歌』『祇園の姉妹』から'55年の『楊貴妃』『新・平家物語』、'56年度2作目になるはずだった『大阪物語』まで20年間、製作会社を移っても一人の映画監督だけに一人の専属脚本家がついていた例はそうそうないはずです。小津安二郎野田高梧のパートナーシップも長く、野田氏は小津の監督デビュー作からの脚本家でしたがもっと対等な友人で共作脚本家だった分断続的で、溝口と依田氏のように主人と秘書(または執事)そのものの関係を20年も続けたのとは違います。そういう依田氏だけに『溝口健二の人と芸術』は一字一句重みを持つもので、依田氏が脚本を担当しなかった作品についてもそれまでは言及があるのに『赤線地帯』にだけはそれがない。これは批判になるから書かなかったのではなく、関わらなかったから言及はしないという依田氏の慎みだと思います。それと正反対なのが依田義賢(1909-1991)氏と同世代の戦前からの映画批評家、津村秀夫(1907-1985)氏の回想録『溝口健二というおのこ』'58(増補版'77)で、全編に溝口を持ち上げては揶揄する不快な記述が目立ちます。津村氏の回想録を当てにしなかったのはそうした理由からですが、『赤線地帯』撮影現場見学と製作時の関係者からの伝聞を含んでおり、吉原の廓を再現したセットに入った津村氏は「明治ものが得意な溝口には吉原の現代ものは苦手なのではないかと、原色の激しいセットを見て思った」と記しており、溝口が『浪華悲歌』『祇園の姉妹』から『夜の女たち』『祇園囃子』まで数々の現代ものの傑作を作ってきたことを忘れている上に純粋な明治ものの傑作はサイレント時代はわかりませんし、津村氏はサイレント時代の明治ものの傑作を指しているのかもしれませんが、少なくともトーキー以降は現代ものの傑作より明治ものの傑作はずっと少ない。芸道三部作は名作『残菊物語』しかフィルムが現存していないのであとの2作はわかりませんが、トーキー後の『虞美人草』、戦後の明治もの『女優須磨子の恋』『わが恋は燃えぬ』(『女優須磨子~』は明治~大正ものですが)はいずれも持て余したような出来でしかなく、『赤線地帯』は言うまでもなくトーキーですし、B/W撮影で明快または微妙なコントラストを出すにはセットには強い原色が不可欠(壁を白く見せるには白いままよりもオレンジ色のスプレーで着色したりする)なのを一流映画批評家を自認する津村氏が知らないわけはなく、もし前2作に続くカラー映画の撮影と早とちりしていたとしても完成作はB/W映画なのですから、明治ものを引き合いに出すのも原色うんぬんも的外れです。そういう具合に津村氏の記述は大いに怪しく、直接津村氏が聞いたのでない出処不明の人づての噂話ばかりで撮影裏話もあてにならないのですが、本作についても若尾文子が数十回テイクを重ねてもOKが出ず「あんたより上手い女優連れてきて芝居させてそれを真似た方が早い!」と罵倒して若尾文子が女優辞めようと思ったとか、木暮実千代が率先して開く町田博子の寿退職の食事会で居並ぶ京マチ子三益愛子若尾文子ら5人に「こんな猿芝居で百万両取る気かね!」と暴言を吐いてその場で撮影中止にして帰ってしまったため女優たちは全員意気消沈したとか、それを溝口や俳優、スタッフたちを揶揄する調子で書いています。依田氏ならば必ず納得のいく記述があるので、若尾文子は群像劇の本作ではビリング2番目ながら一番現実的で逞しく成功するずる賢く抜け目ない女を生き生きと演じて『祇園囃子』のあどけなさが嘘のようですし、木暮実千代の所帯臭さは艶やかな『雪夫人絵図』『祇園囃子』とは別人のように貧乏くさい色気を発しており、京マチ子も『雨月物語』『楊貴妃』の超時代的な女性像とは打って変わったギャルぶりです。女優たちは全員見事な配役としか言いようがなく、古川緑波一座の舞台劇で母物役の名女優である三益愛子が息子に絶縁され発狂する中年娼婦役など大映専務川口松太郎夫人ならではのキャスティングで、これは津村氏が夫人から直々に聞いたようですが(本作の伝聞はほとんど川口夫人三益愛子からなのでしょう)、三益愛子は尊敬する溝口作品初出演なので張り切ったが撮影初日道を歩いていく後ろ姿だけのカットなのに何度演じてもOKが出ない。「あんたは僕の友人の女房ですが芝居は下手ですな」と言われる。我慢して自然に歩こうとしても駄目、すると溝口が「ここは道ですよ、板の上じゃないんですよ」と言う。ハッと三益愛子は気づいて、次のテイクでOKが出たそうですが、依田氏の回想録の読者であればそういう風に駄目出しをくり返して女優(俳優)に手慣れた演技ではなく考え抜いた演技に導くいつもの溝口の演技指導だとわかります。回りくどいやり方ですが、溝口はこうせよと指示するのではなく、それでいいんですか駄目ですと俳優自身が試行錯誤した上たどり着いた演技でないと納得しないので、それは脚本家の依田氏始めスタッフ全員が毎回溝口からさせられていた製作過程でした。
 それにしても本作の堂々としたみずみずしさはどうでしょうか。前年2作のカラー大作は好き放題に本作を撮るために大映に貸しを作っておいたと思えるほどです。戦後世代の川島雄三、『楊貴妃』と本作で助監督に就いた増村保造らの感覚と較べて何ら年輩を感じさせず、しかもこれまでの溝口のキャリアを1作に負った重みが見かけの軽やかさと何ら齟齬を来していません。58歳というとラングなら『外套と短剣』'46、ルノワールなら『黄金の馬車』'52、ホークスなら『紳士は金髪がお好き』'53、ヒッチコックなら『めまい』'57、ブニュエルなら『ナサリン』'58あたりを撮っていた年齢で、溝口と並ぶそうした巨匠たちの遺作となった作品は70歳を過ぎており自然と遺作になったものでした。溝口は早く亡くなりましたが本当に創作力の絶好調を維持したまま亡くなっており、前記の巨匠たちの遺作が功を成し遂げた思い残すことはない観があり、やはり60歳で早く亡くなった小津安二郎の遺作『秋刀魚の味』'62が溝口とさほど離れない早逝にもかかわらず思い残しのない境地を感じさせるものなのに対して、『赤線地帯』はまだまだ溝口が語り尽くせない怒りを抱えていたことの明確な意思表示です。社会に侮蔑された女たちの怒りと悔み、悲しみに同化した時こそ溝口の映画は躍動するので、本作で「国に代わって社会事業をやっとるんや」とうそぶく進藤英太郎の廓の主人も女将の沢村貞子も、客を手玉にとり同僚の娼婦たちに金貸しもし、貢がせていた得意客に殺されかかったりした挙げ句に夜逃げした馴染み客の貸し布団屋の女主人に収まる廓のNo.1指名嬢の若尾文子も、水揚げされて喜んで寿退職したら農村の奴婢にされてこき使われて逃げ帰ってきた町田博子もこれから初店に立つ処女の川上康子も、もちろん贔屓客の額をぴしゃぴしゃ叩いて笑いながら気が狂う三益愛子も、きょとんとする京マチ子も慌てて医者を呼ぶ木暮実千代も、防防売法が成立施行されれば干乾しになるわけで、このコメディは誰も幸運をつかみません。娼婦たちへの保障も考慮しない防売法はいったいこの女たちを救えるのか、という本質的な問題への溝口自身の怒りをいかに観客に届けるかが本作のコメディ仕立ての工夫であり、『噂の女』で母娘関係を本筋にしたため上手くいかなかった悲惨なコメディが本作では群像劇にドラマを振り分けたために渋滞なく描かれ、あっけらかんとした味わいが徐々に出口なしの閉塞感に変化していく微妙な機微をとらえています。本作が観客に迎えられた大ヒット作になりながらも批評家たちに年間ベストテンにすら選ばれなかったのは、防売法への疑問がジャーナリズムではタブーだったことを明かしています。コンテを決めない溝口の手法は長回しの中で異なる構図に移動するために、記憶の中で実際の映像とはカットの長さ、構図とも変容することが多く、『ちはやふる』のような近年の映画のようにアニメーションの技法から実写映画に逆流した、ストップモーション、スローモーションの多用で離乳食のようなべたべたな低年齢化した表現を用いずとも、観客への心理的な効果からストップモーションやスローモーションと同様な印象を自然発生的に与えます。通俗的な詩的表現の映画タイトルで観客を釣ることもありません。一見赤裸々な本作も映画の品格への節度があるので、62年を経た2018年に観ても通じる1956年の映画になっている。62年後の2080年にも観られる今年2018年の映画がどれほど残っているかを思えば、キャリアを通じてほとんどの作品、まあ散佚作品も多いですが、フィルム現存作品のほとんどが今なお観るに耐える。『赤線地帯』の戦慄のラストカットに匹敵するのはすぐ思いつくのはゴダールの『女と男のいる舗道』'62、大和屋竺の『裏切りの季節』'66くらいですが、ゴダール、大和屋の両作とも路地を舞台に終わっていたように、溝口の名作の多くは路地の場面で終わります。溝口は生涯問い続けた人でした。本作の路地は溝口最高の不吉さに満ちた路地で、それは本作が描いて以来今でも存在し続けているのです。