人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

Valdo Williams - New Advanced Jazz (Savoy, 1967)

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Valdo Williams - New Advanced Jazz (Savoy, 1967) Full Album : https://youtu.be/FakInyv0FJE
Recorded in NYC, December 20, 1966.
Released SAVOY MG 12188, 1967
Produced by Bill Dixon (probably).
(Side A)
A1. Desert Fox - 09:50
A2. Bad Manners - 11:40
(Side B)
1. Move Faster - 05:52
2. The Conqueror - 16:40
All tunes by Valdo Williams.
[Personnel]
Valdo Williams - piano, liner notes
Reggie Johnson - bass
Stu Martin - drums

 レコード会社表記ではヴァルド・ウィリアムス、バルドー・ウィリアムスと一定しないが、もといヴァルド・ウィリアムズ(ピアノ、1928~2010)のこの唯一のアルバムは、やはりアール・アンダーザ(アルトサックス、1933~1982)の唯一のアルバム『アウタ・サイト』1962と並んで60年代ジャズの隠れた名作の双璧をなすものだろう。ヴァルド・ウィリアムズにはかろうじて1993年に発掘されたチャーリー・パーカーのテレビ出演音源(1953年2月モントリオール、音声のみ)があるがパーカーに関してはともかくウィリアムズにとっては資料的価値にとどまり、『アウタ・サイト』以外の録音がまったくないアンダーザと『ニュー・アドヴァンスド・ジャズ』しかないウィリアムズのようなジャズマンは、一種の徒弟制とギルド制が背景にあるアメリカのジャズ界では、当時はもちろん現在でも珍しい。ジャズの世界では自己名義のアルバムがあるほどのアーティストなら1枚きりで終わるのはかえって少ない。
 仮に夭逝などが理由で自己名義のアルバムが少なくても他のアーティストのアルバムへの参加は多くこなしているのが普通だがそれすらほとんどない人で、60年代ジャズからあと3枚上げるとドン・スリートの『オール・メンバーズ』Don Sleet - All Members, 1961、前回取り上げた『ローウェル・ダヴィッドソン・トリオ』Lowell Davidson Trio, 1966、チャールズ・ブラッキーン(テナーサックス)『リズムX』Charles Brackeen - Rhythm X, 1968などはどれもデビュー作きりでジャズから足を洗ってしまったアーティストばかりで(ブラッキーンは87年に復帰するが)、50年代のトニー・フラッセラ(トランペット、素行不良でリタイア)、リチャード・ツワーディック(ピアノ、過剰ドープによるショック死)などもアルバム1枚の人で、そういう不吉なジャズマンの系譜は確かにあり、音楽性もどこか似ている。単発アーティストではないのに一生日陰者っぽかったエルモ・ホープ(ピアノ)なんて人もいる。

 ダヴィッドソンのアルバムもメンバーが未来の巨匠ばかりだったが、ブラッキーンのアルバム(ストラタ・イースト)もトランペットにドン・チェリー、ベースにチャーリー・ヘイデン、ドラムスにエド・ブラックウェルと、やりたいことはわかるがこれではオーネット・コールマン・カルテットそのものではないか、と言いたくなるメンバーの人選だった。ドン・スリートのアルバム(リヴァーサイド)などもっとすごい。ジミー・ヒース(テナー)、ウィントン・ケリー(ピアノ)、ロン・カーター(ベース)、ジミー・コブ(ドラムス)で、新旧マイルス・バンドのメンバーがずらりと揃い、主役以外は全員一流というのもこれらがコレクターズ・アイテム化する条件のようだ。
 彼ら短命ジャズマンは、一流ミュージシャンを従えて主役を張れる実力はあるのに、なぜか自己名義のアルバム1枚きりで、共演の依頼もいなかった。当時はジャズマンが飽和状態だったのも背景にある。50年代末にはジャズはR&Bやロックン・ロールの流行で急激な不況に陥り、仕事場を開拓する余地は極端に狭かった。また、ジャズはニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴなど大都市にリスナーが集中しており、大都市が過当競争で地方巡業に回るしかないとなると、いわゆるワン・ナイト・スタンド(一夜)巡業は劣悪な労働条件がつきもので過酷を極めた。50年代にはジャズマンの平均寿命は37歳だった、という統計があったのは、ほとんどが過労からくる体調不良や疾患を十分に治療するほど休めず、そのまま余命を縮めるような音楽活動せざるを得なかったからだった。

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 (Uptown "Charlie Parker, Montreal, 1953" CD Front Cover)
 アップタウン・レーベルからの発掘ライヴCD『Charlie Parker, Montreal, 1953』は1953年カナダ巡業中に2月5日、7日にテレビ出演やラジオ中継された3回分のライヴを合わせたものですべてこれが初ディスク化、日付がいちばん早いポール・ブレイ(ピアノ)のギター入りカルテットに白人バップ・テナーの伝説的プレイヤー、ブリュー・ムーアとパーカーが参加したセッションがクライマックスになるような曲順になっていて、パーカーのモントリオール盤というと白いプラスチック・アルトのジャケット(実際にモントリオールで撮影されたもの。パーカーは手ぶらでカナダ入りしてメンバーとプラスチック・アルトを現地調達した)とポール・ブレイとのセッションが印象的だが、実はこの発掘ライヴにはヴァルド・ウィリアムズのギター入りカルテットと共演したテレビ出演から音源だけ(映像は残っていない)が収録されており、パーカーの代表曲『オーニソロジー』『クール・ブルース』に加えてパーカー抜きのヴァルド・ウィリアムズ・カルテットの『四月の思い出』が演奏されている。ポール・ブレイとのセッションでもパーカー抜きでブリュー・ムーアだけのワン・ホーン演奏も収録されているが、歴史的重要性からパーカー抜きの演奏も割愛しなかったアップタウン・レーベルは偉い。
 ここで聴けるウィリアムズのピアノはまだバップ・ピアノからマル・ウォルドロンへの橋渡しとなるようなスタイルで、1953年としてはビ・バップから一歩進めようとしているのか、ビ・バップの出来損ないなのかどちらともとれる演奏だが、ギターはリズムを刻むだけでほぼピアノ・トリオの演奏の『四月の思い出』はそれなりに聴きごたえがあり、パーカーの加わったクインテットではウィリアムズなりにビ・バップ寄りの演奏をこなしていたのとは異質な指向を感じさせる。『ニュー・アドヴァンスド・ジャズ』冒頭の『デザート・フォックス』はジョン・コルトレーン『インプレッションズ』風に二つの調性を行き来する、一聴するとマイルス・デイヴィスが先鞭をつけたモード奏法による曲だが、よく聴くとモードなのは見せかけだけでモードともメインストリーム(バップ)ともフリーともつかないが、乗りだけはやたらと良い気分一発のような演奏が豪快で、1953年の『四月の思い出』でもそうした磊落さはすでに現れている、と思える。

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 (Japanese Reissued "New Advanced Jazz" 33 1/3 prm.LP)
 ヴァルド・ウィリアムズについては意外にも40年代当時ニューヨークのティーンエイジャー・ジャズマンだったジャッキー・マクリーン(アルトサックス)による回想がある(ダウンビート誌1990年10月号、ベン・シドランによるインタヴュー)。批評家やリスナーは著名ミュージシャンによってジャズの歴史が作られてきたと考えがちだが、無名ミュージシャンによる影響を抜きにジャズの歴史もないとして、マクリーンは不遇で知られるアーニー・ヘンリー(アルトサックス)よりさらに不遇だったピアニストとして自分より1歳年上のウィリアムズを覚えており、当時フリーな感覚で演奏していたピアニストの第一人者はセロニアス・モンクだが、ウィリアムズはさらにフリーであり、後年のセシル・テイラーのアルバムで聴けるようなサウンドを40年代後半にすでに行っていたという。その演奏は仲間から一目置かれていた。
 ウィリアムズのやり方は、たとえばスタンダード『オール・ザ・シングス・ユー・アー』を合奏部では通常のコード進行で演奏するが、アドリブ・ソロに入ると小節数だけを原曲に従い、和声やコード進行はまったく変えてしまう、というアプローチをとっていた。やがてウィリアムズは50年代初頭にモントリオールに移住してしまったが、マクリーンより1歳年下の友人だったソニー・ロリンズ(テナーサックス)もウィリアムズとは知りあいだったはずだ、ともマクリーンはシドランに語っている。

 60年代にはウィリアムズはデイヴィッド・エイブラム(ベース)、デニス・チャールズ(ドラムス)とトリオで活動していた。ベーシストはジョン・オーレ、またはアーメッド・アブドゥル・マリクに替わることもあった。オーレもアブドゥル・マリクもセロニアス・モンクのバンド経験者で、チャールズはセシル・テイラー・ユニットへの参加で知られる。
 1964年にはウィリアムズのトリオは黒人フリージャズ運動の組織者で知られるビル・ディクソン(トランペット)とフリージャズのライヴ・スポットだったセラー・カフェに出演していた。また、アルバート・アイラー(テナーサックス)とウィリアムズ、アラン・シルヴァ(ベース)、ジェラルド・スプリッヴィ・マッキーヴァー(ドラムス)のカルテットでライヴを行ったこともあった。後に国際的なフリージャズ・ミュージシャンとなるバリー・アルチュセル(ベース)が最初にライヴ出演したのもウィリアムズのトリオの一員としてだった。

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 (Japanese 1993 Reissued "New Advanced Jazz" Liner Cover)
 サヴォイは67年にはほとんどゴスペルのレーベルになっており、少なくとももう1枚のアルバムが系列のディスカヴァリー・レーベルに録音されたが、未発表のまま今日に至っている。ウィリアムズ38歳の初アルバム『ニュー・アドヴァンスド・ジャズ』もアメリカ本国では完全な廃盤で、70年代に日本のみでLP再発され、1993年にサヴォイ録音の全版権を日本コロムビア(DENON)が買収した際に国内流通・海外輸出同一仕様で初CD化されたのち、2001年にはリマスター・紙ジャケット仕様で再発売CDが出たが、現在では新品ではアナログ再発盤か、ショップのデッドストックを探すしかない。アルバムの出来は素晴らしく、当時新人だった豪腕ベースのレジー・ジョンソンは参加アルバムを次々と名盤にしたフリージャズ・ベースの第一人者だし、ドラムスのステュ・マーティンはジョン・サーマン(バリトン・サックス)とバール・フィリップス(ベース)のザ・トリオで手数王の異名をとった凄腕ドラマーだが、ジョンソンとマーティンに持ち上げられているどころか堂々主役の貫禄を見せる。
 アルバム・タイトルがセシル・テイラーのデビュー作『ジャズ・アドヴァンス』1956からほとんどそのまま拝借しているのがいかにも便乗商法で、ジャケットも同じポートレイト写真でもアーティスティックなデザイン・センスが光るESPのローウェル・ダヴィッドソンと較べるといかにも芸がないが、もともとサヴォイはそういうレーベルだから仕方ない。ヴァルド・ウィリアムズの足どりが最後に残されたのはダウンビート誌1967年2月号で、「ニュー・アドヴァンスド・ジャズ・トリオ」のコンサート告知があるきりで、、それ以降ウィリアムズがどこで何をしていたのかはまったく知られていない。没年は判明しているのに、それ以外のことはわからないのだ。