人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記3月6日~10日/アメリカ戦後映画の揺籃期

 今回はアメリカ戦後映画(第二次世界大戦後)の代表的監督の初期作品をまとめて6本観てみました。戦後映画第1世代の監督たちの多くは戦前~戦中に映画界入りしているので、戦後映画といっても戦中作品にすでにスタイルの萌芽は見られます。今回の6本(実は6監督7本)にあと4本足して10本にするなら、ジョセフ・ロージー(1909-1984)『緑色の髪の少年』'48、マーク・ロブスン(1913-1978)『チャンピオン』'49、ニコラス・レイ(1911-1979)『孤独な場所で』'50、サミュエル・フラー(1912-1997)『鬼軍曹ザック』'51を上げたいと思いますが、またの機会にしました。アメリカ戦後映画でも第2世代と言うべきスタンリー・キューブリック(1928-1999)の『現金に体を張れ』'56になると、世代的にも完全に戦前のアメリカ映画界との連続性はないでしょう。

3月6日(月)
ビリー・ワイルダー(1906-2002)『熱砂の秘密』(アメリカ'43)*96mins, B/W
・長編第2作(フランス時代の共同監督デビュー作除く)。アカデミー賞撮影賞、美術賞編集賞ノミネート作品。'26年のサイレント作品『帝国ホテル』(監督マウリッツ・スティルレル/ポーラ・ネグリ主演)のリメイク。第二次世界大戦真っ只中の第二次世界大戦映画(1942年7月~11月のエジプト攻防戦!)である上にエリッヒ・フォン・シュトロハイムロンメル将軍(元帥)役(!当然ロンメル存命中)、ヒロインにアン・バクスターと後の『サンセット大通り』対『イヴの総て』の因縁を予告するかのようで笑ってしまうが、戦車部隊唯一の生き残り将校(フランチョット・トーン)が迷い込んだエジプトの砂漠の中の主人(アキム・タムロフ)とメイド(バクスター)しかいないしょぼいホテルでロンメルの部隊に占領され、咄嗟に爆撃死したウェイターに成り代わったところそのウェイターはホテルがイギリス軍の拠点だった時にドイツから送り込まれたスパイだったことから化かし合いになる、という設定からして戦争中の戦争映画のくせにとぼけている(オリジナルは第一次世界大戦だったのだろうか?)。シュトロハイムが『大いなる幻影』より良いのは本作が喜劇映画だからだろう。原題『Five Graves To Cairo』と邦題がばっちりつながるのがドイツ軍の最重要機密を主人公が突き止めた時、というのもにくい。次作『深夜の告白』でヒットを飛ばし『失われた週末』で一流監督になるワイルダーだが、エルンスト・ルビッチの子飼い脚本家出身らしい洒脱な軽妙さと才気は『深夜~』や『~週末』よりも本作に本領があったのではないか。『第十七捕虜収容所』も冴えた作品だったがシリアスな緊迫感が強く、スパイ喜劇の中にもきっちり苦味を効かせた本作の方が小粒ながらも華がある。今回のちの一流監督の初期作品を観てどれも大きな将来性を感じる新鮮な佳作揃いだったが、一流監督の地位とは多彩な可能性を断捨離して芸域を絞るのが代償のようにも見えてくる。強気な中にも可憐な役柄のバクスターは少し微妙だが、キャスティングといい話芸の緩急といい、ホテルに限った舞台設定といい、2作目でこれだけ個性の輝く作品をものしたと思うと以降のマーケティング臭の強い作風が(それも面白い作品ばかりではあるが)ちょっと惜しい。もっとも本作のような作風ではあまりにも30年代風で出世できなかったかもしれないが。

3月7日(火)
オットー・プレミンジャー(1906-1986)『ローラ殺人事件』(アメリカ'44)*87mins, B/W
・長編第8作(ドイツ時代のデビュー作除く)。アカデミー賞撮影賞受賞作。本作までに7本もB級映画を撮っていたとは今回調べるまで知らなかった。『ローラ~』がせいぜい3、4本目だと思っていた。今回観たアメリカ戦後映画監督は程度の差こそあれハッタリ屋の気風が強いが、プレミンジャーはその最右翼だろう。この映画は実物を観た人よりも主題曲『Laura』で知っている人が多い。チャーリー・パーカーがカヴァー・ヴァージョンでジャズ・スタンダードにしたからだが、原作小説も当時話題作だったらしいから観客はみんなストーリーも犯人も知っている、という前提だからこそ小説ではできず音声と映像のある映画ならではの話術トリックで観せる工夫が凝らされたと思われる。プレミンジャー、ワイルダー、マンキウィッツら戦後映画の監督には映画の話術を革新する積極的な取り組みがあった。『熱砂の秘密』と『深夜の告白』の違いも話法の革新性にある。刺戟されてヴェテランのマイケル・カーティスの傑作『深夜の銃声』が生まれたり、元祖ヒッチコック作品がどんどん尖鋭化した。今観ると古臭く見える作品もあるがプレミンジャーの本作はスタイリッシュな映像感覚と不安に満ちた展開で気が抜けない。ヒッチコックは『めまい』を「ネクロフィリアの映画さ」と自作自解したが、『ローラ~』はネクロフィリアのテーマをはっきりと先取りしている。これはたぶん原作小説にはない要素で(『めまい』の原作小説『死者の中から』にもなかった)、映画ならでは、しかも相当の映画監督の映画ならではの発想だろう。普段映画を観ない人でも推理小説マニアは必見の一作。

フレッド・ジンネマン『第七の十字架』(アメリカ'44)*112mins, B/W
・長編第3作(ドキュメンタリー、匿名作品除く)。ワイルダー、プレミンジャー、ジンネマンとユダヤ系ドイツ人の移民監督が続くが、ドイツと言えばルビッチとフリッツ・ラングの国なわけで(ディターレ、マムーリアン、カーティス、シオドマク、ウルマー、もっといる)国内に留まらずハリウッド進出してくる、または引き抜かれてくる映画人をゴマンと輩出している。それにしても50年代以降には重厚すぎてうっとうしい問題映画の監督になってしまったジンネマンにこんな瑞々しい映画があったのか。原作はドイツからの亡命作家アンナ・ゼーガースの長編小説でハードな作品だが、後のジェームズ・ジョーンズ原作『地上より永遠へ』みたいにドラマチックな脚色で小細工せずに、強制収容所からの7人の脱走者の行方を本当に寒々しく乾ききったタッチで淡々と描く。ドキュメンタリー的ですらある。年代から言ってイタリアのネオ・レアリズモに先行しているが、ロッセリーニの『無防備都市』や『戦火のかなた』の隣に置いても違和感がない。何より戦時中に戦意発揚戦争映画でもなく銃後映画でもなく、収容所を描いてヒロイックなレジスタンス映画というわけでもなく、あくまでリアルに悲惨で痛切な脱走映画を製作した志に胸を打たれる。7人の脱走者のうち何人が逃げおおせたか?まずモノローグをナレーションしていた男があっけなく射殺される。そして映画は死んだ男の魂がさまよいながら他の6人の行方を見届ける、という死者の超越的視点で語られる。画面は始終地味で薄暗く、ひたすら飢えと渇きに追われて都市までたどり着き海外脱出するまでの顛末だが(そこで描かれる元政治活動仲間の各自の処世術もリアル)、全編に静かな怒りがみなぎる素晴らしい映画で、これは戦時中の好戦的ムードの中で公開されたのが時期尚早だった。戦後に公開されてこそ公正に価値のわかる映画だったろう。だが戦後すぐにアメリカではレッドパージ時代が始まるのでこの作品は何となくスルーされてしまったのかもしれない。映画と時代の関係も考えさせられる。

3月8日(水)
エリア・カザン(1909-2003)『ブルックリン横丁』(アメリカ'45)*123mins, B/W
・長編第1作(助監督=ニコラス・レイ)。アカデミー賞助演男優賞受賞作。ニューヨークの気鋭演劇演出家としてすでに名声を博していたとはいえ第1長編で本作とは恐れ入る。エモーショナルではあるが映画としてはどうかと首をひねるような作品ばかりの大御所監督がカザンだが(晩年25年間は小説家になったが小説もうっとうしい作風だった)、この『ブルックリン横丁』の甘酸っぱい下町情緒は徹頭徹尾ありふれた庶民一家のほぼ1年間をやはりどこの家庭にも起こる程度の事件しかなく描いたホームドラマにすぎないが、キング・ヴィダーやジョン・クロムウェルら戦前の名手のホームドラマと切り取り方がはっきり新しいのは主人公の少女を視点人物にして少女が過去を現在進行形で追想していく話法にブレがなく、万能の視点で描いてしまう古い映画によくある癖がない。万能の視点に必然性を持たせた『第七の十字架』と逆の手法で、少女の視点に限定したからこそ(実際は親夫婦だけのシーンなどもあるが、少女が後に想像したかのような印象を受ける)些細な日常的出来事が喜びと楽しみ、苦しみと悲しみが来ては去るドラマの連続になる。ヒロインの中学校最後の1年間に相当するのでエピソードの連続も多感な時期の成長物語として一貫する統一性があり、これはこの題材ならではの幸徳だろう。児童映画は以前からあるが、少女の視点と感性から描かれた日常ドラマを大人の映画にしてみせたアイディアと手腕はアメリカ映画ではありそうでなかった。実は日本映画では普通に行われていたのが女・子供の視点から描かれた映画で、純粋な映画人より俳優に密接した演出家だったカザンならでは抽き出し得たニューヨークの下町少女像、かつ時代背景も20年代というカザンのよく知っている時代だからこそのリアリティが瑞々しい映画に結実している。『紳士協定』を筆頭に『波止場』『欲望という名の電車』『エデンの東』とジンネマンと負けず劣らず向こう受けを狙った問題映画の監督になるカザンだが、少なくとも初心は立派なものだった。極言すればこの1作でカザンは残る、以て瞑すべしとすら言えるし、後年の話題作を閑却しても本作だけはぜひとも推薦したい。

3月9日(木)
ロバート・ロッセン(1908-1966)『ボディ・アンド・ソウル(背信の王座)』(アメリカ'47)*106mins, B/W
・長編第2作。アカデミー賞編集賞受賞作。硬派も硬派、ラオール・ウォルシュ門下から出て生涯に10本にも満たない監督作しかない不遇映画作家だが、代表作にスタンダード曲「身も心も」からタイトルを取りテーマ曲とした本作、ロッセン版『市民ケーン』と言うべきアカデミー賞作品賞受賞作『オール・ザ・キングスメン』、そしてボールバー映画の決定版『ハスラー』があるのだから打率はすごく高い。生涯に傑作を3本も残せば無闇な多作家よりずっといいが、才能に恵まれながら仕事運がなかったのは気の毒で、ほぼ同年生まれのジョン・ヒューストンのように安定したペースで力作を世に送った幸運と較べると、ハリウッド映画ではほとんど例外的にヨーロッパ映画的な地味な風格のあるロッセンの寡作ぶりも作風柄仕方なかったのかもしれない。本作は翌年のマーク・ロブスン『チャンピオン』に先立つボクシング映画で、『チャンピオン』も陰気な良い映画だったが低予算の大ヒット作になっただけある華もあったのに対して本作は陰気な上に地味で華に欠ける。商業ボクシング界の裏側を描いて結末は正反対だが、悲劇的ながら明快でカタルシスのあるロブスン作品に対して本作の結末は一応ドラマチックな終結でありながら何とも言えないモヤモヤ感が残り、この後味の悪さはアメリカ映画のみならず商業映画では珍しく、その辺りもオーソン・ウェルズと並んでヨーロッパのアート系映画をハリウッドでやってしまった野心的な無謀さがある。傑作は褒めすぎにしても佳作・秀作の線はクリアする良い映画だがあまりに渋すぎて娯楽性が乏しく誰にも無条件でお薦めできないのが難点か。普通の映画では盛り込むべきとされる情報やサーヴィスを極力削ぎ落としているから(その点ではウェルズの過剰さ・意図的情報操作と対照的)、これを楽しむのはちょっとコツが要る作品でもある。

3月10日(金)
フレッド・ジンネマン(1907-1997)『山河遥かなり』(アメリカ'48)*103mins, B/W
・長編第6作(ドキュメンタリー、匿名作品除く)。アカデミー賞原案賞受賞作。無名の現地俳優をナチス収容所で離ればなれになった母子にキャスティングし、終戦後のドイツにロケして青年将校(モンゴメリー・クリフト)が放浪していた少年と心を通わせ、八方手を尽くして母親と引き合わせるまで。この生々しい敗戦後の荒廃を捉えた現地ロケと、設定通りチェコ国籍の母子の存在感が実に良い。戦時中に放浪孤児になった少年を描いた作品は同年の傑作『緑色の髪の少年』があるが、ロージー作品とは狙いが違う本作もセンチメンタルに流れない切れのいい演出で陳腐といえば陳腐な母子再会ドラマを軸としながら再会そのものはラスト数分も割かず、戦禍の無惨さをひたすら心を閉ざした少年、息子を探して放浪する母の双方を同時進行で追いながら描き出していく。戦争そのものを描かない戦争映画としては『ヘンリー・キングの『アダノの鐘』'45に並ぶ静かな感動的作品で、けっこうあざとい作品が目立つ40年代ハリウッド映画の中でアメリカ映画の良心を示す秀作に上げられる。『第七の十字架』よりは甘口とはいえ5年後のジンネマン&クリフトによるアカデミー賞作品賞受賞作『地上より永遠へ』より断然こちらを取りたい。

ジョセフ・L・マンキウィッツ(1909-1993)『三人の妻への手紙』(アメリカ'48)*103mins, B/W
・長編第6作。アカデミー賞監督賞、脚色賞受賞作。マンキウィッツも本作が2、3本目と思ったら熟達も納得の6本目で、2年後のアカデミー賞作品賞受賞作『イヴの総て』の抜群のハッタリ話術が見方によってはより大胆に実験されているのが本作になる。『イヴの総て』はやり方次第では別の角度からシナリオを立てても本質的内容に大きな違いはなさそうだが、本作の場合は先に話術の手法ありきでストーリーやキャラクターよりもまずプロットがあり、話術そのものが映画の実質になっている。受け取り方は違うが市川崑ゴダールが賞賛するのはマンキウィッツのその発想で、ワイルダーやプレミンジャーが踏み込まなかったメタ映画の領域に片足をかけて劇映画を成立させている。本作は3組の中産上流階級夫婦の妻たちに誰かの夫と今夜駆け落ちする、という女性からの予告状が届き、頻繁な多元描写とフラッシュ・バックで3組の夫婦の過去が語られる(問題の女性は会話の中にしか登場せず、映像に現れない)と凝りに凝った話法もさることながら、3組の夫婦の性格造形をなすエピソードも皮肉の効いた笑えないギャグが盛り沢山だが、実は映画の中軸となるアイディアには物語的必然性がまったくないことに観終えてから気づく。ストーリーやキャラクターも入れ替え可能なので20年代のルビッチの『結婚哲学』を始めとする風刺映画から話法以外の革新性はあまりない。それゆえ一定の古臭さを感じるのがマンキウィッツの限界で、それでもこれだけ面白ければ良しとしよう、と保留条件がつく。才気が先立って表現したい核が弱いとはいくらでも言えるが、才気だけではこれだけのものは作れない。ルビッチの線がキャプラに流れたとしたら、その後継者はワイルダーではなくマンキウィッツではないかとも思えるし、キャプラの風刺映画よりも各段に挑発的な悪意がマンキウィッツの持ち味でキューブリックやアルトマンに引き継がれる。その点、やはりアメリカ映画のマスト作品には違いない画期性は今観ても十分感じられる。