(前回から続く)
4月8日(土)
『フェリーニのアマルコルド』(イタリア/フランス'73)*118mins, Eastmancolor
・人の善い映画監督などいるわけもないがフェリーニとトリュフォーだけはいつも肯定的な人生観を感じさせる。タイトル「Amarcord」はフェリーニの郷里リミニ方言で「切ない思い出」という意味を表す動詞らしい。イタリア語ほど方言が極端な言葉はないらしいからこれもあえて標準語から外れた単語を使ったと思われる。たぶん日本語の各地の方言にもアマルコルドに相当する言葉はあり、単語自体が郷愁を誘うのが方言というものだろう。映画『アマルコルド』の郷愁はベタなものではないが、映画の持ち味がそもそも徹底してローカルなのでフェリーニ映画につきものだった都会的な押しつけがましさを免れている。強い情感や訴求力もないがそれがかえって作為の過剰を防いでいる。描かれている世界は『81/2』や『魂のジュリエッタ』の中の一場面でもおかしくないのだが、映画『アマルコルド』を作ろうとして作れない映画監督の惑乱(『81/2』)や人間関係の世界に自分の位置を見つけられない有閑夫人の不安(『魂のジュリエッタ』)など考えられないすっきりした情景になっている。感情を爆発させる登場人物もいなければ張り詰めたクローズアップもなく意表を突いたり腑に落ちたりするカット割りもない。フェリーニらしいけれん味もノスタルジックなローカル色に包まれて嫌みがない。歴史大作『サテリコン』でやりたい放題やった後でとぼけたセミ・ドキュメンタリーの小品『道化師』を作り、それを踏襲して大作『フェリーニのローマ』を作っていまいちだった次が本作でおとぼけノスタルジア映画の成功作になったのは企画の成功の賜物でもあり、これを最高傑作と言うとフェリーニ作品の本流が本作のようで違和感があるが、タイミング良くいい企画で成果を出し続けてきた本当にツキの良かった映画監督だったと思う。
4月9日(日)
『オーケストラ・リハーサル』(イタリア/西ドイツ'78)*70mins, Eastmancolor
・『アマルコルド』の次の大作『フェリーニのカサノバ』'76は再び『サテリコン』路線でさらにエグく、カサノバの女性遍歴のグロテスクさはドナルド・サザーランドのぶっ飛んだ好演もあって頽廃路線のフェリーニ映画でも屈指の傑作大作ポルノ映画だった。次の『オーケストラ・リハーサル』は70分の小品偽ドキュメンタリーで、前半はリハーサル風景のノーギャラ・テレビ取材にブーブー文句を言いながら楽器奏者ごとにナルシスティックに自分の担当楽器の魅力を語る。本当にテレビ用規模の機材を使っているようで16mmフィルム撮影のブローアップ映像、ラフなカメラワークが面白いし、まず私服でリハーサル用の礼拝堂の廃屋に集まったオーケストラ楽団員がおよそカタギの風情ではまるでない。マイクを向けると目一杯の美辞麗句で語る語る、無口そうな楽団員ですら自分のペースで語り始めると止まらない。時折礼拝堂に振動が響く。やがて指揮者登場、何回やっても上手くいかず指揮者爆発、「それでもプロか?ガキの使いか!」キレて譜面台をひっくり返す?険悪なムードのあまり一旦休憩になり、休憩時間は指揮者のインタヴューになる。指揮者の困難とオーケストラについてグチる指揮者。ここまでで映画は35分。上映時間の半ばきっかりに不審を感じるが的中し、指揮者と撮影隊が礼拝堂に戻るとオーケストラ団員たちは取材や指揮者、楽団員同士への不満から大暴動になっている。時折振動が響く。遂にはピストルまで乱射する楽団員も出る。乱闘30分のすえ、突然礼拝堂の壁が大破する。茫然とする楽団員一同。さらに激しく壁が大破し、粉塵が晴れると壁の向こうには直径10メートル大の鉄球が揺れている。「始めよう」と指揮者。粛々として席に戻る楽団員。また演奏が始まるがすぐ指揮者はキレて、「それでもプロか?ガキの使いか!」と怒鳴っておしまい、というコントみたいな映画で、『道』以来フェリーニ映画の音楽といえばこの人のニーノ・ロータがオーケストラのテーマ曲を書いた生前最後の作品になった。大作『カサノバ』の次をひさしぶりの偽ドキュメンタリー作品にしたのも成功している。お遊び、しかも本物のオーケストラ楽団員・指揮者を使った冗談映画だが、そこがいい。こんなバカ映画の企画がよく通ったものだが、イタリア人は全員役者と言われるくらいだからオーケストラ楽団員ともなれば役者そこのけに存在感があって当然。一応ちゃんとドキュメンタリーになっている前半だけでも十分に面白い。逆襲コントになる後半を待たず前半のインタヴュー取材でも芝居気たっぷりだから冗談映画になってもお約束という感じですんなり観ていられる。'60年代作品のような虚構と現実の相剋を事々しく煽る面など一切ないどころか、ルイス・ブニュエルのようなユーモア感覚がブニュエルのような攻撃性は抜きに出てきている。
4月10日(月)
『ジンジャーとフレッド』(イタリア/フランス/西ドイツ'85)*122mins, Eastmancolor
・ロータ逝去後のフェリーニは『女の都』'80、『そして船は行く』'83も国際的ヒット作にはなったものの『カサノバ』路線のドライな作風を踏襲してロータの音楽の欠如に代わる情感を見つけられずに作り上げた苦肉の策が大人のおとぎ話風の設定になっている作品になった。『ジンジャーとフレッド』がフェリーニ最後の劇映画の会心作になったのはロータ亡き後に音楽的モチーフを入れるなら'30~'40年代のアメリカのミュージカル映画へのオマージュにすれば音楽そのものもリサイクルできるではないか、という一挙両得のアイディアで、テレビ番組の「懐かしの芸人たちは今」みたいな番組に集められた数十人の物真似芸人で往年、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのそっくりさんで売っていた男女ダンス・コンビが再会する。アステア役はマストロヤンニ、ロジャース役はマシーナとフェリーニ自身を投影してきた主演俳優とフェリーニのヒロインである夫人で、テーマは当然ながら「老い」になる。マシーナの方が主役なのはマストロヤンニの登場は映画が30分以上進んでからで、ラストシーンで一瞬マストロヤンニ視点のショットになる以外視点はマシーナで一貫している。初老の元コンビを描く以外にも厚みがあるのは番組に集められた数十人の芸人たちが一筆描き程度にしろ主役コンビと同等に人生を背負った存在に描かれているからで、思えばその萌芽は『道化師』にあり、また主人公の少年の成長譚ではなく地方都市の庶民生活そのものが主役の『アマルコルド』も、オーケストラ楽団員全員に主役の場を与えた『オーケストラ・リハーサル』も同じ姿勢で作られていて、結局脇役たちの役割は主人公の内面の劇に奉仕するだけの『甘い生活』『81/2』『魂のジュリエッタ』の頃のフェリーニ映画とは確かな違いがある。一方『サテリコン』『ローマ』『カサノバ』『女の都』『そして船は行く』と互い違いに人情をばっさり斬り捨てた系列もあって、芸術映画というならこの方面だろう。マストロヤンニ、マシーナともフェリーニと同国人の同年輩なのは言うまでもなく、老いを描く肉体的な実感が裏打ちとなって説得力がある。マストロヤンニが息をきらす、転倒する場面など演技だとわかっていてもはらはらする。もともと童顔で小柄・細身のマシーナは老いもあまり目立たないが所作の優雅さが美しい。そしてミュージカル曲の数々がリハーサルから本番まで何度もくり返し流れる。『サテリコン』『カサノバ』ら残酷映画路線を経た成果か'60年代作品の瑕瑾となっていた冗漫さが整理され、引き締まった映像が続く。過去の回想シーンをカットバックすることもなく簡潔な会話で二人の過去、芸人引退後から現在までの経緯も暗示し、再会から別れまでの数時間を描いて数十年を濃縮している。いい映画観たなあ、としみじみ思える。DVD添付の淀川長治氏の解説(文章だけ)も渾身の名文で素晴らしい。評判の良かった本作の次の『インテルビスタ』'87(モスクワ映画祭グランプリ受賞)はフェリーニとマストロヤンニが撮影所を訪ねて往年の映画製作の裏話を語る、というドキュメンタリーで自己インタヴューを自作映画にするのも奇手だが、テーマはやはり「老い」なので実感があり『甘い生活』の泉のシーンを観直しながら今や往年の美貌の面影もないヒロインのアニタ・エクバーグが泣く、という演出を越えた場面がハイライトだった。この『インテルビスタ』までは評判が良かったが次の『ボイス・オブ・ムーン』'90はジャーナリズム一致で「フェリーニは終わった」と匙を投げた評判散々のコメディで、晩年体調の優れなかったフェリーニは同作を遺作に1993年に逝去する。享年73歳、遺作の年が70歳だから映画監督の現役年齢としてはむしろ健闘した方だが、30代半ばで世界的巨匠の声価を得たこともあってか1950年~1990年の40年間に長編映画全20作、と寡作だったのは少し寂しい。フランソワ・トリフォーだって1959年~1984年に全23作ある。ベルイマンなど年間2~3作撮り続けた人だった。特に長いブランクもなく均等に40年間に20作というと大切にされすぎるのも必ずしも恵まれてはいないかもしれないな、と思わせられる。また晩年にさらに作品を重ねても肉体的感覚を優先するフェリーニは「老い」よりもっと奥にあるテーマまで届かなかったのではないだろうか。