人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年11月7日~9日/ラオール・ウォルシュ(Raoul Walsh, 1887-1980)の活劇映画(3)

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 1941年はラオール・ウォルシュの全キャリアでも創作力の頂点とも言える年で、この年の4作『ハイ・シェラ』(アイダ・ルピノハンフリー・ボガート主演)、『いちごブロンド』(ジェームズ・キャグニーオリヴィア・デ・ハヴィランドリタ・ヘイワース主演)、『壮烈第七騎兵隊』(エロール・フリンオリヴィア・デ・ハヴィランド主演)、『大雷雨』(E・G・ロビンソン、マレーネ・デートリッヒ、ジョージ・ラフト主演)はいずれも名作、傑作、秀作、佳作のどれかには数えられる作品でした。ウォルシュは年間3作という年はざらにありますが、年間4作公開されてこれほど優れた作品ばかりが揃ったのはキャリア28年・54歳の監督にしては驚異的で、ウォルシュの師グリフィスにも1919年の6作『幸福の谷』『勇士の血』『散り行く花』『スージーの真心』『悪魔絶滅の日』『大疑問』の例がありますが、名作を3作含む(『幸福の谷』『散り行く花』『スージーの真心』)とはいえ'41年のウォルシュ作品ほど粒ぞろいとは言えません。この4作は『ハイ・シェラ』は犯罪映画、『いちごブロンド』と『大雷雨』はまったく趣向の異なる人情劇、『壮烈第七騎兵隊』は歴史的西部劇かつ戦争映画と多彩なジャンルに渡るものですが文句なく面白く鮮烈な印象を残し、別に必ずしも映画が面白く印象的でなければならない法はなくて退屈で印象稀薄な映画の肩も大いに持ちたいとした上でもこれほど面白さを堪能できる映画はやはり大したもので、この4作で1作選ぶならスケールの大きさと見事な完成度で『壮烈第七騎兵隊』が傑出していると思いますが、理想化されたカスター将軍の武勇伝など現代日本人にはほとんど興味をそそられない題材を描いてこれほど引き込まれる作品になっているのは驚くべきことです。かと思うと『いちごブロンド』『大雷雨』は一見単純な人情ドラマが意表を突く語り口でジャンル映画の括りをはみ出る感銘を残す作品で、晴天下のプレ・フィルム・ノワール作品の傑作『ハイ・シェラ』と歴史/戦争/西部劇の傑作『壮烈第七騎兵隊』と交互にこの2作があるのは、それがたった1年の間であるだけにウォルシュの芸域の広さと柔軟性、回ってきた企画拒まずの融通無碍さには文台引き下ろせば反故とでも言わんばかりの思い切りの良さを感じます。またそれが『壮烈第七騎兵隊』のような例外的な傑作以外では職人監督が受けた企画を右から左にこなしている風でもあり、一流監督中でも作品の一貫性・完成度には比較的無頓着に見える原因になっています。すんなり観ると気がつきづらい要素なのですが、ウォルシュの面白い点は、そうした無頓着さが作品の充実感を必ずしも損ねてはいないことにもあります。

●11月7日(火)
『いちごブロンド』The Strawberry Blonde (ワーナー'41)*99min, B/W; 日本公開1947年(昭和22年)6月/アカデミー賞最優秀ミュージカル映画音楽賞ノミネート

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(キネマ旬報近着映画紹介より、一部加筆訂正)
[ 解説 ] 「群集の喚呼」のジェームズ・キャグニーが、「海賊ブラッド」のオリヴィア・デ・ハヴィランド及び「晴れて今宵は」のリタ・ヘイワースを相手に主演する映画で、ジェームズ・ヘイガンの舞台劇の再映画化である。脚本は「カサブランカ」のフィリップ・G・エプスタイン、ジュリアス・J・エプスタインが協力執筆し、「嵐の青春」のジェームズ・ウォン・ホウが撮影した。助演は「ロビンフッドの冒険」のアラン・ヘール、「砂塵」のジャック・カーソン、劇壇に名あるジョージ・トビアス等である。1941年作品。
[ あらすじ ] 1900年のニューヨークの一角、ある日曜日の午後である。ビフ・グライムス(ジェームズ・キャグニー)は通信教授で免状をとった歯科医である。ビフは親友のギリシア人の床屋ニコラス(ジョージ・トビアス)と馬てい投げをしていると、歯を抜いてくれという電話がかかる。休みと断ったが患者の名がヒューゴー・バーンステッド(ジャック・カーソン)と聞くと引き受ける。彼こそビフの仇敵である。抜歯の麻酔に使うガスを多量に興えて殺すつもりなのだ。ヒューゴーを待つ間にビフは10年前を回想する。そのころ彼は下町に居た。町の美人娘、いちごブロンドのヴァジニア(リタ・ヘイワース)にビフはほれていた。そして友達のヒューゴーもほれていた。お人好しのビフはヒューゴーにだしに使われて、ヴァジニアはビフを翻弄した揚句、ヒューゴーと結婚してしまった。ビフはヴァジニアの友達のおとなしいエミイ(オリヴィア・デ・ハヴィランド)と結婚したが、ヴァジニアに対する気持ちは変らない。その後ヒューゴーは建築会社の副社長にビフを迎えた。ビフは夢のような気持ちで、頼まれるままに書類に署名した。やがてヒューゴーの命令で手抜き工事中の現場が倒壊し、作業員をしていたビフの父(アラン・ヘイル)は重傷を負う。濡れ衣を着せられたビフは逮捕され、懲役10年の実刑判決に甘んじた……そして遂に、ヒューゴーに復讐する機会がやって来たのだが……。

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 魅力的なタイトルが印象的な本作ですが(ちなみにこの作品については活劇映画ではありません)、タイトルが指す「いちごブロンド」を演じるリタ・ヘイワースは実は本当のヒロイン、オリヴィア・デ・ハヴィランドの純真さを対照的に浮かび上がらせるための役柄なので、タイトルのひねり具合も一見素朴な人情ドラマのように見えて意外にややこしい構造を持った映画なのを象徴しているかのようです。キャグニーとハヴィランドはワーナーのスターで初共演作の大作『真夏の夜の夢』'35はハヴィランドの映画デビュー作でしたし、ヘイワースは本作はブレイク直前の出演作でもあり、準ヒロインながらタイトル・ロールなのはむしろ厚遇だったでしょう。一応本作はノスタルジア映画としては(時代背景は違いますが)『彼奴は顔役だ!』の系列に入る作品であるとともに、ヒット劇の映画化でゲイリー・クーパー主演の『或る日曜日の午後』'33(One Sunday Afternoon、監督スティーヴン・ロバーツ)の再映画化になります。そちらは未見ですが文献によるとゲイリー・クーパー版はミュージカル仕立てではないようで、本作も町の楽団が古い流行歌「The Band Played On」「Bill Bailey」「Meet Me in St. Louis, Louie」「Wait Till The Sun Shines Nellie」「Love Me and the World Is Mine」などを合唱団つきで次々と披露し、映画のエンド・ロールには「みなさんも一緒に歌いましょう」と映画本編の各場面をイラストでおさらいしたタイトル字幕で歌詞が流れるほどですが、主要人物たちのドラマがミュージカル演出で展開されるわけではないので映画そのものは歌謡映画ではあってもミュージカルではありません。'30年代のアメリカの娯楽映画には歌曲シーンがつきもので'40年代には減少していきますが、本作も本来は歌曲シーンがなくても成り立つシナリオです。また回想形式で過去をサンドイッチした話法はこの頃からアメリカ映画の流行になる手法で、本作の場合過去から追った構成では展開が飛躍、または間延びしてしまうために回想形式が使われていますが、ウォルシュはフラッシュ・バックはまったく使わず、カット・バックすら最小限にして、視点人物を限定し現在形でストレートに話を進めていくタイプなので、本作は歌謡ノスタルジア映画の意匠で人情劇を描いて構成は一種の平行話法という、一口でどういう映画か語るにはあまりに雑多で焦点を絞りきれず、見方によっては散漫ですらある作品です。各要素を取ってみればあまりに異なる方向に拡散していて、ヨーロッパ映画的な指向性の監督はもちろん作品の統一性に厳しい監督ならシナリオ段階で納得しないでしょうし、脚本家出身の監督なら自分で書き直してしまうでしょう。つまりワイラー、フォード、ホークスといった監督であれば本作はもっと主人公の運命を主軸に、復讐劇に見せて人情ドラマに移っていく、くっきりとした構成の映画になっていたはずです。ワーナーの看板監督でもマイケル・カーティスならばもっとコメディかメロドラマか明快なジャンル映画に作り上げたでしょう。物語の骨格だけ採ればこの映画の原案は相当陰湿な愛憎劇で、何しろ主人公が医療事故に見せかけた殺人を計画するまでを描いているのですから本来明るく楽しい話にはならないようなものです。ところが実際の映画ではほのぼのとするような大人の男の馬蹄投げ遊びの場面から始まり、主人公の回想も結末の投獄以外は楽しい19世紀末ニューヨークの2組の青年男女の恋愛コメディ調で進んでいきます。陰湿どころか映画から伝ってくるのは生き生きとした幸福感なので、脚本家は翌年のワーナー作品『カサブランカ』'42のライターというのも意外ですが、1941年は12月の真珠湾攻撃までアジア圏の大東亜戦争、ヨーロッパの第二次大戦にアメリカの世論が参戦派と非参戦派ともに不安と緊張を抱えていた時期です。日本で言えば昭和16年に明治33年が舞台、かつ明治23年に回想がさかのぼる内容の歌謡ノスタルジア映画が『いちごブロンド』なので、筋立ては一応因果物めいたドラマであるにせよ当時観客が求めていたのは明るかった世相を思い出させてくれる映画、40年~50年前が舞台ですから観客の多くは生まれる前の両親や祖父母の若かった時代背景ですがアメリカが幸福だったと思いたい時代を描いた映画だったでしょう。ウォルシュが作ったのはそうした観客の願いに応えた映画でした。つまり日曜の暇な午後に手の空いた近所の歯医者と床屋が空き地で馬蹄投げ、日本で言えばべー駒遊びに興じているような長閑な世界です。歯医者にはずる賢い旧友と恋敵になって負けたばかりか親友の業務過失で冤罪を背負わされて投獄されて散々な目にも遭ってきた、しかし再会してみればかつて恋い焦がれたいちごブロンドのわがまま女より、その親友で自分の結婚した慎ましい妻と自分の方が殺したいほど憎んでいた旧友よりも幸せではないか。キャグニーは凶悪な犯罪者から小粋な伊達男まで芸の幅の広い名優ですが、ここでは心優しく本当の幸福を知る平凡な一市民を演じて観客を自然な共感に誘います。出所してきたキャグニーが暮らしていた家でずっと待ち続けていたハヴィランドと再会する回想シーンのクライマックスは本編の白眉で、このシーンがあればこそ自分の生活をぶち壊した旧友への復讐心も、またハヴィランドとの幸福への自覚がそれを水に流すのも説得力を持ってきます。ところでいちごブロンドのリタ・ヘイワースですが、キャグニーの視点からは今では単なる悪妻に見えるのはキャグニーの女性観が変わったので、世渡り上手に見えて詰めが甘い実業家の小狡いジャック・カーソンの妻の座に収まって夫の器量の小ささを承知で夫婦を続けていればこんなものなのではないか、という程度に夫を小馬鹿にしつつ別れる気もない妻なので、勝気で美貌や能力で男に渡りあう自信のある女性ならこんなものにも見えますし、回想の中でも若い頃からそういう性格の女性に描かれており、それはそれで魅力的なタイプでもあり、親友のハヴィランドが地味というのもよくある組合せです。この映画は美学的な一貫性はめちゃくちゃで、それは多分ワーナー側の企画に前述した映画の統一性からは相容れない雑多な要求がてんこ盛りにされており、観客ウォルシュが真正面に全部演ってみせた結果によりますが、結果的には人情の機微に触れる味わい深い佳作になっています。ルノワールの『フレンチ・カンカン』'55に匹敵し、ゴダールの『女は女である』'61、ベルイマンの『この女たちのすべてを語らないために』'64のような過剰な自意識もなしにより大胆にコメディの本質(ハッピーエンドで終わるドラマはすべてコメディです)を射抜いています。さすがに次々作の人情劇『大雷雨』(『Manpower』というすごい原題、しかも電線保安員の話)ではウォルシュも「もうちょっとまとまりのあるシナリオをくれ」と掛けあったか、それでもとんでもないキャスティングをされてしまいますが、E・G・ロビンソン、マレーネ・デートリッヒ、ジョージ・ラフトでは『いちごブロンド』路線は無理にもほどがあるので趣向を変え、これもまた不思議な人情劇になっています。ですがそれら2作の人情劇の間に挟まれた『壮烈第七騎兵隊』はウォルシュ作品のうちでももっともウォルシュらしく、しかも完成度の高い、サイレント時代の最高傑作『栄光』'26と並ぶウォルシュを代表する戦争アクション映画の大傑作になりました。本作と同年に『壮烈第七騎兵隊』があるのがウォルシュの空恐ろしいところです。

●11月8日(水)
『壮烈第七騎兵隊』They Died with Their Boots On (ワーナー'41)*142min, B/W; 日本公開1953年(昭和28年)6月

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(キネマ旬報近着映画紹介より、一部加筆訂正)
[ 解説 ] 「底抜け落下傘部隊」のハル・B・ウォリスが製作指揮にあたり「テキサス決死隊(1949)」のロバート・フェローズが1942年に製作した騎兵隊物でウォーリー・クラインと「盗賊王子」のイーニアス・マッケンジー共同の脚本を「世界を彼の腕に」のラウール・ウォルシュが監督した。撮影監督はバート・グレノン(「赤い灯」)、音楽は「外套と短剣」のマックス・スタイナーである。「すべての旗に背いて」のエロール・フリンと「風と共に去りぬ」のオリヴィア・デ・ハヴィランドが主演し、「怒りの河」のアーサー・ケネディ、「最後の無法者」のジーン・ロックハートアンソニー・クイン(「すべての旗に背いて」)などが助演。
[ あらすじ ] ジョージ・アームストロング・カスター(エロール・フリン)は1857年、ウェスト・ポイントの陸軍士官学校に入学したが、成績は開校以来最低といわれた。しかし、勇敢なことも開校以来と定評をとった。南北戦争勃発で卒業が繰り上げられ、彼も恋人リービー(オリヴィア・デ・ハヴィランド)に別れを告げる暇もなく、北軍に加って出征した。彼はスコット中将(シドニー・グリーンストリート)の目にとまって第2騎兵隊に所属することになり、大勲功をあげて軍の書類の混乱にも手伝わされ副少将にまで昇進した。凱旋したカスターは恩人シェリダン将軍(ジョン・ライテル)の媒酌でめでたくリービーと結婚したが、戦争が終わって退役軍人の生活はあまり幸福ではなかった。そのことを気遣った妻の尽力でカスターは現役に復帰することになりダコタのリンカーン砦にある第7騎兵隊の司令に任命された。彼はだらけきった第7騎兵隊を再建し、付近のインディアンと平和条約を結んで彼らの住むブラック・ヒルには白人は入らないことを約束した。しかしこの地域に金鉱があると聞いたネッド(アーサー・ケネディ)という男がインディアン地域にのり込もうとし、カスターの説得も空しく、ついに全インディアンは鋒起した。劣勢の第7騎兵隊はカスターを先頭に救援の来る前に全滅したが、カスターの遺書によって未亡人リービーとシェリダン将軍の手でネッドの悪行は当局に暴かれ、カスターとインディアンとの間に結ばれた条約は破棄されず守られることになった。

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 邦題の『壮烈第七騎兵隊』も良いタイトルですが原題『They Died with Their Boots On』つまり「彼等はブーツを履いたまま死ぬ」には痺れます。収まりのいい日本語の訳題がないのでカスター将軍最後の決戦からそのまま『壮烈第七騎兵隊』を持ってきたわけですが、内容もカスターがこの映画のような先見的で公正な正義派の良識的軍人ではなかったのはよほどのカスター贔屓でもない限り歴史的人物と事件に題材を借りたフィクションなのはおそらく当時すでにアメリカ人の平均点知識からしても明らかでしょう。史実のカスターは上官の失策につけ込みながら成り上がり、地位を利用して他人を操作し私腹を肥やした挙げ句に、引っ込みがつかなくなって無茶な決戦で戦死し部隊を全滅させた、歴史の曲がり角にどんな国のどんな時代にも普遍的と言っていいほどよく出現するタイプの軍人=政治家と容易に想像がつきます。ところがこのカスターの履歴は解釈次第では史実は史実そのままに誠実深慮に歴史のあるべき姿を予見して自己犠牲的に未来への希望を託した名将の行動に読み替えることも可能で、この着眼点はご都合主義とアイロニーの両方がありますが1941年の西部劇でここまで壮大に歴史観をひっくり返した作品は画期的なのではないかと思われます。西部劇の変質は'30年代半ばからギャング映画を西部劇に置き換えた『バーバリー・コースト』'35、西部劇版「ロミオとジュリエット」の『丘の一本松』'36、西部劇をアクション映画に純化した『駅馬車』'39、その真逆のコミカルな『砂塵』'39、無法者と保安官の位置を逆転させた『西部の男』'40、西部劇にしてアクションも乗馬シーンもないキリスト教信仰劇の『丘の羊飼い』'41と徐々に進んでいており、戦後はさらに屈折していき'60年代~'70年代には一種のアメリカ建国神話否定的な自己破壊的な発想に至るのですが、『壮烈第七騎兵隊』の先駆性はほとんど時代に20年以上先んじていたと言えます。違いを上げればウォルシュ作品はスタッフやキャストがまだ両親や祖父母に南北戦争の体験者がいた時代に作られており、風貌や物腰に古い時代のアメリカ人の面影を残すキャスティングが可能だったのに対し、'60年代~'70年代の西部劇はさらにその子供か孫の世代になって現代人が衣装だけ南北戦争前後の服装をしているようにしか見えない。そうなるとサム・ペキンパーのような監督は従来の西部劇の衣装とはまったく別の、俳優に合わせた現代の衣装を意図的に着崩させて現代の感覚で西部という荒野のスラム街の住人ならば実際にはこんなものだったのではないか、というような虚構のリアリティから発想するようになりした。こうした発想はカリカチュアに近いほど理想化されているがゆえに行動原理はまるで異なりながら実際の行為は史実と符合する『壮烈第七騎兵隊』のカスター像と想像力の働きにおいて通じるものです。それがシナリオの次元だけで成り立つものではないのは本作の主演俳優がエロール・フリン(1909-1959)からでも明白で、この二枚目俳優は日本の感覚で置き換えれば歌舞伎出身俳優のような妙な中性的色気があります。水商売上がりというか、ホスト上がりのようでもあります。こういう喩えはどう言っても失礼なのを承知で言えばうさんくささといかがわしさを備えつつ、それがフリンのサイレント時代の映画俳優のような柄の大きさでもあるわけです。エロール・フリンと本作のヒロイン、オリヴィア・デ・ハヴィランドは美男美女コンビとして'30年代~'40年代に多くの作品で共演していますが、ほとんどは剣戟映画、いわゆる西洋チャンバラ映画です。いわばフリンはトーキー時代のルドルフ・ヴァレンティノ(1896-1925)みたいな俳優で、名うてのプレイボーイとしても知られてきわめて素行は悪く、イギリスの良家のお嬢様育ちのハヴィランドは頑としてフリンを撥ね退け続けたので「仕舞にはパンティの中に生きた蛇やら蜘蛛まで入れて気を惹こうとしたが失敗した」とフリンの自伝にはあるそうです。こういう天然の俳優をどう演出するかと言えば、フリンの持ち味に合わせてカスターのキャラクターを作り直してしまう。それが観客にとっても受け入れやすくフリンの魅力を自然に生かすことにもなるからです。フリン演じるカスターは軍事教練校の入学式に自分の愛馬に乗って特注品のモールがフリフリの軍服で帽子をかぶったナポレオンみたいな格好で現れて教官や教練生たちの度肝を抜き、卒業までの課程を終える段階的で成績はトップですが服務違反や素行は教練校始まって以来の最悪という実にエロール・フリンらしい軍人候補生ぶりを演じます。シナリオ自体のアイディアでしょうがこれを憎めず手に負えずテンポ良く見せる手腕はウォルシュならではのもので、やがて南北戦争が勃発し(リンカーンの大統領就任が実現すれば内戦は避けられない、とカスターが仲間に意外な洞察力を見せるシーンが伏線になっています)、教練校の生徒も北部出身者が帰郷していき、職業軍人に就任したカスターはまだ未知数の戦況で一応成績優秀者なので大した軍功も期待されず異例の抜擢を受けるうちに誰も予期していなかった戦況の急激な進展で軍功を上げてどんどん出世していく。ご都合主義も極まりない展開ですが現在進行形でどんどん進んでいく南北戦争の戦況はプロフェッショナルな軍部上層部にとっても先行きが予期できず、取りあえずカスターに仕切らせて先哨隊を差し向けておけ、とその場しのぎをくり返していくたびに出たとこ任せの勝負に天性の勘を持つカスターが次々成果を上げていき、慎重派や急進派の上官たちが手をこまねいているうちに遂には政府直々に将軍として任命されるまでに至ります。これはジョン・ウェインランドルフ・スコット、ましてやヘンリー・フォンダなどでは絶対に演じられない出鱈目な出世コースで、もともとチャンバラ映画のアクション・ヒーローであるフリンならではのフィクションの主人公ならではのリアリティがあるからこそ成立する物語であり、伝記的なポイントごとに歴史的な実在人物のカスターと一致しているだけの虚構のカスター像で、そういう意図からウォルシュが演出しているのは明らかなので実在のカスターの理想化・英雄化を図った映画ではないのは映画と現実を混同してしまう観客でもない限り勘違いしてしまうようなことはないでしょう。南部敗戦の直前にフリンは何かと目にかけてもらっていた総指揮官のシェリダン老将軍の親友の娘のハヴィランドと結婚しますが、結局戦争は終結しフリンは名誉の退役軍人として地位と資産には恵まれながら隠居同然の身になって無気力になり、ハヴィランドがシェリダン将軍に直訴してダコタの開拓地で入植者と先住民の抗争をなるべく平和裡に調停する執務官として第七騎兵隊の隊長に赴任し、軍人としての生き甲斐を取り戻します。ところが西部開拓団の脱落者で初老の流れ者の、インディアンと親しくインディアン酋長のクレイジー・ホース(アンソニー・クイン)との交渉に飄々と役目を果たすカリフォルニア・ジョー(チャーリー・グレイプウィン)の協力で先住民と開拓団の住み分けが良好に進む中、鉄道会社が強引に先住民の居住区に金塊発見のデマを流して混乱を巻き起こし、それをきっかけに無法地帯と貸し出し先住民居住区に侵攻する、という暴挙に出ます。クレイジー・ホースは近隣の先住民種族の戦士たちを組織して徹底抗戦の支度を進め、カスターは事態を本来の先住民居住区と開拓団の公平な協定通りに治安を回復させるためには、集結して圧倒的な人数と団結力・地の利を知りした戦術に長けた先住民の軍団と、鉄道会社の開発団を巻き込んだ第七騎兵隊が最後の決戦を挑んで先住民たちの戦力に騎兵隊が全滅する、当然指揮官であるカスター自身も戦死するという自滅的な解決策以外に取る道がなくなってしまいます。カスターは鉄道会社による先住民居住区への不法侵攻を妻とシェリダン将軍に託して決戦に同意した部隊の全員を巻き込んだ壮絶な戦死を遂げます。この凄惨なプロットを同時代の西部劇と較べてみてください。史実のカスター伝ではおそらく事情はまったく異なり、南部敗戦後にまた一儲けを企んだカスターが軍功を利用してダコタの独裁者になり、先住民を騙しつつ鉄道会社の不法侵攻をたっぷり収賄しながら傍観視しているうちに抗争が激化して軍部本部に対しても鉄道会社に対しても引っ込みがつかなくなり、先住民を侮った無謀な決戦で戦死し第七騎兵隊を全滅させ、結果的に先住民居住区と移民団居住区の調停が結ばれることになったというのが実態だと思われます。しかし事件自体は映画で描かれている通りなので、歴史を読み替えるとフリンの演じたカスター像も矛盾なしに成り立つはなれ技がこの映画では行われているのです。フリン演じるカスターは無理矢理戦場に拉致してきた鉄道会社の青年重役のアーサー・ケネディに言ってのけます。「これがお前らの仕掛けた結果だ。後は死か栄光しかない」すぐ後でケネディは先住民の弓矢で射抜かれて斃れ、「あんたの言った意味がわかったよ」と死んでいきます。この最後の決戦はダコタの第七騎兵隊のキャラクターがほとんど一方的な先住民の戦力に次々とワン・ショットで死んでいき、先住民の武器は主に弓矢なので弓矢で射られる→落馬、場合によっては馬ごと転倒と第2班、第3班に助監督を分けて撮影しているにしても戦闘をそのまま再現しているほどの労力をかけたクライマックス・シーンでしょう。カリフォルニア・ジョーも「行けなかったよ、カリフォルニアに」とぼやきながら弓矢で射られて死んでいきます。アンソニー・クインはインディアンの酋長役はクインに尽きる、という時代の出演作ですから素晴らしい存在感ですし、第七騎兵隊は全員ブーツを履いたまま死んでいきます。ウォルシュ作品でもこれほど鋭く完成度が高い、スケールの大きな名実ともに大作はありませんが、当時の観客には映画的虚構とすんなり理解できたカスター像の描き方が今日の観客には文字通りの伝記映画と取られてしまう懸念があるために前述の新機軸の画期的西部劇と較べてアメリカ本国での評価が慎重になっているのではないでしょうか。しかし本作はウォルシュがフリンのキャラクターを最高に、しかも意外性に満ちた方向から生かしてユーモア、皮肉、悲壮感のどれをも兼ね備えた傑作です。ウォルシュのフリン主演作は他にもあり、それらも充実した作品ですが、本作ほど様々な要素が渾然一体となった作品はないのです。

●11月9日(木)
『戦場を駆ける男』Desperate Journey (ワーナー'42)*107min, B/W; 日本公開1952年(昭和27年)3月

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(キネマ旬報近着映画紹介より、一部加筆訂正)
[ 解説 ] 「渡洋爆撃隊」のハル・B・ウォリスが製作し、ラウール・ウォルシュが監督した戦場活劇。1942年作品で、「追求」のアーサー・T・ホーマンが脚本を書き下ろしている。撮影は「リオ・グランデの砦」のバート・グレノン、音楽はマックス・スタイナーの担当。主演は「無法者の群」のエロール・フリンと「命ある限り」のロナルド・レーガンで、「まごころ」のナンシー・コールマン、「ダラス」のレイモンド・マッシー、「無法者の群」のアラン・ヘール、「ガラスの動物園」のアーサー・ケネディ、「夜も昼も」のシグ・ルーマンらが助演する。
[ あらすじ ] 今次大戦、英軍の一爆撃機はドイツの重要地点を襲い、対空砲火のため不時着した。8名の乗員中墜落で2名は即死、機長は戦死し、残りの5人フォーブス大尉(エロール・フリン)、ハモンド中尉(ロナルド・レーガン)、フォレスト中尉(アーサー・ケネディ)、ホリス(ロナルド・シンクレア)とエドワーズ(アラン・ヘイル)両軍曹は、ナチにとらえられバウマイスター少佐(レイモンド・マッシー)の訊問中に逃亡し、途中歩哨を倒し列車にしのびこんでベルリンに着き、空家の地下室に身を隠した。彼らは近くのナチの工場に火を放ちまた逃れたが、ロイドは重傷を負い、薬屋でケーテ・ブラームス(ナンシー・コールマン)という娘にあった。彼女の伯父が反ナチの医師であったのでその手当てを受けたがロイドは死んだ。フォーブスたちはケーテの家を訪ねたが、ケーテの両親と称したゲスタポの手先が入れ替わって待ち伏せており、彼らはバウマイスターら一隊に包囲された。ケーテを連れフォーブスたちは激戦の後包囲を逃れる途中エドワーズを失う。フォーブスはケーテに一緒に英国へ来るように誘ったが、両親が強制収容所に送られたと知った彼女は反ナチ運動に働くべく立ち去る。フォーブスたちは追跡を受けつつオランダ国境を越え、ナチ基地にあった英国爆撃機を奪って帰還した。

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 エロール・フリンと並んで主演格のロナルド・レーガンは後にアメリカ大統領になるあのロナルド・レーガンです。本作はイギリス空軍のドイツ潜入特殊部隊の活躍を描いた明快なスパイ・サスペンス映画仕立てのアクション映画で、ワーナーは同年の『カサブランカ』'42でも明快な反ナチ映画を送り出しておりヨーロッパ戦線へのアメリカの積極的な参入をアピールしていましたから、翌'43年のイギリス空軍へのアメリカ空軍派兵に先立つ本作はイギリス空軍の健闘を讃え、ナチス政権(と日本)を共通の敵とする連盟国としての自覚を促す目的で作られたものです。日本公開はGHQ(アメリカ占領軍総本部)がまだ存在し輸入映画検閲をしていた昭和27年ですから、唯一日本について言及される箇所、戦闘機を奪還して目標の軍事拠点空爆を果たして本国イギリスに向かって帰還しながら「やったな。次は日本だ」はアメリカ軍が民間人居住区ごと徹底して空爆を行い、原子爆弾2箇所まで投下して数十万人の民間人を殺傷した記憶の生々しい当時には刺激的に過ぎるので削除されたのではないかと思います。敗戦後の日本ではアメリカの戦時作品中戦争色のないもの、戦争色があっても反ナチ映画は公開が通りましたが反日戦争映画、またアメリカ社会をネガティヴに描いたものは検閲で輸入公開が禁止され、GHQの検閲による公開禁止の内情を明かすことも禁止されました。日本を対象に含まない反ナチ映画の公開が検閲を通ったのは、かつて同盟国だったナチス政権のドイツの非人道的軍事独裁国家の有り様を晒すことで連盟国側の正義とドイツと同盟関係にあった日本の愚を映画観客の意識に擦り込むため割合積極的に公開されたのです。そういう戦後になっての政治的利用を差し引けば、エロール・フリンロナルド・レーガン主演のこの戦争スパイ・サスペンス映画はすこぶる上出来で、まず8人の乗り込んだイギリス空軍の航空爆撃機が任務完遂ならずに対空砲火で撃墜されます。ここで2名即死。ドイツ兵に発見される前に機体に火を放って全員爆死を装い、重傷を負った機長を抱えて6人は闇の藪の中に隠れますが、機長は息を引き取ります。一旦全焼した空軍機を確認して引き上げようとしたドイツ兵たちは足元の機長の残した血痕に気づいて、残る5人は捕虜になってしまいます。こんなことなら瀕死の機長は諦めて機内に残していた方が、と観ている観客の方が冷酷になってしまいますが、あとはセオリー通りナチ施設の諜報・破壊活動を行いながら逃走中に1人、また1人とやられていき、ドイツ国内でレジスタンス活動を行う若い女に助けられ束の間の連帯感を味わって別れ、最後に残った3名でドイツ占領下のオランダまで逃げのびて捕獲されていたイギリス空軍機を乗っ取り、その空軍機でやり残していた軍事拠点空爆を完遂して帰国の途に就く、と息つく暇もなく展開していきます。完成度を問題にするならば本作は無駄がなく、主題も単一でいわば一筆描きの小佳作としてよくまとまった作品です。本作の後もウォルシュには数本の戦争映画の戦中作品がありますが、その中では本作はサスペンスに目的を絞ったためにプロパガンダ的な臭みも少なく、アメリカ国民に対しての戦意発揚映画ではなくイギリス空軍兵のドイツでの臨機応変な任務遂行を描く戦争娯楽アクション映画になっています。強いて言えばウォルシュでなくても手練れの映画監督なら撮れる映画ですが、太い線でぐいぐい押していく力量はこういうシンプルなウォルシュもいいなあ、と見惚れるほどの切れの良さがあります。これは1回観て堪能すれば十分かな、といったタイプの直線的作品ではありますが、『いちごブロンド』や『壮烈第七騎兵隊』のような一種清濁合わせ飲んだ濃密な味わいの作品に添えてこうしたすっきりした作品を観る爽快感もまた格別で、これもまた捨てがたい魅力のある作品です。