人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年7月17日・18日/バスター・キートン(1895-1966)の長編喜劇(7)

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 トーキー以降のキートン主演映画は出来自体はごく平均的な同時代のアメリカ娯楽映画の水準とも言えて、'30年代初頭のトーキー作品は一部の傑出した監督の作品、トーキーへの順応が上手かった監督の作品、企画が上手くいった作品以外はサイレント時代後期の'20年代半ば以降の水準より後退したものでしたから、キートン主演映画ばかりが低迷していたのではなく、また今日観るに耐えないようなひどい映画がサウンド・トーキーという目新しさだけでヒットしてもいるので、MGM映画社の宣伝力、プロモーション第一主義もあってキートン主演映画もかつてのサイレント時代の名作以上の興行収入を上げてはいるのです。しかしトーキー作品全体の水準が向上するとトーキー初期のキートン主演映画は顧みられなくなり、またキートンという喜劇俳優そのものが時代遅れの飽きられた存在になってしまったことに不運がありました。せめてキートン主演のトーキー作品自体に再評価をうながすような美点があったならまだしもなのですが、用意された企画とシナリオ、固定した演出方針の製作下ではキートン主演映画はどんどんキートンが主演俳優でなくてもいいような他愛ない喜劇映画になっていったのを誰も食い止めず、MGMもキートン知名度だけを商品価値として完全にプログラム・ピクチャー体制で使いつぶしていったということに、結果的にはなったことになります。しかしもしトーキー時代にもキートンキートン自身の監督・脚本で主演映画を製作できる環境があったら、と想像するのはチャップリンやロイドのようにトーキー作品でも自己の製作で成功作を送り出したようにはキートンが器用だったとは思えず、サイレント作品の延長上に興行的には失敗を重ねるばかりだったとも考えられるだけに、やはりサイレント時代でこそ輝いていたのがキートンの個性だったとも思われ、またサイレント時代の作品と比較してしまうからこそ余計キートン主演のトーキー作品が見劣りして見えるのは確かです。1作ごとに観れば、トーキーのキートン主演作品だってそれなりに愛すべきところがないわけでもないのです。

●7月17日(火)
『紐育の歩道』Sidewalks of New York (監督ジュールズ・ホワイト/ジオン・マイヤーズ、MGM'31)*74min, B/W; 本国公開1931年9月26日; https://youtu.be/YM2kxGEbUQk (extract)

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○あらすじ(DVDジャケット解説より) キートンvs.悪ガキ!ニューヨークのダウンタウンで大暴れ。スラップスティック要素が強い一作。ホーマー・ヴァン・ダイン・ハーモン氏(キートン)はニューヨークの郊外に住む若く独身の億万長者。彼はイーストサイドの貧民街にアパートを所有するが、家賃が滞りがちでしかも騒動の絶え間がないので悩んでいた。 ある日のこと使用人のポッグルを伴って貸家見回りに出かけた。大勢の子供達が大騒ぎをしているので、仲裁に入ったばかりに酷い目にあった揚句、ガキ大将クリッパーの姉マージーに殴られ逃げ帰ってくる。が、ハーモンはマージーの美貌に一目惚れしてしまったから、さあ大変!

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 MGMの吠えるライオンのTMタイトルに続いてクレジット・タイトルが終わると、港、街並み、雑踏、とニューヨークの景色が映され、ここまではニューヨークの実景フィルムでしょうが俯瞰から通行人目線で行き交う人々が描かれると一気にセット撮影映像に移ったのがわかり、下町の路地で野球に興じているいかにもな下町のガキどもの情景になります。ホームランだ、いや三塁を踏まなかったと乱闘になり、一方クリフ・エドワーズ演じる集金人が長家に家賃の督促に来ておかみさんとやりあっています。修理に来ないと家賃は払わないよ、とおかみさんは子どもたちを呼び、修理しますよとエドワーズが答えるとガキどもは一斉に石を投げて窓という窓を割ってしまいます。駄目でした、と大家の実業家ホーマー(キートン)に報告するエドワーズ、そうか、とキートンエドワーズと下町に向かいますが、路地に入る前から車の窓ガラスは乱闘で投げつけられている石やらブロックやらの巻き添えをくってしまいます。キートンはガキ大将のクリッパー少年(ノーマン・フィリップス・ジュニア)に襲いかかられ、クリッパー少年は高みの見物をしていたストリート・ギャングの頭のブッチ(フランク・ローワン)の指図でキートンの財布をすります。あんたの弟がやられてるよ、と隣のおかみさんの呼びかけにクリッパー少年の姉マージー(アニタ・ペイジ)が出てくるとクリッパー少年と取っ組み合っているキートンを一発でのします。キートンはマージーに、一目惚れだと告白します。クリッパー少年は下町の乱闘騒ぎで少年裁判所で被告人になりますが、キートンはクリッパーをかばおうとして支離滅裂な証言をしてクリッパー少年は証拠不十分、キートンは法廷侮辱罪で罰金になってしまいます。マージーキートンがクリッパーをかばったのを感謝し、キートンは下町の少年たちの更正のために下町にアスレチック用具の揃った体育館を建て、マージーも喜びますが下町のガキどもは一向に来ないので、キートンは野球に割って入ってボールを取り上げ体育館に誘導します。しかしガキどもは興味を持ったはいいがアスレチック用具を滅茶苦茶な使い方しかせず、指導員が必要ねというマージーキートンは自分から指導員を勝って出て、ボクシングの対戦相手を呼んでふらふらになってボクシングを実演し、ようやく下町の子供らは体育館のアスレチックに親しむようになりますが、クリッパー少年はキートンが姉の気を惹きたくてやっていることだと反発します。一方ストリート・ギャングのブッチはクリッパー少年に女装をさせて強盗をする計画を立て、ブッチに逆らえないクリッパー少年はブッチとともに強盗を重ねます。しかし、体育館で演劇会が行われる日に、偶然キートンが女装姿を着替えるクリッパー少年を目撃してしまいます。クリッパー少年からそれを聞いたブッチは芝居に乗じてキートンの殺害をクリッパー少年に迫り、ブッチの手下たちも観客たちに混じりますが、クリッパー少年は下町の仲間に事情を打ち明けて全員で芝居を滅茶苦茶にしながらブッチらに反抗して叩きのめし、事情を察したキートンも乱闘に加わります。事態が収まって駆けつけてきたマージーキートンが間違えて一撃し、倒れたマージーキートンが慌てて抱き起こし、エンドマーク。
 本作はキートン評伝の著者トム・ダーディスが「間違いなくキートンサウンド長編中最悪のもので、唯一これに匹敵するものがあるとすれば『キートンの麦酒王』'33を挙げるのみ」とした上で、本作の興行収入85万5,000ドル、純益19万6,000ドルの大ヒットを記載しています。しかし本作も『キートンのエキストラ』同様、特大ヒットのアカデミー賞作品賞受賞作『ブロードウェイ・メロディー』'29の主演女優アニタ・ペイジに、『キートンの決死隊』以来3作連続出演の人気シンガー・コメディアンのクリフ・エドワーズがほとんどキートンと同格の出演をしており、MGMのスター競演路線は翌年のアカデミー賞作品賞受賞作『グランド・ホテル』'32で頂点に達しますが『グランド・ホテル』ほどオールスター映画だとスター1人1人のパートはかえって抑制したものになっていて、怪我の功名とでも言うべき落ち着いた内容になっていました。本作はトム・ダーディスが言うほどひどい映画ではないと思いますが、キートンのMGM作品中唯一エドワード・セジウィック監督作ではない本作は世間知らずな金持ちの坊ちゃん役という設定で『海底王キートン』『キートンのラスト・ラウンド』『キートンの決死隊』の系譜に連なり、恋のため一直線というのもキートンのいつものキャラクターですが、作品の設定やプロット、ストーリーなどキートン主演作品らしくなく、むしろロイドに向いていて、ロイドが主演ならもっとスマートな作品になっただろうとは想像に難くないことです。監督が二人いるのはどういう分担をしたものか、ストーリーは単純ですから混乱はしませんが演出のムラやカット、シークエンスのぶつ切れ感がはなはだしく、本作は74分で公開時のままの全長版のようですが自主検閲でカットされた(とは思えませんが)でなければラッシュ編集段階なのではないかと疑ってしまうくらいモンタージュの次元からつながりが悪い。モブ・シーンが多いのがそれに輪をかけており、これほど雑でも迷わないのは前述の通りプロットもストーリーも単純きわまりないからですが、だからと言って雑でもいいものではないでしょう。現在で言えば安普請なテレビドラマと大差ない次元でざっと流して作られたような映画で、取り柄と言えばキートンが主演していることだけですが前作『キートンの恋愛指南番』と並んでキートンでなくてもいいような、キートンの主演作品なら確かに過去の作品から引き継いだキャラクターではあるけれど、映画は雲泥の出来になっている。つまらないかと言えばそれほどつまらなくはなく、キートン映画もしばらく観ていないな、とか、DVDでモニター鑑賞ではなくスクリーン鑑賞なら本作でもああキートンだ、キートンはいいなあと思える場面も少なくないだけに、いっそう安易な仕上がりが惜しまれるのです。キートン主演以外に良い所をあと一つ上げれば、本作はサイレント作品に近い作風になっているあたりでしょうか。だったらキートンに監督させればキートン主演映画らしさもちゃんと出た、ずっと良い作品になっただろうにと思われてなりません。

●7月18日(水)
キートンの決闘狂』The Passionate Plumber (監督エドワード・セジウィック、MGM'32)*74min, B/W; 本国公開1932年2月6日; https://youtu.be/9s5Fyk8_gVE

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○あらすじ(DVDジャケット解説より) 今度のキートンは"巴里のアメリカ人"。偽の恋人役をかって出たことで巻き起こる恋の大騒動!配管修繕屋のエルマー・タトル(キートン)は新型ピストルを開発した。発砲実験を行いたいと考えていたとき、彼はパトリシア・アルデンという貴族の家に配管の修理に呼ばれ赴いた。しかし、修理中に突然ズブ濡れなってしまったので洋服が乾くまで裸になっているところを、パトリシアの恋人トニーに浮気相手と勘違いされ、決闘を申し込まれてしまう……。

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 舞台はパリ、いきなり館の前で車から降りてくるのが水道管の修理工を迎えに行くよう命じられたジミー・デュランテ演じるこの館のお抱え運転手マクラッケンで、マクラッケンはキッチンを通りかかって自分より先に着いていたキッチンの水道管修理をしている修理工エルマー(キートン)に出会います。デュランテはメイド(ポリー・モラン)にキートンを風呂場の修理に連れて行かせ自分はキートンが修理を済ませたキッチンでくつろぎ、館の令嬢パトリシア(アイリーン・パーセル)が恋人トニー(ギルバート・ローランド)の訪問を受けていた時にパトリシアの部屋と続きのバスルームにずぶ濡れで服を脱いでいるのをトニーに見つかり、パトリシアの浮気相手と誤解されその場でトニーから決闘を申し込まれてしまい、無理矢理決闘に引きずり出されます。キートンの介添人にデュランテがついた決闘は作法を知らないキートンが無茶苦茶にしてどさくさ紛れに終わりますが、一方トニーには嫉妬深いスペイン人の愛人ニーナ(モナ・マリス)がいて、ニーナとの噂を聞いたパトリシアは腹いせにキートンが浮気相手のふりをします。メイドと良い仲になったデュランテはキートンに協力するつもりでトニーをキートンに会わせまいとしますが、パトリシアはトニーが訪ねてきた時にキートンとの仲を見せつけて嫉妬させたく、しかしいざトニーが来てキートンが割って入りトニーが立腹して去るとキートンに当たり散らす、と散々です。パトリシアは隙を見て抜け出して美容院でキートンを巻き、トニーを家に呼びますがパトリシアがトニーと和解しようとした寸前に先回りして戻っていたキートンが浴室から出てきて、再びトニーは立腹して去ります。パトリシアが外出しようとする、キートンが先回りして外出を防ぐ、とどたばたしているうちに興奮してキートンを叩き、自分も卒倒したパトリシアに叔母が訪ねてきます。キートンはとっさに診察している医者のふりをして叔母をごまかし席を外しますが、パトリシアは叔母から服を奪ってトニーに会いに抜け出して行ってしまいます。キートンはトニーを呼び出しますが、そこにニーナが押しかけてきます。パトリシアが戻ってきて、トニーが双方の女性に他の女とは別れると言っていたのが判明します。館にやってきたトニーにパトリシアとニーナは散々物を投げつけ、すごすご出て行こうとするトニーにニーナが愛してるわ、とすがりつき、去ろうとするキートンはパトリシアに皿をぶつけられて座りこむとパトリシアに愛してるわ、と抱きつかれ、デュランテがメイドに愛してるよ、とキスしようとするとメイドはデュランテの鼻をつまんで横に除けてキスして、エンドマーク。
 本作からキートンのMGM最終作『キートンの麦酒王』まで3作連続準主演扱いで登場するのが当時の人気コメディアン、ジミー・デュランテ(1893-1980)です。当時にあってはでかい鼻とピアノの弾き語りとマシンガン・ジョークを得意とする有名人だったそうですが、キートン映画のファンにとっては災厄みたいな人物で、デュランテの起用はMGMがキートンに打診もせず勝手に企画したそうですが、キートンの背中をどんどん叩きながら日本語字幕を読んでもまったく面白くないジョークを連発しいつもがははと笑っているこの大味なコメディアンは前作までの共演者クリフ・エドワーズが慎ましく思えるほどで、けたたましいばかりかキートンの出演場面に積極的に水を差し、ギャグのオチを持って行くという邪魔なことこの上ない存在で、キートン主演作品初共演の本作でもファースト・カットからラスト・カットまでデュランテが担当するという優遇を受けており、そうでなくともキートンの主演作品らしさの稀薄になっていったトーキー作品を終わらせたのがデュランテの共演だったのではないか。本作当時キートンは離婚した最初の夫人との子供の養育権問題で夫人に訴えられ、ますます飲酒問題が表面化しており、最終的にMGMから契約を打ち切られたのはアルコール中毒症が撮影に支障をきたすほどになっていたからとされていますが、実際キートンはデュランテと嫌々共演していた、させられていたそうですから、監督のエドワード・セジウィックキートンの旧友なのにどうにかしなかったのかと言えば企画部から上がってきた脚本をはいはい撮るばかりで、どうにもならなかったということでしょう。キートン評伝の著者トム・ダーディスは本作をキートンのトーキー作品中では活気のある作品と評していますが、『紐育の歩道』よりさらに悪いのではないでしょうか。本作はメモを採りながら観ましたが、DVDあらすじにもある水道管修理工キートンが発明した新型ピストル(発光ピストルとか、そんなようなもの)が小道具として生かされている場面は全然ありません。台詞でちょっと出てくるだけで何も使われていないので感想文前半のシノプシスでも割愛しましたが、二股かけている男を恋人に持つヒロインにキートンが一生懸命気を惹こうとするプロットも、ストーリーの展開も共感はおろか説得力も面白さもなく、結末のハッピーエンド?も腹いせ的にヒロインがキートンになびく、というもので、こんなヒロインに魅力もなければ夢中なキートンも愚かしく見えるだけで、似たような趣向の恋の腹いせ物語だった『キートンの結婚狂』とは比較にならないお粗末な作りと仕上がりです。本作までキートンのトーキー作品はフランス語版とスペイン語版が作られていた、つまり同時録音撮影だったので同じ映画をオリジナル英語ヴァージョン含めて3ヴァージョン撮ったことになりますが、もうこうなると映画製作にも一種の工業作品めいた忍耐しか伴わなくなっていたのではないでしょうか。