アメリカ古典モンスター映画といっても今回取り上げたコスミック出版のボックスセット3種・29作は九尾の一毛ですが、最終回にRKOラジオ映画社のゾンビ映画2作が掉尾を飾るのは作品の出来もめでたいので嬉しいことです。RKOラジオ映画社は'30年代~'40年代のアメリカ映画黄金時代の5大メジャー映画社としてMGM、パラマウント、ワーナー、20世紀フォックスに並ぶ大会社であり、ユニヴァーサル、コロンビアは5大メジャー社に次ぎ、ユナイテッド・アーティスツは8番目の位置づけでした。RKOはトーキー時代に設立された若い会社なのが他のメジャー社と違い、都会的でスタイリッシュな映画を送り出す会社で、ともすればメジャー社中でB級扱いされもしましたが、それも社風に若いセンスがあったからで、早逝が惜しまれるマーク・サンドリッチ監督のアステア&ロジャース映画、『キング・コング』'33と『市民ケーン』'41、『素晴らしき哉、人生!』'46と『汚名』'46など映画史に残る名作はいずれもモダンな作風で水準を抜く一方、ディズニー作品を『白雪姫』'37、『シリー・シンフォニー』'37、『ピノキオ』'40、『ファンタジア』'40から戦後の『不思議の国のアリス』'51、『ピーター・パン』'53まで配給し(ディズニーランド開設を挟み'59年の『眠れる森の美女』からディズニー作品は独自配給となります)、また敏腕プロデューサーのヴァル・リュートンによる低予算映画シリーズでは当初はホラー中心に『キャット・ピープル』'42や『私はゾンビと歩いた!』'43、『レオパルドマン(豹男)』'43など名作の誉れ高いヒット作を生み出し、のちには『ボディー・スナッチャー』'45などのSF映画、『過去を逃れて』'47などのフィルム・ノワールもヒットさせていて、特筆すべきは一般的に古典アメリカ映画のスリラーはホラー映画やSF映画、フィルム・ノワールはメジャー、マイナー、インディペンデント問わずまったく怖くないのに、RKO作品はきめ細かい映像と心理描写に長けた演出で怖いのです。同じ時代の作品でもRKOは感覚的には5年~10年先を先んじた観があり、西インド諸島を舞台にしたゾンビ映画版『レベッカ』'40(!)なのは明らかな『私はゾンビと歩いた!』のロマンス絡みの人間ドラマの緊迫感と真正面からのゾンビ映画へのアプローチの奇跡的バランスと融合、コメディ・ホラーですがきっちりゾンビ探しに焦点が絞られ細かなギャグやスクリューボール的プロットにいたるまでテーマがぶれずにテンションが維持する『ブロードウェイのゾンビ』もパラマウントのゾンビ・コメディ『ゴースト・ブレーカーズ』'40とは比較にならないほど映画が細やかで練れており、RKO映画社はハワード・ヒューズに買収されて'50年代には精彩を失っていき、かつての所属スターのキャサリン・ヘップバーンやケーリー・グラントも去り、戦後派のスターのロバート・ミッチャム、精鋭監督ニコラス・レイ、サミュエル・フラーの諸作で面目を保ちましたが、ミッチャムは人気を得るもレイやフラーの映画は一見アナクロニズムに見えるほど逆に先鋭的で一面的解釈を許さない、大衆性には欠ける作風で、'57年製作のサミュエル・フラー監督作『戦火の傷跡』がRKO最終作となり、会社が消滅したので同作はコロンビアから'59年に公開されました。RKO映画の面白い性格は今回の対照的内容のゾンビ映画2作を観るだけでも伝わってくるもので、ホラー映画に限らずメジャー8社、五大メジャー社の古典アメリカ映画は凡作でも凡作なりの歴史的鑑賞価値はあるものですが、RKO作品については低予算映画も多いだけに「これが映画だ!」という感が深いのです。――なお今回も作品解説文はボックスセットのケース裏面の簡略な作品紹介を引き、映画原題と製作会社、アメリカ本国公開年月日を添えました。
●10月28日(日)
『私はゾンビと歩いた!』I Walked with a Zombie (RKO Radio Pictures'43)*69min, B/W; アメリカ公開'43年4月21日
監督 : ジャック・ターナー
主演 : ジェームズ・エリソン、フランシス・ディー、トム・コンウェイ、クリスティン・ゴードン、エディス・バレット、ジェームズ・ベル
・看護師のベッツィは、富豪の妻ジェシカを介護するためにハイチの豪邸に招かれた。ブードゥー教の呪いをかけられた夫人は、生きた屍となっていて、ベッツィは次第に夫のポールに思いを寄せるようになる……。
日本未公開、テレビ放映では『生と死の間』と邦題がつけられていた本作は、ビデオ~DVD化に伴って原題に忠実な現行題名に改められました。これは名作です。しかも'30年代ユニヴァーサル・ホラーが他社の怪奇映画にまで影響を与えて似たり寄ったりになっていた中で、前年に傑作『キャット・ピープル』'42、本作と同年に秀作『レオパルドマン(豹男)』を送り出し、のちにフィルム・ノワールの名作『過去を逃れて』'47を作るジャック・ターナー(1904-1977)の手腕は一流監督と躊躇なく言えるものです。ターナーはサイレント時代に大きな業績を残した(『青い鳥』'18、『ウーマン』'18、『モヒカン族の最後』'20)フランス系監督の巨匠モーリス・トゥーヌール(1876-1961)の令息ですが、ティーンエイジャーの頃から大監督の父の映画のスクリプターを勤めていたそうですから映像のコンテニュティーの鋭さ、滑らかさの感覚は抜群です。また本作はカリブ海のサン・セバスチャン島が舞台ですが、屋外シーンもほぼ完全にセットで、主人公のポール・ホランドの邸宅の庭先や農園の風景はよく観るとことごとく書き割りの背景なのですが、書き割りを感じさせないためにあえて前面の人物に浅く焦点深度を据える、または逆光気味の照明にすることで背景の書き割りをぼやけさしており、これは室内セットでは焦点深度の深いパンフォーカスを使っていることでも映像に細心の注意を払っているのを示しています。ロン・チェイニーとジョーン・クロフォード主演のトッド・ブラウニング監督作『知られぬ人』'27は佳作ですがラストシーンで背景の書き割りに手前の人物の影が縦に映るミスがあり、これは照明を正面から当てて撮影してしまったため生じたので、ジャック・ターナーの場合は低予算映画ならではの書き割りの背景をいかに書き割りに見せないか照明も計算していたのがこうした例でもわかります。また逆光気味の照明は背景をぼかして人物の表情に影を落とし、室内ならではのパンフォーカスは隅々までくっきり映して緊張感を高めるので、映像の心理的効果を強める作用もあります。そうした手腕と感覚ではジャック・ターナーはサイレント時代の巨匠監督の父モーリス・トゥーヌールをしのぐ監督なのが、原作小説こそあれ脚本のカート・シオドマク(『夜の悪魔』『狼男』)が明らかにヒッチコックの『レベッカ』'40を意識しただろうと思われる脚色の本作からだけでも十分にうかがわれ、ターナーの映画は前記の諸作も本作と同等かそれ以上の出来ばえですが、『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』以前のゾンビ映画は『恐怖城』'32から始まり本作で頂点を極めた、という定評も納得のいく作品です。ロメロ作品がSF的な災害パニック映画としてゾンビ映画を刷新したとすれば、ハリウッド黄金時代流の悲劇的ゴシック・ロマンス映画としてのゾンビ映画では『私はゾンビと歩いた!』は最高の仕上がりを達成したので、ボックスセット『ゾンビの世界』でも本作はロメロ作品以前のゾンビ映画では唯一ただならない濃厚な気配を放っています。主人公の妻の看護婦を勤めるヒロインのフランシス・ディーはジョージ・キューカー版『若草物語』'33でキャサリン・ヘップバーンのお姉さん役を演じていた女優であり、本作では『レベッカ』のジョーン・フォンテーンの役に当たり、主人公ポール・ホランド役のトム・コンウェイは『レベッカ』のローレンス・オリヴィエに相当します。
映画はカナダの看護師、ベッツィ・コネル(フランシス・ディー)が、「むかし私はゾンビと歩いた、それは……」と回想を始めるナレーションで始まります。映画全編が彼女の回想体のナレーションを織り交ぜて進みます。ベッツィはカリブ海の西インド諸島のサン・セバスチャン島の大砂糖農園主、ポール・ホランド(トム・コンウェイ)の妻を介護するために島へ渡る船上にいます。デッキでベッツィは星空と海原に魅せられますが、商用から帰るため乗り合わせたホランドと出会い、風景の美しさを讃美するベッツィにホランドはサン・セバスチャンには悲しみと腐敗しかなく、星の光は数万年前の光で、海原の輝きは原棲動物たちの分解された死骸だ、とベッツィの感激に水を差します。サン・セバスティアン島には、少数の白人社会とアフリカの奴隷の子孫が住んでいます。黒人御者はホランドの農園にベッツィを送る間に、ホランドの先祖がどのように奴隷を島にもたらしたかを説明し、そしてホランド一族移住以前の原住民の王ティー・ミザリーの矢で射られた像と、奴隷船を見せます。その日の夕食に、ベッツィはポールの父親違いの弟、ウェスリー・ランド(ジェームズ・エリソン)と出会います。彼は暗にポールを嫌っています。ベッツィは寝る支度中に、女のすすり泣く声を聞きます。ベッツィが人影をおって階段を上がる、白いローブの女性がベッツィに迫ります。ベッツィは叫び、屋敷の人々を目覚めさせます。 翌朝、ベッツィは原住民のメイドのアルマ(テレサ・ハリス)から病に伏す前のホランド夫人の話を聞き、ポールがベッツィが看護するポールの妻、昨夜の白いヴェールの女性、ジェシカ・ホランド(クリスティン・ゴードン)を紹介します。マックスウェル博士(ジェームズ・ベル)は、ジェシカの脊髄が重篤な病気から治療法のない損傷を受け、意志を持たず無意識な軽い運動と食事しかできないことをベッツィに伝えます。休日、ベッツィは町でウェスリーに出会います。ウェスリーはは自分の立場を自嘲し、カフェの流しの弾き語りカリプソ歌手(サー・ランスロット)はウェスリーが客にいるとは知らず農園主の妻と弟が恋に落ち駆け落ちを企てる歌を歌い、ウェスリーは激怒しますが立ち寄ったポールはウェスリーをなだめます。ウェスリーは酔いつぶれて倒れ、ベッツィはポールとウェスリーの母親の医師ランド夫人(エディス・バレット)に初めて会います。その夜、夕食時に、ポールはウェスリーに、母ランド夫人に頼まれたベッツィの提案で飲酒を減らすように説得しようとしますが、ウェスリーは反発し、ベッツィの看護には感謝するが現状のホランド家はジェシカを苦しめるていると主張します。その晩、ベッツィはポールの演奏するピアノに引き寄せられる。ポールはベッツィを島に連れてきたことを謝罪し、自分が他人を傷つけやすい陰気で皮肉な性格で、結婚生活が妻の病状の原因だった可能性を認めます。ベッツィはポールへの愛を自覚し、ジェシカを完治させてポールを幸せにすることを決めます。ベッツィは、ポールにジェシカへのインシュリン・ショック療法を試みることを了解させて試みますが、効果はありません。 現地人のメイドのアルマはベッツィに、ジェシカと同様な状態の女性を回復させた術師タンバラの民間療法を伝えます。夜中にベッツィはジェシカを連れ出し、夜の草原を歩き(『私はゾンビと歩いた!』)、ブードゥー教崇拝者の集会所フンフォートへの交差点に立っていた不気味なゾンビのカルフール(ダービー・ジョーンズ)の監視を無視して、術師タンバラの治療にジェシカを連れて行きます。ベッツィは現地人の男サブリューが儀式の酒を飲むのを見ます。人々は告解室に入ってブードゥー教の司祭からアドバイスを受ける。ベッツィは呼ばれ、ブードゥー教の司祭の正体がランド夫人であると気づきます。 ランド夫人はヴードゥーではジェシカを治せず、ベッツィに介護を続けるよう勧めるも、ジェシカは決して治癒しないと伝えます。外では、地元民はテストするためにジェシカの腕をナイフで傷つけ出血しないため、ジェシカはゾンビであると確信します。ベッツィがジェシカを連れて帰宅し、待っていたポールはベッツィがジェシカをブードゥーの儀式に連れて行って怒っていますが、ベッツィのジェシカを治療への熱意に心を動かされます。現地人たちは翌日調査ジェシカを「儀式試験」のために引き渡すするよう求めてきます。その後、ゾンビのカルフールがホランド邸に近づきますが、ランド夫人はカルフールに去るように命じます。ポールはベッツィがカナダに帰るよう提案します。ポールは家族の問題でベッツィを困惑させ、ジェシカのように傷つけてしまうことを恐れています。ベッツィは島を離れることに同意します。翌日、マクウェル博士は、現地人たちの不審がジェシカの病気に関する公式調査を開始したと報告します。ランド夫人はジェシカがゾンビだと主張して、誰もがショックを受けます。ランド夫人は告白を始めます。ランド夫人はブードゥーには懐疑的でしたが、長男の嫁ジェシカが次男のウェスリーと駆け落ちしようとしていることに気づいて、突然ブードーの神に憑依されたように感じました。そしてランド夫人はジェシカにゾンビ呪術の呪いをかけたのです。 ポール、マックスウェル博士、ベッツィはランド夫人の話を否定しますが、ウェスリーはジェシカをゾンビ状態から解放することに夢中になります。ウェスリーは安楽死の考慮をベッツィに尋ねますが、ベッツィは拒否します。その頃、ジェシカの肖像画を使用して、サブリューはジェシカを支配し、フンフォートに引き寄せます。ポールとベッツィはジェシカを引き止め館に連れ帰りますが、すぐにジェシカはいなくなります。ウェスリーは門を開き、ジェシカを館の外に出します。ウェスリーはティー・ミザリーの像の中から矢を引き抜いて、ジェシカを追います。 サブリューがピンで人形を刺すと、操られたウェスリーは矢をジェシカに刺します。ウェスリーはジェシカを抱いて、ゾンビのカルフールの見届ける中、浜辺から海の中に進んでいきます。その後、地元民は二人の遺体を探してホランド邸に運びこみます。ランド夫人がすすり泣き、ポールはベッツィを慰めます。逆光に黒光りするティー・ミザリー像に音楽が高まり、エンドマーク。
――本作はキャスティング上では弟ウェスリー役のジェームズ・エリソンが一番、フランシス・ディー、トム・コンウェイという並びですが、ゾンビ化した女性をめぐる兄弟の愛憎ドラマというテーマもユニークならば台詞のないゾンビ女性を演じたクリスティン・ゴードン、嫁にゾンビ化の呪いをかけた姑役のエディス・バレット、またヒロインに生前のジェシカのことやヴードゥー治療の存在を教える原住民メイドのアルマ(テレサ・ハリス)と、女性たちのドラマになっているのも特徴です。ウェスリーとジェシカの一種の心中も、現地人のヴードゥー信者サブリューがかけた呪術による操作と描かれる一方でウェスリー自身の願望にも一致するので、悲劇に終わる愛憎メロドラマとしての人物像の設定とプロット、ストーリーがヴードゥー呪術によるゾンビという題材に非常にうまくかみ合っています。『レベッカ』との相似が指摘できる一方『レベッカ』との相違も容易に指摘できるので、傑作『レベッカ』はヒッチコック作品の中ではむしろ異色のゴシック・ロマンス映画ですが、本作も怪奇ムードのゴシック・ロマンス映画で、悲劇性が女性ゾンビという奇矯な発想に浮いていない。またネクロフィリア(死体愛好症)というゾンビ以上にタブーに近いテーマに実は片足どころではなく踏みこんでいて、黒人ゾンビのカルフール(ダービー・ジョーンズ)は不気味な描かれ方をしていますが女性ゾンビ役のクリスティン・ゴードンは一貫してこの世の人ではないように美しい女性に描かれています。ネクロフィリアのタブーに触れないのはこの女性ゾンビの徹底的な美化にもよるので、このあたりも大衆映画としてはぎりぎりのラインに迫っています。映画は歴史とともに必ずしも進化するとは限らない点では諸芸術、諸芸能と同じですが、『恐怖城』'32とともにゾンビ映画というホラー映画のサブジャンルが生まれたなら、本作の達成は確かに呪術ゾンビ映画の趣向としてはここまで優れた映画ができるのか、と感嘆を抑えられないほどの進展を披露したものであり、『レベッカ』影響下の作品としてもフリッツ・ラングのユニヴァーサル作品『扉の蔭の秘密』'48が必要以上に似せて変な映画になってしまったのとは比較にならないほど丹精に構成要素の取捨選択が行われた、丁寧な映画です。撮影と照明は別班の日本と違ってアメリカ、ヨーロッパ映画では撮影監督が照明監督も兼ねる(または美術監督が照明監督を兼ねる)のが慣習ですが、演出・撮影・美術・照明の一体化した効果が本作ほど見事な映画はそうあるものではありません。
また本作がゾンビ映画に限らずアメリカ古典ホラー映画で類を絶する名作になったのは怪奇現象の謎が何一つ決定的な解明がされない点で、映画はヒロインのベッツィが立ち会うシーンか、説明ぬきの暗示的客観描写に限られています。カルフールが本物のゾンビか単なる狂信徒か、ヴードゥー信徒の現地人サブリューのゾンビ呪術がウェスリーのジェシカとの無理心中を操ったのかは観客が解釈するしかなく、映画はゾンビ呪術の説明ぬきに彼らの行動を描くだけですし、ウェスリーと駆け落ちしようとしたジェシカにゾンビ呪術をかけた、というランド夫人の告白はあくまで告白として描かれるだけで、回想シーンでその過去の出来事が描かれはせず、息子ポールもベッツィもマックスウェル博士もランド夫人の告白は単なる思いこみだ、と即座に否定します。夫ポール、姑ランド夫人、義弟ウェスリーとの緊張に満ちた家庭生活にジェシカがノイローゼになり、ウェスリーとの駆け落ち直前に転落事故で意識喪失の病状になったのは主治医のマックスウェル博士も含めて家族全員が責任感を感じているので、ランド夫人がジェシカの事故をきっかけにフンフォールの治療呪術師タンバラになるのも贖罪意識とジェシカの治療法研究のためと解されますが、そもそもジェシカの事故が自分の呪術だというランド夫人の告白も妄想かもしれないのです。つまり本作はいろいろ事件は起こりますがゾンビの実在性を保証する描写は一切なく、一連の現象をゾンビ呪術に起因すると解し、時には否定するのは登場人物と観客の解釈でしかなく、映画は決してゾンビ呪術の実在とジェシカの事故からウェスリーとジェシカの無理心中にいたる事件の関連性を断定しません。通常これはアート・フィルムにだけ許される話法であり、アート・フィルムと同次元の高度な話法によって大衆ゴシック・ロマンス映画を作り上げた監督ジャック・ターナーの鋭い感覚は'40年代初頭の映画水準を大きく抜いたものです。
●10月29日(月)
『ブロードウェイのゾンビ』Zombies of Broadway (RKO Radio Pictures'45)*68min, B/W; アメリカ公開'45年4月26日
監督 : ゴードン・ダグラス
主演 : ウォリー・ブラウン、アラン・カーニー、ベラ・ルゴシ、アン・ジェフリーズ、シェルドン・レオナード、ダービー・ジョーンズ
・NYのナイトクラブのオープンに間に合わせるために、本物のゾンビを捕まえにサン・セバスチャン島に向かったマイルズとストレーガー。二人は、唯一の手がかりをもつルノー博士を探すが……。
モノグラム社の『死霊が漂う孤島』'41も日本未公開(テレビ放映のみ、邦題はテレビ放映題)かつ当ボックスセット『ゾンビの世界』で日本初DVD化はおろか世界初DVD化になるらしい稀少作品でしたが、本作もそうです。アメリカでは深夜映画などで放映されることもあるかもしれませんが、本作はアボット&コステロ映画のようなコメディアン・コンビが主役のホラー映画のパロディ・コメディで、ゾンビ研究家のマッド・ドクター役のベラ・ルゴシはほとんど自虐ネタのような役柄を神妙に演じており、パロディ・コメディ映画としては軽妙な作品が得意なRKO作品だけに上出来な部類で、主演コンビはがんばっていますが当時はともかく今や無名のコメディアンはキャラクターへの予備知識なしに観ると華に欠けるのは否めず(その点サイレントのコメディアンはヴィジュアルにキャラクターを託しきっていただけ分がありました)、本作も万事調子のいいスマートな好漢ジェリー役のウォリー・ブラウン、心配性で気の弱いデブのマイク役のアラン・カーニーというコンビのかけあいを楽しむ映画なので、この見るからに頼りにならない、二人併せても半人前のようなコンビはブロードウェイの広告代理店のエージェントをしています。二人が顧客のギャングのボス、エース・ミラー(シェルドン・レオナード)から、来月13日の金曜日にオープン予定の、ミラーがオーナーのナイトクラブ「ゾンビ・ハット」の開店記念の出し物に本物のゾンビを連れてこい、と依頼されるのが本作の始まりです。二人は体格のいい黒人青年にメイクさせゾンビ役にすればいい、くらいの気持で引き受けますが、ミラーにそんなのでは駄目だと一蹴され、業界のつてでラジオの人気キャスターのダグラス・ウォーカー(ルイス・ジャン・ヘイド)にラジオ番組でゾンビを募集できないか相談しますが、ミラーとウォーカーは犬猿の仲で、ウォーカーは自分の番組でミラーの店のオープニングにゾンビが見せ物に出るそうだ、出なかったら番組で大いに笑い物にしてやりましょうと挑発します。怒り狂ったミラーは、ジェリーとマイクが本物のゾンビを見つけてこなければ、お前たちのどちらかを殺してゾンビの代わりに飾る、と脅します。博物館だ、と思いついた二人はゾンビを貸してください、と訪ねてあきれられ、博物館の研究者ホプキンズ博士(イアン・ウォルフ)から、ゾンビならルノー(ベラ・ルゴシ)教授がサン・セバスティアンのカリブ海の島に住み、ゾンビを作る研究をしていると教示を受けます。
さっそくジェリーとマイクはヴァージン諸島のサン・セバスチャン島への渡航します。二人はミラーの手下3人に監視されており、手下たちはゾンビが見つからなかったら二人を殺して死体を持ち帰れと命令されています。20分目にサン・セバスチャン島の研究室でゾンビを研究するルノー教授役のルゴシと助手のジョセフ(ジョセフ・ヴィターレ)、そしてゾンビが登場します。ルノー教授の研究は人をゾンビ化する血清の完成です。ジェリーたちはサン・セバスチャン島に到着し、美しいキャバレーの歌手ジーン(アン・ジェフリーズ)に会います。ジーンは島からアメリカに連れ帰ってくれるのを条件に、ジェリーたちに協力します。ゾンビにまつわる現地人たちの祭りに潜入したジェリーは小猿の籠を開けてしまって一匹の小猿になつかれ、隠れた箱は生け贄の竹の棺で祭りの最中に槍ぶすまにあい、現地人の服装に化けていたマイクはたいまつを持って踊らされ、マイクが生け贄の竹棺をくべる踊りの輪の中心の焚き火に足を滑らせるとジェリーは上半身を竹棺に入れたまま立ち上がって、二人は混乱に乗じて逃げ出します。その間ジーンはルノー教授の操るゾンビのコラーガ(ダービー・ジョーンズ)に研究室の秘密の部屋にさらわれます。ルノー教授の研究室のある館を発見した二人は館の中を調べますが、ジーンが目を覚まして教授の次の血清実験に取りかかる前に、番犬が侵入者を知らせます。縛られたジーンはなんとか拘束を解き、部屋から脱出しますが、助手ジョセフによって捕まります。ジェリーとマイクは館でもてなされますが、就寝中にコラーガに実験室にさらわれたマイクはゾンビ血清を注射されてゾンビ化します。血清の完成を確信した博士は次にジェリーをコラーガに実験室にさらわせ、実験室でジェリーは捕らわれのジーンと再会します。まず男から、とジェリー打つ血清注射器の容器に教授が手を伸ばした時、小猿が注射器容器を奪ってジーンのふところに飛び込みます。ジェリーは教授と助手ジョセフを振り切ってジーンの拘束を解き、ジェリーとジーンはジョセフをのします。教授はコラーガを呼び、戸口に現れたコラーガに「殺せ!」と命令し、コラーガは目の前の博士を棍棒の一撃で殺します。ジェリーとジーン(と小猿)はゾンビ化したマイクを先頭にゾンビのふりをして館の用心棒たちの間を抜けて脱出し、ゾンビ化したマイクを連れて帰国します。小猿も船から降りてきます。出迎えのミラーの部下はマイクがゾンビだというジェリーを疑い、手のひらに仕込んだ剣山やマイクの手の上でマッチ箱を燃やして無反応なので唖然とします。小猿も迎えの車のバンパーの上に乗っています。ナイトクラブのオープニング・パーティーではオーケストラやダンサーが出し物を終え、ラジオ・キャスターのウォーカーを先頭に「ゾンビはまだか!」と揶揄しますが、ようやくジェリーたちが到着し部下たちが本物のゾンビです、とミラーに報告します。楽屋ではジェリーとジーンが、とまずはひと息ついていますが、ダンサーの一人が衣装替えをしながらマイクに視線を送ると、マイクはダンサーの着替え姿にゾンビ化が解けてしまいます。素に戻ったマイクに愕然としたジェリーは楽屋に訪ねてきたミラーにマイクがゾンビですと押し通そうとし、マイクも演技しますがミラーに不意に尻を蹴られて叫んでしまいます。約束は守ってもらおう、とミラーがピストルを取り出した時、小猿がジーンに注射器容器を渡します。ジーンが部屋の灯りのスイッチを消すとともに銃声が鳴り響き……。そしてナイトクラブの見せ物に本物のゾンビが登場します。エンディングは笑ってキスしながらソファに座るジェリーとジーン。ひゃっ!とジェリーは悲鳴を上げて飛び上がり、ソファの注射器が映り、ゾンビ化したジェリーがふらりとスクリーンの正面を向いて映画は終わります。
――と、本作にも『私はゾンビと歩いた!』'43で黒人ゾンビのカルフールを演じたダービー・ジョーンズが、ベラ・ルゴシのルノー教授の手下ではありますがルノー教授の血清発明ではなく研究材料として採取してきた天然ゾンビだったらしい黒人ゾンビのコラーガ役で出てきますが、本作はいかにもパロディ・コメディらしい誇張したゾンビで、でかい作り物の三白眼のゾンビ眼を目につけています。これがマイクがゾンビになった時もゾンビ眼として目につくことになり、映画のクライマックスの「ブロードウェイのゾンビ」登場シーンのゾンビ人物もゾンビ眼ですし、映画のサゲのジェリーもゾンビ眼です。小猿の名演もあちこちにギャグとして散らしてあり、おそらく本作よりよっぽど予算も大きければボブ・ホープとポーレット・ゴダードの2人のスターを主演させ、批評も好評でヒット作にもなったというパラマウントの『ゴースト・ブレーカーズ』'40よりもよっぽど面白いのですから、映画というのは観るまでわからないものです。撮影期間7日間というマイナー映画社のモノグラム社の『ヴードゥーマン』'44よりは本作は予算・撮影期間とも余裕があったと思いますが、ベラ・ルゴシの扱いは『ヴードゥーマン』同様本作もギャグみたいなもので、ルゴシの出番は抜き撮りで撮影開始の当初数日でさっさと済ませてしまったのではないか、と思われます。つまりルノー教授の研究室・実験室シーンが先に撮ってあって、クライマックスから逆算するように撮影が進められたと考えられるので、翌年の『ヴードゥーマン』もルゴシのマッド・ドクターの出番の少ない映画でしたが、本作のルノー教授の最期は手下のゾンビに「殺れ!(Kill !)」ゾンビはルノー教授を一撃で撲殺、とコメディ映画の悪党の死に方そのものです。ちなみにサン・セバスチャン島とは架空の島で『私はゾンビと歩いた!』を踏まえており、『私はゾンビと歩いた!』について追加しておくと看護婦ベッツィ役は当初イギリス女優のアン・リーがキャスティングされるもスケジュール上の都合でフランシス・ディーが起用されたようで、アン・リーはブロンド、ディーはブルネットですがジェシカ役のクリスティン・ゴードンはブロンドですから、その点でもディーの起用は結果的に成功したと思います。また週刊誌連載の原作小説は『ジェーン・エア』を下敷きにしているそうで、『レベッカ』もゴシック・ロマンス版『ジェーン・エア』ですから類似も当然になります。『ブロードウェイのゾンビ』は主演コンビが二流、小猿の演技がベスト・アクト、ルゴシの扱いは悲惨と本国評価はまったく高くなく、古典ホラー映画中決して多くないゾンビ映画としてのみ珍重されている代物ですし、大した映画でないと言ってしまえばそれまでですが、2大スター競演作『ゴースト・ブレーカーズ』よりよっぽど楽しめるのは実質的にはノン・スター映画ならではの工夫があるからで、コメディとしてですがゾンビの見せ場もたっぷりあります。アメリカ人観客が観ると無名コメディアンの演技が寒くても、それは言うだけ野暮ではないでしょうか。