人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

集成版『偽ムーミン谷のレストラン』第八章(完)

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 最終章。
 ウェイターは依然マイクを持ったまま、服装も燕尾服のままで壁ぎわに立っていました。さきほどまで歌姫が立っていた壁の隠し舞台には無人のまま照明が照りつけていました。それは客席に居合わせたムーミン谷の人びとが自分以外のみんなはいったいこの場をどうしているのか、ひととおりさぐりあってもまだもて余すほどに長い沈黙でした。あまりに長く続くので、その沈黙はまるでひとりとして異議のない完全な同意によって保たれており、これを破るのにも全員の完全な同意を得なければ違反者はムーミン谷沖のどこかに深くあるという伝説のウロボロスの祠穴に沈められて、未来永劫ムーミン谷の呪いを肩代りする怨霊となるのを覚悟しなければならないと思われました。
 公共心以前にムーミン谷には共同体意識自体が皆無であり、秩序が未知と無秩序への恐怖から成り立っているならムーミン谷の住民は生まれながらの魑魅魍魎ですから原則的には恐怖が存在する余地はありません。ムーミン谷では知り得ないことを詮索するのは専門家に任せていましたし、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士が知り得ないことは、博士たちが知り得た大半のことも含めて、生活の上ではどうでもいいことでした--生活しないことも含めてです。ムーミン谷では死とはいなくなること、行方不明になることと同義でしたから、死への恐怖は生まれようがありませんでした。闇への恐怖も飢餓への恐怖もなかったから文明はムーミン谷の発生から発展も退化もしないのです。
 天敵というものがいなかったからだ、と指摘することは容易です。確かにムーミン谷は河川にも海岸・山渓にも恵まれていますがコヨーテやハイエナ、バッファローもおらず、ワニやサメもいません。ですが、
・ワニ「がぶかぶ」
ムーミン「うわああ」
 となってもワニの腹が裂かれればムーミンは無傷で救出され、ワニはこっぴどく叱られて川に戻されるだけでしょう。トロールが相手では天敵になる動物がいないのです。
 では疫病ならどうか、おそらくトロールはすべての感染症に免疫を持つと思われます。つまりトロールの本体は霊体であり、肉体と見えるものは死体と変りありません。だから彼らはどのようにも蘇生することができるでしょう。
 それではみなさま、とウェイターは舞台に向って体を斜めにし、当店がお送りする次の出し物をお楽しみください。
 うんざりした拍手。


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 私としても不本意なことだが、とムーミンパパは呟きました。私たちはもうかつてとは違ってしまったのではないか。もうかつての自分に戻ることはできないのではないだろうか。
 きみらしくもないじゃないか、とフレドリクソンは言いました。どうしたって言うんだい?かつての私たちとは違うとは。
 きみは発明している。
 そうだよ私は、これまでもずっと発明家だったし、今もそうだし、これからも止めないだろう。
 そうだな。そしてユールたちは……。
 彼らは夫婦でひと組だからな、きみがスニフの親代わりになってやっているからこれからも冒険の旅を続けるだろうよ。ロッドユールはロッドユールのままだしソースユールはソースユールのままだ。
 きみは最後に彼らといつ、どこで会った?
 おさびし山の中腹にラジウムを採掘しに行った時になるかな?博士たちの依頼で特殊な実験装置を作るためのパーツだったから、あれからいくつか季節が過ぎたことになる。
 季節……季節とはなんだろうか?
 昼間の時間と夜の時間が周期性を持って変化する。それにつれて気候や植物の成育もはっきりした変化がある。われわれは直感的にそれを知る……だろう?
 直感的……。
 ……そして季節はわれわれにその時々の果実や根菜、葉野菜をもたらす。きみが変化と言うのはそれか?
 それもある。
 だが真冬にトマトは生らないし、銀杏も毎年同じ季節に落ちる。変化ではなく循環しているだけなんだ。
 きみも循環しているのか、フレドリクソン?あの勇敢なユール夫妻もその冒険の本質は循環にすぎないということか?
 きみは何を言いたい?われわれの営みや自然の運行は確かに変化ではなく循環ではあるだろう。だが積年のうちには小さな量的変化の堆積が質的変化に転じることもある。きみは私たちはかつてとは変ってしまったと言いながら、まるで単なる惰性に堕したかのように言いたげに見える。
 では限定しよう。わが友フレドリクソン、私はかつての冒険家ムーミンに見えるかね?
 それは……かつて冒険家ムーミンであり、今は家庭人となったムーミンパパに見えるよ。だがそれは望んだ変化だったはずだろう?
 そうだ。ならばこの疲労感はなんだろう。私は博士に訊いてみた。博士は哲学者でもあるから。博士は当然だ、トロールに成長はないからと言った。
 つまり……?
 私は歳をとった、ただそれだけのことさ。


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 二人のフローレンは向かい合って手のひらを合わせ、同期を完了させ記憶を共有すると、話し合いは簡単に終りました。
・レストランごと爆破
 ――それしかない、というのが二人の一致した意見でした。ですがその前に、二人のフローレンの存在に多少簡略でも言及しておいた方がいいでしょう。
 久しぶりね、と顔をあわせるとF.フローレンとフローレンA.は女性トイレの片隅に次元断層を作り、秘密の会話をするために不可視・不可触なその空間に自分たちを情報化して転送しました。これはトロールには誰しも潜在的に備わっている能力ですが、トロールの普遍的属性にはぼんくらでうすのろという美徳も伴うため、普通のトロールは死期を迎えるまでそれに気づかないのです。
 ですから、生きているトロールには死とは消滅であるか、または滅多にないことですが肉体の完全な活動停止として誤認されることもあります。これは正確には活動を停止した肉体ではなくて、情報化不完全な転送の残滓にすぎません。
 ムーミン谷でこの能力に覚醒しながら生活しているのは元ノンノンことフローレンだけでした。谷の辺境に位置するらしい巨大ソープランド……辺境は確かだが場所は一定しないらしい、温泉の魔女が支配するその施設に徴発され、ノンノンと呼ばれて強制労働させられているうちにフローレンには自分をF.フローレンとフローレンA.に分離も統合もできる能力が芽生えたのでした。これはどういうことかというと、二倍働くことも可能なら交互に休むことも可能ということでした。F.とA.というのも二人が直観的に一方をfictionalでもう一方をaltarnativeと理解したのにすぎません。女のカンに理屈はないのはトロールでも同じらしいので、フローレンとは実は一人のようで二人いる、それは誰も知らない彼女だけの秘密でした。
 あるいはフローレンは強制労働下で何らかの理由で落命した、そこで落命の記憶を持たない新たな二人のフローレンが生まれた、とも考えられます。ならば今はフローレンは死後の世界を生きているわけですが、世界の連続性は記憶の中にしかないのです。ムーミン谷で他人をあてにするほどあてにならないことはない。ですが彼女の危機察知能力は今、レストランの出現に激しく反応していました。爆破しなければ、あのレストランを。


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 フローレンが戻ってくるとテーブルはかなり入り乱れており、特に子供がこんなにいたっけとミムラとミイのテーブルを向けば数人の兄弟姉妹しかいないのを見ると、正体不明のガキどもはミムラ族からはぐれたに違いない。長女で母親代わりのミムラと、とにかく小さく年中キーキーうるさいミイを除けば30人を越す彼らミムラ族の兄弟姉妹は性別年齢すら識別不可能で、状況的にミムラとミイがいなければミムラ族の子供とすらわかりません。フローレンはかなり、をすっかりに訂正しました。
 彼女はスノークの姿を探しましたが、兄の方が先にフローレンを見つけました。よおフローレン、とスノーク、やはり女のトイレは長いな。フローレンは顔をしかめました。彼女が似合わないと言ったのにスノークは自慢のネクタイをしてきましたが、しぶしぶ出掛けに結び目を整えてやったのに(自分では結べないので)今ではそれは誇示するように酔っぱらい結びになり、両端を背中に垂らしています。へへへ、とわざと好色めいて笑うそぶりは、彼女がもっとも忌み嫌うものでした。妹が客の袖を引く過去を持つことへのあてつけのつもりなのです。
 どうしたの、とフローレンは冷たく訊ねました、私がいない間に何があったの、と言葉を継ぐより早く、シルクハットを前傾45度にかぶったムーミンパパがものすごい足音とともに、やあフローレン!と突進してきました。しかも隣にスナフキンがとっさのダッシュでゼエゼエというあり得ない光景。よく見れば二人は手錠でつながれ、ムーミンパパが得意気に胸元に握りしめた縄はヘムル署長を先頭に男性客の腰を一列に結びつけていました。なるほど足音がものすごかったわけです。とフローレンが感心するわけはなく、ムーミンパパを無視し、ついでに助けを求めるスナフキンの眼差しも無視すると、どうやら女性たちは数人ずつレストランの隅に避難している様子からたぶんそれほど普段よりいかれてはいないと見当をつけました。
 しかしどこのグループなら頼りになるか。ミムラとミイはあまりに無力だし、ムーミンママは強力だが未来の宿敵、フィリフヨンカさんたちはびくびくしながらどうせ婦人議席の拡充とか無駄な正論を話しているだけに違いない。すると、フローレンはようやく事態を収拾できる唯一の存在に気づきました。
 ねえムーミン、とフローレンは呼びかけました、こっち向いて。


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 どうしたんだい、フローレン、と偽ムーミンはびくびくもので向き直りました。ずいぶん顔がこわいよ、と言いながら偽ムーミンは思考を高速回転させていました。何か本物のムーミンらしいことを言わなければならない。それは本物のムーミンには必ずしも思いつかないとしても、当面の相手がムーミンから期待しているような応答になる。
 そこでおそらく望まれているムーミン像は、
・基本的に天然無垢
・だいたいは的外れ
・ときどき図星を突く
 というようなものだろうと、漠然と偽ムーミンは考えていました。もちろん各人のムーミンに対する態度は微妙に異なるもので、ミイが遠慮なく馴れ馴れしいのはムーミンを対等以下と見倣しているのはわかりやすい例ですし、スノークとなると完全に子供扱いで、スナフキンは一緒に夕陽を見ている時などムーミンの手に手をそっと重ねてきたりもします。偽ムーミンが入れ替わっている時にも何度かそれはありましたが、覚られないように表情を見るとスナフキンは夕陽に顔を向けているだけで、瞳孔は大きく開いて、ほとんど眼全体を黒目にしていました。ムーミンの手を取って何か愉悦を感じているのです。これは偽ムーミンの入れ替わりに気づかれてはいない証拠でもありますが、薄気味悪いことでした。
 ですが偽ムーミンにとってもっとも苦手な相手はフローレンです。こいつは婚約者の資格でどんなに滅茶苦茶な質問、無理難題の要求すらできると思ってやがるんだ。相手がムーミン本人なら構わない。だがおれが入れ替わっている時にこいつに関わるのは真っ平だ。だけど今は何か無難なことを言わねばならない。偽ムーミンはフローレンが席を外して戻ってきたらしいことを察しました。そうでなければわざわざ話かけてくる用もないはずです。
 どうしたの、お兄さんと何かあったのかい?とするりと、ただし大して心配した様子もなく台詞が出て、偽ムーミンは内心ガッツポーズをとりました。偽ムーミンの知る限り、スノークとフローレンの兄妹仲はうわべは睦まじく水面下はドロドロであるはずです。この兄妹はともに見栄が強いから、フローレンの答えはいいえ、何も。それ以上に会話は進まないでしょう。
 しかし偽ムーミンは読みを誤りました。フローレンは真顔で尋ねてきたのです。私が少し席を立った間に、レストランでいったい何があったの?


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 その頃ムーミンは全身拘束具を架せられ手も足も出ない状況にありました。幸い横たわった姿勢で、四肢もなんとか伸ばせますので、拘束というよりは一種のサナギに包まれているような状態です。たぶんこれがナンバーキーなんだろうな、という数字の文字盤が手の触れる位置にありました。ムーミンは四桁を目安に何度か数字を入力し、エンターキーと思われるものを押してみましたが、見えないので仮に0から9の数字が回転式の表面に刻印されていたとして、10の四乗ですから一万通りの組み合わせがあることになり、暇つぶしにはもってこいですがあまりに単調ですから、さすがのムーミンでもこんなことは試みない方がまだましとすぐに諦めました。このナンバーキーが拘束解除と決まったわけでもないのです。自爆スイッチだったらシャレになりません。
 もっともムーミンがこの拘束具に拘束されるのは今回が初めてではなく、肉体ごとのすり替わりではなく精神交換で偽ムーミンとの入れ替わりを強要される時はいつもこの手口が使われました。強要といってもムーミンが言い負かされて従っているので任意でもあり、同時に二人のムーミンがうろうろしているのはまずいだろ?なるほどそれももっともで、こうしていなければ退屈で出歩きたくなるだろ?それもその通りなのでムーミンは大人しく拘束、ただし肉体的には偽ムーミンの状態で拘束されていました。拘束されているのも退屈きわまりないことですが、精神交換の唯一の楽しみは同期している偽ムーミンの活動状況が情報としてのみわかることで、読めるだけでテレパシー会話はできませんがムーミンはレストランで偽ムーミンが見聞きしたすべてを識ることができました。
 そしてムーミン本人は一切の刺激がない状態ですから、皮肉なことにこの場合拘束されたムーミンが認識主体で、偽ムーミンは情報端末でしかないとも言えるのです。特に偽ムーミンが混乱した状況にあるほどムーミンは事態を冷静に判断できますから、フローレンはどうやら別のフローレンになって戻ってきたようだな、と気づきました。それなら彼女にはきっと何か企みがあるんだ。現に彼女は自分が席を外した間に何があったか気にしている。即答ができずに困っていると、ねえムーミン教えてよ、とフローレンは食い下がってきました。それともこう呼ばなくちゃ駄目かしら……教えてよ偽ムーミン


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 これはいったいどういうことか、と平静を装いつつ、偽ムーミンムーミンからのフィードバックを期待しましたが、精神交換して情報は同期していても思考まで読めるわけではないのです。変だよフローレン、と偽ムーミンはなんとか間抜けな笑顔を浮かべ、きみまで様子がおかしいよ、と、言ってしまってから冷や汗が滲みました。どんなことであれフローレンを余計に刺戟しないに越したことはありませんが、口にしてしまったからにはもう手遅れです。まあ隣にお座りよ、と偽ムーミンは椅子を引きました。
 フローレンは無言で一歩前に近づいてきました。彼らの背丈はほぼ同じですが、偽ムーミンは腰かけていますから、立ったまま無言でいるフローレンからの威圧感は相当なものでした。彼女が自信ありげにおれを偽ムーミンと呼ぶのは、彼女自身がそう気づいたのか、それとも秘密を知っている二人のどちらか、ムーミン本人か図書館司書が洩らしたのか。どちらも考えられないことだ。では?
 ちょっとくらいヒントをくれよムーミン、少なくともこの女のことはお前が一番よく知っているはずなんだろ、と偽ムーミンは思考を巡らせましたが、この事態はムーミンには偽ムーミンを通して届いているはずなのに、ムーミンからのリアクションはまったくないのです。彼らは二人ともインプットはあってもアウトプットはない状態のため、偽ムーミンが探りを入れてもムーミンただ今拘束中という感覚が確かめられるだけです。使えない奴、と偽ムーミンは腹を立てましたがこういう仕掛けにしたのは偽ムーミン自身なので、不測の事態を呪うしかありませんでした。
 そうだ、と偽ムーミンは立ち上がりました、スナフキンに訊いてみようよ。これはいい提案だと思ったのですが、フローレンはふん、と鼻で笑うと偽ムーミンの引いていた椅子に腰をおろしました。
 無駄よ、見て判らないの?ん、とスナフキンを見るとまん丸の黒ぶち眼鏡に赤っ鼻と口ひげ、さらにタキシードを着せられて、いかれた踊りを嫌々やらされているようでした。あんなところに声かけられると思う?確かにそれは難しい、と偽ムーミンも思わざるを得ません。でもぼくだって説明できないよ、きみが席を外していた間、というのはいつからなのかも知らないんだから。
 だったら体に訊くしかないわね、とフローレンは手袋を外しました。


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 フローレンは素早くうつぶせに倒れた偽ムーミンの死体にかがみこむと、頭をつかんで頸椎をごきり、と捻りました。フローレンの眼はムーミンの神経系に再びニューロン伝達が復帰するのを目視することができましたから、どうやら目的は達せられたようでした。
 レストランの中では相変わらず男たちは乱痴気騒ぎに興じ、女子供は壁ぎわに避難して怯えていましたから、あえてフローレンが不可の視フィールドを張らなくても気取られることはなかったでしょう。フローレンの手際は素早く、見た目には気分のすぐれない様子のムーミンに彼女が話しかけ、たまたまそのタイミングで卒倒したムーミンを彼女が介抱したようにしか見えなかったはずです。
 それほど素早くフローレンは偽ムーミンを瞬殺し、死の瞬間に偽ムーミンの意識に浮上したすべての記憶をスキャンしました。死の概念が曖昧なトロールでさえも、具体的な死に遭遇すれば、
・走馬灯のように
 生涯の記憶が走り抜けます。時には本人の記憶から抜け落ちていたことすら浮上してくるのです。
 フローレンは偽ムーミンに近づき、一鱗の憐憫もなくこの哀れな贋者に手をかけました。想像を絶する苦界に身を置いてきた彼女にはたかだか偽ムーミンを瞬殺し、記憶を読み、すかさず蘇生させることなど雑作もないことでした。だから彼女はためらいも滞りもなく実行してしまったのですが、自分に誤算があることを考えなかったのです。
・策士策に溺れる
 とまでは言いませんが、フローレンには自分の知力や能力に関する傲慢さがありました。その点彼女もスノーク族の血統に由来する気質からは逃れられず、さらに自分がAとFの二人から成り立つという自惚れがありました。
 瞬殺した瞬間に予期し、記憶を読みながら気づき、蘇生させながら悟ったこと……それははっきり彼女の誤算を証明するものでした。
 フローレンが殺害し、生涯の記憶をスキャンし、そしてたった今蘇生させたばかりのもの。幼なじみで婚約者でもあるフローレンがこれまで一度も愛さず、その名そのものがこの谷を象徴するもの、さらに今日は彼女が気づいただけでも人目を欺いて朝から何度となく入れ替わってきたこのムーミンは、偽ムーミンでも真のムーミンでもなかったのです。それは存在し得ないはずのものでした。


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 フローレンはとっさの流れで蘇生させてしまったそれの上体を片腕抱きしながら、自分が今確かめたばかりのことがどういう意味を持つか、それに対してどのように対処すべきかまたは関わるべきではないかを考えましたが、そもそもフローレンには対処のしようもなく、望むと望まざるに拘わらず彼女はこの事態に巻き込まれていることを認めざるを得ませんでした。
 偽ムーミンとは見抜いていても、ムーミン本人とはいったいどんな取り引きの下にこのなりすまし関係が続いてきたのか、またそれがどのような手段で行われてきたか、それが不明である以上は、フローレンは仮の婚約者としても、次期ムーミン谷の事実上唯一の女王候補としてもそろそろ彼らの尻尾をつかんでおく必要がありました。
 彼ら、というのはカマトトぶりに隠したフローレンの日頃の観察からしても、ムーミンと偽ムーミンの入れ替わりは明らかに協力関係から成り立っており、それは彼らにとっては共通の利益であるに違いなく、その上確実にフローレンを除いたムーミン谷すべての住民の目を欺くものだったからです。これは極めてイレギュラーな事態でした。
 為政者でこそありませんし、そもそも平凡な子供トロールであることで、ムーミンはこの谷の秩序の礎石だったのです。無力かつ無欲、時には無気力であることさえがムーミン谷のエネルギー総量を安定させるムーミンの潜在能力でした。だから原理的に、ムーミンが偽ムーミンとつるんでいることは、買いかぶり抜きにムーミンの性格上あり得なはずでした。
 フローレンが読み取れると見込んだものは少なくとも偽ムーミン自身の記憶があり、彼らが精神レヴェルで同機しているならば偽ムーミンの記憶を通して真のムーミンにつながり、その先は創世まで遡るムーミン谷すべての集合無意識が開けているはずでした。それはフローレンも覗いたことはなく、ムーミン自身にも自覚はなく、ムーミン族の男児長子だけが特権的に受け継いできたはずの素質と思われ、そこにはムーミン族と代々交配してきたスノーク族の記憶も意地になって織り込まれているに違いなかったのです。
 私はパンドラの箱を開けてしまったんだわ。フローレンは混乱した目で店内を見渡しました。そして知らない婦人の姿を認めたのです。それは存在しないはずの女性、誰も知らないミムラ夫人でした。
 次回最終章完。


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 最終回。
 どうやらあなたがいちばん真実に近づいたようね、とミムラ夫人はフローレンに微笑みかけました。それも私は知っていたし、こうしてあなたとお会いするのも厳密には今が初めてではなく、もうずっと前からこの時は始まっていたし、私にとってはすべての時間は同一平面上に俯瞰できるものだけれど。でも今は……
 とミムラ夫人は優雅な足どりでゆっくりとフローレンに向かって歩を進めてきました、あなたの位置から観るのが私にとっても起こっている事態の本質がわかりやすい。何もかもが見えてしまうことは、時には本質を見失ってしまう場合もあるから。あなたはこういう時、「わかりかねます」なんてのたまうほどの馬鹿娘ではないわよね?
 フローレンはギクッとしました。まさに今、彼女の喉もとまで出かかっていたのが低脳まるだしの「わかりかねます」だったからです。ですがフローレンには何もかも見透かした風情で忽然と現れたこの中年婦人の方がよほど混乱を深める存在でした。フローレンが誰よりも真実に近づいたと言うなら、この婦人は真実を掌握していると自負し、またそうほのめかしてもいることになります。
 あなたは誰です?とフローレンは尋ねました。ミムラ夫人はもうフローレンのすぐ前に立っていました。見ればわからないあなたじゃないわよね、と夫人。確かに夫人の容貌は、一目でミムラ族の中年女性とわかり、否定語で表現されない以上ミイやミムラたちの直接の血縁者、順当には母親か伯叔母だと名乗っているも同然のことでした。
 あなたはもう膝の上のものも、周りを見もしないほうがいいわ。そう言いながら夫人はエプロンをひろげてフローレンの視界を遮りました。何が起きているんですか?いいから目をつぶって。でもこのお店が……。いいのよ、とフローレンの頭はエプロンごしに押さえつけられました。何もかもが燃えたり、溶けたり、消えている最中なの。あなたも見れば塩の柱になる。
 どのみち最後まであなたを助けることもできないけれど、それでもムーミンは助かるでしょうね。ムーミンがここにいなかったのはそのためで、あなたは今ここで死ぬの。それを私は見届けにきた。
 ミムラ夫人のエプロンに包まれて消えながら、フローレンはでもどうして?と呟きました。それはね、夢で出来ているからよ、谷も、お店も、あなたたちも。
 最終章完💔。


(初出2013~14年)
(お借りした画像は本文と全然関係ありません)