人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

モンキーズをもう一度


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 ザ・モンキーズをいまだに偏見の眼で見ているリスナーが多いのは嘆かわしいことで、音楽業界人や音楽批評家からすら「作られたバンド」と見なされているのをよく目にします。「タイガースやテンプターズっていうのはかなり自然発生的なGSだったけど、これ(アダムス)は渡辺プロが人為的に作り上げた、いわばモンキーズ的なGSだったね」(作曲家・村井邦彦、『日本の60年代ロックのすべて』1989年刊)、また、「(アメリカ・デビュー時のジミ・ヘンドリックスの、音楽に無知なマネージャーが)モンキーズの前座という仕事を取ってきてしまうんです。ご存じのようにモンキーズは、ビートルズを真似てアメリカのレコード会社が作った傀儡バンドですから、ジミヘンとは無縁な世界。さすがにジミヘンは途中でリタイアしたらしいですけど……」(音楽批評家・立川芳雄、『文藝別冊KAWADE夢ムック~ジミ・ヘンドリックス伝説』2018年)と言った具合です。

 しかしモンキーズは1960年代後半において、ビートルズ以上にセールスと人気を獲得したグループでした。「モンキーズは、ビートルズを真似てアメリカのレコード会社が作った傀儡バンド」というのも誤解で、正確には連続テレビ番組「ザ・モンキーズ・ショー」(1966年9月から1968年3月まで、全58回、日本では再放送10話と特別番組2話を加えて1967年10月から1969年1月まで、全70回)のためオーディションで選出された四人、デイビー・ジョーンズ(1945~2012)、ミッキー・ドレンツ(1945~)、マイク・ネスミス(1942~2021)、ピーター・トーク(1942~2019)のテレビ・タレントがモンキーズでした。テレビ番組放映に先だってシングル「恋の終列車」(1966年8月、全米1位・全英23位)がリリースされ、以降モンキーズはアルバム、シングルともにチャートを席巻する存在になります。

・アルバム
『恋の終列車』(The Monkees) (1966年10月、US#1/13週・UK#1) : https://youtu.be/odJV0iNacoc?si=PT5uFLsDAA6OHPoj
アイム・ア・ビリーバー』(More Of The Monkees) (1967年1月、US#1/18週・UK#1) : https://youtu.be/2m8wsvQ7Al4?si=6h8crQWxIo08wcxR
『ヘッドクォーターズ』(Headquarters) (1967年5月、US#1・UK#2) : https://youtube.com/playlist?list=PLl4KJVTSf0ROimloLTXympa-Hnp2GfE-6&si=Kp1n4RzzFrC3EWjR
『スターコレクター』(Pisces,Aquarius,Capricorn & Jones Ltd) (1967年11月、US#1・UK#5) : https://youtu.be/qUusNB7AXOU?si=2n3Z9cyVJ8JoNYFw
『小鳥と蜂とモンキーズ』(The Birds,The Bees and The Monkees) (1968年4月、US#3) : https://youtube.com/playlist?list=PLl4KJVTSf0RN5DnLJoRKNl2-pTCYTbVyN&si=6Mcr4Ns0oY2cyxvq

 以上の5作までが欧米諸国で「ザ・モンキーズ・ショー」が放映されていた時期で、1966年の年末発売にも関わらず『恋の終列車』は13週No.1で1966年の年間アルバム・チャート2位、『アイム・ア・ビリーバー』は『恋の終列車』に代わるNo.1アルバムとなり18週No.1(!)を記録して年間チャート1位、さらに全英チャートでもNo.1の圧倒的な大成功を収め、『スターコレクター』までの4作はいずれも全米No.1、『小鳥と蜂と~』もトップ3アルバムにしています。『恋の終列車』と『アイム・ビリーバー』の2作で1966年10月第2週から1967年6月第2週の7か月間アルバム・チャートNo.1を続いたのはビートルズが年1作に移行し、1966年の年末アルバムがなかったからでもあり、『アイム・ア・ビリーバー』の18週No.1に代わってNo.1になったのもビートルズ1967年6月リリースの『サージェント・ペパーズ』でした。テレビショー放映時期最後の『小鳥と蜂と~』の、次作のアルバム『ヘッド』(Head) (1968年11月、US#45)はモンキーズ主演映画のサウンドトラック盤でしたが、映画・アルバムともに成績は奮わず、日本を含む世界ツアーのあと契約満了に伴ってピーター・トークは離脱してしまいます。その後もモンキーズは、ピーター在籍時の録音も含むデイビー、ミッキー、マイクのトリオで、
『インスタント・リプレイ』(Instant Replay) (1969年2月、US#32)
 を、アルバム未収録シングルを含む、
『グレイテスト・ヒット』(The Monkees Greatest Hits) (1969年6月、US#89)
 を、またソロ・アーティストに転向するマイク在籍時最後のアルバムになった、
『プレゼント』(Present) (1969年10月、US#100)
 を、そしてデイビーとミッキーの二人になった、
『チェンジズ』(Changes)(1970年6月、チャート圏外)
 をリリースしますが、以降デイビーとミッキーは活動を共にするも、日本での「ザ・モンキーズ・ショー」の再放送(1980年)、アメリカ本国での再放送によるブームによってデイビー、ミッキー、ピーターが再結成した『プール・イット』(Pool It!) (1987年8月)までモンキーズ名義の活動は休止します。

 しかし「ザ・モンキーズ・ショー」放映~映画『ヘッド』時までのモンキーズのシングル・ヒットは質・量ともに‘60年代ポップスの粋と呼ぶにふさわしいものでした。ビートルズがライヴを引退して『リボルバー』(1966年8月)、『サージェント・ペパーズ~』(1967年6月)であまりにアーティスティックな方向に進んでいた時期、モンキーズビートルズと入れ代わるように鮮やかなポップ・ロックで、お茶の間の人気番組「ザ・モンキーズ・ショー」とともに広いリスナーを獲得したのです。そのシングルとアルバムはチャート成績・売り上げにおいて、1964年のビートルズの全米デビューに匹敵するものでした。

・シングル
「恋の終列車 / 希望を胸に」Last Train to Clarksville (US#1・UK#23) / Take A Giant Step (1966年8月)
「アイム・ア・ビリーヴァー(副題:恋に生きよう) / ステッピンストーン」I'm A Believer (US#1・UK#1) / (I'm Not Your)Steppin' Stone (US #20) (1966年12月)
「恋はちょっぴり / どこかで知った娘」A Little Bit Me,A Little Bit You (US#2・UK#3) / The Girl I Knew Somewhere (US #39) (1967年3月)
「プレザント・バレー・サンデイ / 恋の合言葉」Pleasant Valley Sunday (US#3・UK#11) / Words (US#11) (1967年7月)
「デイドリーム / ゴーイン・ダウン」Daydream Believer (US#1・UK#5) / Goin' Down (US#104) (1967年10月)
「すてきなバレリ / タピオカ・ツンドラ」Valleri (US#3・UK#12) / Tapioca Tundra (US#34) (1968年2月)
「D・W・ウォッシュバーン / 君と一緒に」D.W.Washburn (US#19・UK#17) / It's Nice To Be With You (US#51) (1968年6月)
「ポーパス・ソング / アズ・ウィ・ゴー・アロング」Porpoise Song (US#62) / As We Go Along (US#106) (1968年10月)

 「ポーパス・ソング」はサントラ盤『ヘッド』からのシングルですが、四人のメンバーの揃っていたこの時期に全米No.1ヒットが3曲、トップ3圏内なら5曲、トップ5圏内なら6曲があります。イギリスでもトップ5圏内が3曲、うち1曲がNo.1ヒットです。シングルAB面がともにチャート・インした例も多く、こと人気とセールスで言えば1966年秋~1968年春までの1年半のモンキーズビートルズを抜いた位置にありました。

 モンキーズはテレビ・プロデューサーのドン・カーシュナーが立ち上げたテレビの連続ドラマ・プロジェクト「ザ・モンキーズ・ショー」で「バンドを組んでいる隣のお兄さんたち」という役柄で主演をしていたグループでした。むしろそのキャラクターは、ビートルズよりもアメリカ本国のラヴィン・スプーンフルやボー・ブラメルズをロール・モデルとしたイメージが強いものです。オーディションで選ばれた四人は最初からプロ意識が高く、リード・ヴォーカル&ドラムスのミッキーはバンド歴があり、イギリス出身でリード・ヴォーカルのデイビーは子役時代から芸能界で活動しており、ベース&オルガンのピーターはニューヨークのフォーク・シーン出身で、ギタリストのマイクはすでにソングライターとしての実績があるミュージシャンでした。マイクの友人だったスティーヴン・スティルス(バッファロー・スプリングフィールド~クロスビー・スティルス&ナッシュ)やピーターの知人ジェリー・イエスター(モダン・フォーク・カルテット~ラヴィン・スプーンフル)らもオーディションに参加して落ちたそうですが、才能、ルックス、キャラクターなどあらゆる面からミッキー、デイビー、ピーター、マイクに落ち着いたのがモンキーズの成功につながったのは間違いありません。デビュー当時すでに熟達したミュージシャンはマイクとピーターだけだったので、同時制作された『恋の終列車』と『アイム・ア・ビリーバー』ではプロダクションはモンキーズ向けに最高のレパートリーを一流ソングライター陣に依頼し、レコーディングはフィル・スペクター門下生のレッキング・クルーやヴェンチャーズのジェリー・マギー(ギター)などハリウッドのトップ・ミュージシャンによって行われましたが、ミッキーとデイビーの二人のヴォーカルはすでに一流ミュージシャンのバックがふさわしい貫禄のあるものでした。モンキーズはシングル、アルバム1作毎に自分たちの演奏の比率を高め、サード・アルバム『ヘッドクォーターズ』は初めてモンキーズの四人のみがヴォーカル、演奏を手がけたアルバムとしてリリースされました。この頃からテレビ・プロデューサーのカーシュナー独裁体制が弱まり、より主導権を得たモンキーズは自分たちで敏腕ポップス・プロデューサーのチップ・ダグラスをレコード制作に迎え、「作られたバンド」から団結力の高いプロフェッショナルなバンド(それはデビュー当時から四人全員が目指していたものでした)としての体制を築いていきます。

 四人中もっとも芸能人らしくなく、ヒッピー指向だった自由人かつピーターは、テレビ・シリーズの終了、映画『ヘッド』、世界ツアーと契約満了とともにバンドを去ってしまいますが、これは「モンキーズのピーター」としての活動と2年間もの過密スケジュールに区切りをつけたかったのでしょう。当初からミュージシャンだったマイクはカントリー・ロックのアーティストとしてのソロ・デビューの機会を待ちながらトリオになったモンキーズで『インスタント・リプレイ』『プレゼント』で存在感を示したのち、マイク自身のバンドを組むために脱退します。看板ヴォーカリストの二人、ミッキーとデイビーはモンキーズ初期からモンキーズ楽曲の主要ソングライター・チーム、ボイス&ハートの協力によって『チェンジズ』をリリースしますが、時はすでに1970年、従来からのモンキーズのファンも新しいポップス、ロックの潮流に関心を移しつつありました。以降‘80年代の「ザ・モンキーズ・ショー」再放送による新規ファンの獲得まで、ミッキーとデイビーはソロやデュオの歌手として活動していくことになります。

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 映画『ヘッド』のサントラ盤はともかく、モンキーズの絶頂期のオリジナル・アルバムは四人が揃っていた時期の『恋の終列車』『アイム・ア・ビリーバー』『ヘッドクォーターズ』『スターコレクター』『小鳥と蜂とモンキーズ』の5作で、うち1966年10月(実際には9月でしょう)の『恋の終列車』、1967年1月(これも実際には1966年12月には店頭に並んだと思われます)の『アイム・ア・ビリーバー』はテレビ・シリーズの開始に合わせて一気に制作され3か月も置かずにリリースされたもので、モンキーズの四人にもリリース予定が知らされていなかったといいます。実際半年ごとにリリースされた第3作~第5作の『ヘッドクォーターズ』『スターコレクター』『小鳥と蜂とモンキーズ』と初期2作の『恋の終列車』『アイム・ア・ビリーバー』はサウンドの質感が異なり、名曲「灰色の影」を含む『ヘッドクォーターズ』、「プレザント・バレー・サンデイ」を含む『スターコレクター』、「デイドリーム」を含む『小鳥と蜂とモンキーズ』に較べると、『恋の終列車』(タイトル曲ほか「サタデーズ・チャイルド」「自由になりたい」収録)、『アイム・ア・ビリーバー』(タイトル曲ほか「メリー・メリー」「ステッピング・ストーン」収録)はアメリカ最高のスタジオ・ミュージシャン集団、レッキング・クルーをバックバンドにしながらラフな、ほとんどガレージ・ロック(しかもとびきりの出来!)に近い感触があります。モンキーズ最初の5作はいずれも甲乙つけ難いポップ・ロックの名盤ながら1作1作に特色があり、特に双生児的な第一作と第二作『恋の終列車』『アイム・ア・ビリーバー』はガレージ・ロック的観点から聴いても‘60年代ロックの逸品でしょう。セックス・ピストルズが「ステッピング・ストーン」をカヴァーしていたのも伊達ではないのです。

 そこで悩ましいのは、もともとフィル・スペクターがフィレス・レーベルのアーティストのプロデュースのために集めてきた凄腕ミュージシャンたち、レッキング・クルーの存在とその役割です。1999年にBMIが集計した「20世紀ポップスで最高の売り上げを達成した楽曲」のトップ3(カヴァー・ヴァージョンすべての集計)では1位が「ふられた気持」(オリジナルはライチャス・ブラザース)、2位が「ネヴァー・マイ・ラヴ」(オリジナルはアソシエーション)、3位が「イエスタデイ」になるそうで、ライチャス・ブラザースもアソシエーションも演奏はレッキング・クルーですから、ビートルズの「イエスタデイ」を押さえて1位と2位のオリジナルがレッキング・クルーの仕事、という驚異的な集計結果が明らかになっています。ハリウッドのスタジオ・ミュージシャン集団レッキング・クルーというとドラムスのハル・ブレインが真っ先に浮かんできますが、レッキング・クルーが‘60年代~‘70年代にレコーディングに携わったアーティストはフィレス・レーベルのアーティストを始めとして、ジャン&ディーン、ソニー&シェール、ザ・バーズ、ザ・モンキーズビーチ・ボーイズ、ママス&パパス、アソシエーション、フィフス・ディメンションエルヴィス・プレスリーフランク・シナトラ、サイモン&ガーファンクル、カーペンターズまでおよびます。「ネヴァー・マイ・ラヴ」「ウィンディ」「チェリッシュ」の3曲のNo.1ヒットを持つアソシエーションはソフト・ロックの祖として尊敬を集めるバンドですが、ライヴではバンド自身の演奏を聴かせても、レコーディングではアレンジ、演奏をレッキング・クルーに依頼していました。上記の名だたるアーティストも程度の差はあれ同様です。日本でも日本のレッキング・クルーと言うべき一流ジャズマンたちが多くのGSロックバンドからメジャーのフォーク勢までレコード制作に関わっていました。実力派グループのトップ・バンドと定評のあったゴールデン・カップスですらスタジオ盤はピアノに江草啓介、ベースに江藤勲、ドラムスに石川晶といったジャズマンをセッション・プレイヤーに迎えていたくらいです。モンキーズは質の高いシングル、アルバムを送り出すためにレッキング・クルーを始めとするトップ・クラスのスタジオ・ミュージシャンを起用していましたが、その点ではビーチ・ボーイズザ・バーズ、アソシエーションと変わりなく、テレビ番組出身のグループというだけで不当な「作られたバンド」「傀儡バンド」呼ばわりをされました。しかしモンキーズはシングル、アルバムの質の高さ、1980年代からデビュー50周年のたびたびの再結成までファンの期待を裏切らない、プロフェッショナルなアーティスト意識とエンタテインナー意識を貫いた存在でした。モンキーズについてはまた回を改めて、再結成以降の傑作アルバムともどもご紹介したいと思います。