人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

詩の愉しみ(1・山村暮鳥)

まず大好きな室生犀星の晩年の佳作を紹介する。西脇順三郎が「マラルメ以上にマラルメ的」と絶賛した一篇だ。題して「舌」。

みづうみなぞ眼にはいらない、
景色は耳の上に
つぶれゆがんでいる、
舌といふものは
おさかなみたいね、
好きなやうに泳ぐわね。

この詩の解説は最後にして、大正期に犀星・萩原朔太郎・大手択次と共に新鋭として注目された山村暮鳥をご紹介したい。この4人のなかで岩波文庫に入っていないのは暮鳥だけ。没後90年近く経った今でも評価が定まっていない。もとより生前から賛否両論で、1915年の第2詩集「聖三稜玻璃」は暮鳥をノイローゼにさせるほどの悪評を買った。巻頭作「囈語」。

窃盗金魚
強盗らっぱ
恐喝胡弓
賭博ねこ
詐欺更紗
涜職びろうど
姦淫林檎
傷害雲雀
殺人ちゆりつぷ
堕胎陰影
騒憂ゆき
放火まるめろ
誘拐かすてえら

これでは賛否両論も仕方ない。ダダイズムシュールレアリスムに先立って、暮鳥は独自に現代詩の地平を切り開いてしまった。
「囈語」は極端だが、同じ詩集でもこの辺りは理解しやすいのではないか、と思われる作品もある。多分この二篇は同じ発想で書かれている。まず「岬」。

岬の光り
岬の下にむらがる魚ら
岬にみち尽き
そら澄み
岬に立てる一本の指。

「一本の指」とは灯台のことだ。次に「いのり」。

つりばりぞそらよりたれつ
まぼろしのこがねのうをら
さみしさに
さみしさに
そのはりをのみ

暮鳥は牧師だった、と言えば両作品ともテーマは明確に読み取れる。時代は跳ぶが1977年に死去した石原吉郎キリスト教詩人だった。最晩年の作品から「風」。

男はいった
パンをすこし と
すなわちパンは与えられた
男はいった
水をすこし と
水はそれゆえ与えられた
さらにいった
石をすこし と
石は噛まずに
のみくだされた
そのあとで男はいったのだ
風と空をすこしずつと

石原吉郎はまた回を改めてご紹介したい。

ところで冒頭に引いた室生犀星の「舌」、何を描いているのか解りましたか?