前回は「アリスの地獄めぐり」なんていう不穏な言葉で中断した。人生を地獄めぐりというのはキリスト教文化圏ではほとんど基本的な発想になっている。「シエナが私をつくり、マレンマが私を滅ぼした」(ダンテ「神曲」)と言って出典を当てられない人はいない。だからどうだっていうのだ、イタリアに「神曲」あれば日本には「平家物語」があるんだぞ、と言いたいところだがやはりこの世とあの世の捉え方が大きく違う。形而上の論理がこちとらには欠落しているというか、もともとそういう発想がない。無目的なだけで合目的的ではまったくない。例として挙げるのは適当かどうか、中学生の時に露出症とすれ違ったという女性へのコメントを流用させていただく。
「ぼくも似たような体験があります。3年くらい前の冬かな、夜10時頃にコンビニで買い物した帰り道、背後から全裸の20代の男が走ってきてぼくを追い抜き、それから車がぼくを追い越して男は車に拾われて去って行きました。夜道はぼくだけ、こんな中年男しか目撃していないのにストリーキング(笑)してなにが面白いんだろうかと虚しい気分になりました、とさ」
ストリーキング(笑)。今どきの人に通じるのだろうか?
ちなみに図版は裸になるのがカッコいいとされた時代の日本のロックのアルバム。上がフラワーズ(1969年)、下がフラワー・トラヴェリン・バンド(1970年)、どちらもプロデュースは内田裕也である。メンバーは嫌で嫌でたまらず、フラワーズの「日本のジャニス」麻生レミさんは泣いてしまって合成写真になったそうだ。
いきなり話題が転じるが、ダンテで始めたからそう唐突でもないだろう。入院中の読書のことだ。談話室の本棚にそこそこ、まるで食指をそそられない本が置いてあった。こういう時こそ自分からは読まない本を読むいい機会だ。点滴が外れて意識が戻り、マンガもけっこう読んだが小説や評論では1週間のうちにこれだけ読んだ。
・原武史「昭和天皇」
・H.G.ウエルズ「宇宙戦争」
・アガサ・クリスティー「スタイルズ荘の怪事件」
・夏目漱石「文鳥・夢十夜」
・小松左京+谷甲州「日本沈没・第二部」
・東野圭吾「手紙」
・新渡戸稲造「修養」
・村上春樹「神の子どもたちはみな踊る」
・藤沢周平「花のあと」
・佐江衆一「長きこの夜」