今回は戦前のモダニズム短歌を代表する前川佐美雄(1903-1990)と斎藤史(1909-2002)を紹介する。共に名家の子弟・子女で同人誌仲間だった。それぞれの処女歌集より抄出する。
春の夜のしずかに更けてわれのゆく道濡れてあればつつしみぞする
かなしみはついに遠くにひとすぢの水をながしてうすれて行けり
床の間に祭られてあるわが首をうつつならねば泣いて見ていし
幾千の鹿がしづかに生きている森のちかくに住まうたのしさ
このうえもなき行のただしさはいつか空にゆきて星となりたる
ほのぐらいわが影のなかにふと光り土にもぐれる虫ひとつあり
とまっている枕時計のねぢかけるこの真夜なかの何もないしづかさ
もういちど生まれかわってわが母にあたま撫でられて大きくなりたし
おとうとがアルコール詰にしているは身もちの守宮愛しき眼をせり
ぞろぞろと鳥けだものをひきつれて秋晴の街にあそび行きたし
ヴェランダに地図をひろげてねむりいぬコンゴの国はすずしそうなり
カンガルの大好きな少女が今日も来てカンガルはいかがいかがと聞く
(前川佐美雄「植物祭」1930年)
白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待とう
くろんぼのあの友達も春となり掌を桃色にみがいてかざす
アクロバティクの踊り子たちは水の中で白い蛭になる夢ばかり見き
飾られるショウ・ウィンドゥの花花はどうせ消えちゃうパステルで描く
岡に来て両腕に白い帆を張れば風はさかんな海賊のうた
野に捨てた黒い手袋も起きあがり指指に黄な花咲かせだす
布に汚点ある喫茶店などに入り来て蝿もわれらも掌を磨る午後は
たそがれの鼻唄よりも薔薇よりも悪事やさしく身に華やぎぬ
定住の家をもたねば朝に夜にシシリイの薔薇やマジョルカの花
遠い春湖に沈みしみずからに祭りの笛を吹いて逢いにゆく
春を断る白い弾道に飛び乗って手など振ったがついにかえらぬ
濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ
(斎藤史「魚歌」1940年)