人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(4)詩人氷見敦子・立中潤

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芸能・芸術ジャンルを通じて、詩人ほど多くの夭逝者を生み出した歴史を持つ分野はない。開国後の日本の詩で初めて西洋叙事詩・抒情詩の摸倣ではない、自我の探求をテーマにした詩人は北村透谷・中西梅花だが、透谷は自殺、梅花は急逝と、どちらも精神疾患が推定される。

詩はあまりに孤独で報われること少ないものなのだ。ごく一部の例外を除いて、無視か嘲笑の対象でしかない。集団制作的な要素もない。事故、病気、自殺…とほとんど精神疾患と同じ危険を辿るのも、卵が先か鶏が先か、というのと同じ設問に入るだろう。

立中潤の生前の不評は、あまりにも日本現代詩史の負の歴史を体現していたことだった、と今読むとわかる。戦前の「赤と黒」のダダイズム、戦中~戦後にかけてモダニズムを消化した「荒地」グループ、吉岡実・那珂太郎ら詩誌「ユリイカ」を舞台にシュールレアリスムの今日的表現を試みた詩人たち、ただひとり「荒地」と「ユリイカ」の架け橋となる存在だった堀川正美…これらの影響を一身に負って、無惨な初期詩篇と無理を煮詰めた第一詩集しか生前に公刊できなかったのが立中潤だった。

第一詩集の刊行(74年11月)まもなく詩集の失敗と大学卒業を期に、第一詩集と共にまとめてあった第二詩集の原稿を焼却する(75年3月)。3月に敬愛する批評家・村上一郎が、4月に中学時代からの親友が自殺。最晩年まで詩作と同人誌活動は続く。5月20日自殺、享年23歳。素人判断ではあるが、都会生活と帰京(愛知県H郡)とのギャップ、縁故就職、恋人との別れ、詩作への挫折感、親友の自殺がひと月ほどの間に集中したのだ。就職は先伸ばしにし、家族からも離れて入院なりひとり暮らしなりでメンタル・クリニックの指導の下にじゅうぶんな静養が必要だっただろう。

だが立中は「どうしても無理になったら、死ぬ」という考えだった。批評家・村上一郎の自殺は躁鬱病との関連が指摘されたが、立中は死の先月の同人誌で村上の自殺を思想的信条によるもの、と断言し、併せて親友の農薬自殺(学校教師に就任後2週間目)の死の意味を考えている。あまりに自分に引きつけた解釈という感もあるが、第一詩集では外から描かれていた「死」が晩年の詩群では立中自身の「死」になったのだ。それは村上一郎や親友の自殺を媒介としたものだったと、今読むとわかる。