人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

緑色の目の男

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月曜(8月6日)は緑内障予備軍の診断を受けてしまった。老眼で検査を受けたのが3か月前で、その時に指示された通り今日は内科・精神科の後に眼科を受診したのだ。
「前回も左目の上辺部に視野欠損がありましたが」
と眼科の先生、「今回はもっと悪いですね。右目は健康ですが。眼圧を下げる目薬を射しましょう」
前回もらってきたハンドブックで、視野欠損は治療によって回復はしない、進行を遅らせるだけ、というのはわかっていた。事実上、生涯治療になる。内科で受けている高尿酸値と高脂血症が、精神科の先生の指摘通り関係あるだろう。濁った血液が網膜にダメージを与えているのだ。

「佐伯さんはそっちの病気で死にそうだな」
と主治医、「まあこれまでいつ死んでもおかしくなかったんだから、なにが原因になるかわかったもんじゃないが」
「死ぬのはともかく、盲目は困りますよ。まだ聴力を失うほうがいい。ひとり暮らしで後天的盲目じゃ生きていけない」
「つらいのは同じだと思うけどね」
「もし盲目になったらメンタルの方で理由つけて入院させてください。生涯入院で余生を送ります」
「それも気が進まないなあ。今のアパートで一生暮らしなよ。病気の面倒はずっと見るからさ」

メンタルの主治医とはほとんど中年男同士のブラック・ユーモアに近い会話になる。おそらくぼくは患者でも例外だろうというくらいずけずけと会話をやりあっているのだ。
ぼくの発症までのいきさつ、家庭生活の破滅と入獄、保釈後の行き詰まり、さらに次々と降りかかってくるトラブルなど、ぼくくらい明確に双曲性1型躁鬱病であればその都度自殺を図ってもおかしくない、らしい。アルコール依存症と断定されたのもぼくの充実した経歴からだ。結局、ぼくはアルコール依存症ではなく、療養生活に虚しさを感じることはあっても自殺は過去のいつ、その渦中にあっても願わなかった。

そんなわけで主治医はぼくが鬱の時には「どん底だね。落ちるところまで落ちたな」、躁の時には…躁の時はほとんど覚えていないが、とにかく蹴落とすようなことを言うのが方針のようで、もともと自殺しない患者だから、病識が明確にあれば事故(これは重鬱・重躁・躁鬱混合の時に要注意)にも気をつける。ぼくは躁鬱病としてもどこか外れたところがあるようだ。病気がか、人間がか?